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宇都宮=宇宙の宮!

2022.11.04 04:26

https://ameblo.jp/ohanakeiko/entry-12346708391.html【宇都宮=宇宙の宮!日光に世界の中心になる秘密が…篠崎崇さんのお話会に参加しました】より

先日は、宇都宮まで、こちらのイベントに行ってきました!

「アーティスト篠崎崇のあちらの話 真実の歴史編」

(こちらが篠崎さんの絵。死んだ人の魂を呼び覚ます絵なのだとか!岡本太郎さんが乗り移って描いている・・・びっくり)

お話会は、いつもお世話になっているマダムkeiこと熊倉 恵子 (Keiko Kumakura)さんが主催されていると知り、(あら!このテーマはまさに私が今、福島での歴史トークのために知りたいこと!)と、申し込んだのです。

10時にスタートして、帰ったのが19時近く?!

9時間近くも缶詰だったにもかかわらず、篠崎さんの話が面白すぎて、あっという間の時間でした!いやー、本当にすごかった!まずスケジュールはこちら

…ということでしたが、1つ1つが壮大すぎて、メモが追いつかない!!気がつくと11ページも!

篠崎さんの情報量はハンパない!ソースの元にしている人脈もスゴイ!カバラの謎まで解いてしまう・・・

その中で特に知ってよかったのは、

・人類の祖先をつくったシリウス・オリオン・アヌンナキの関係がわかった!

・なぜ世界では戦争が絶えないのか?がわかった!

・ガイアの法則で、地球の文明の中心が2012年から135度線の日本に移ったのだが、その拠点がわかった!

・裏天皇と呼ばれるヤタガラスについてわかった!

・日本人がなんども戦争や侵略に踏み込まれそうになっても生き永らえている理由がわかった!

・月の裏に何があるか?火星の裏に何があるのかわかった!

・織田信長、明智光秀、空海の関係がわかった!

・大化の改新の事実と聖徳太子の正体がわかった!

・イスラエルの失われた12部族と日本に来た部族を覚えられた!

・フリーメーソン、イルミナティの正体は?

・3.11直後に現れた葉巻型UFOの正体は?

そして、今回のテーマ、「栃木、宇都宮、日光」の本当の役割について!

これがもう、目からウロコというか、誰も知らない情報ばかりで、口があんぐりでした・・・(^_^;)

(うわー、この話、栃木の人が知ったら、ビックリ仰天だよーー)と心の中で何度も叫んでいました(^_^;)

日光に、尾瀬に、あの場所に、○○が隠されている!!

キーワードは、「家康」「天海和尚」「豊臣秀吉」「平将門」「平清盛」「華厳の滝」「北斗七星」「尾瀬」「明智平」「東照宮」「DNA」「シリウス」・・・

そして、ノーマークだった、広島宮島の厳島神社と日光の関係・・・

まさか、まさか、だから、ミューアが広島宮島近くの製作で、ユーザーさんが宇都宮に多いってこと、関係しないよねえ?いやするのかな?

などと、一人ごにょごにょ言っていました(^_^;)

ちなみに、福島の持つ重要性も教えてもらいました。

キーワードは、「会津」「五色沼」

古代の会津は、私も今調査中ですが、古墳も多いし、荘園も置かれなかった特殊な地域。

だから、戊辰戦争でやられてしまったのか?!

ともかくも、これから精神文明で世界を引っ張っていく日本人の役割、中でも重要ポイントのある栃木の役割は大きいですよ!

ここでは説明しきれないので、次回の歴史のトークライブか、ハナリンのお話会でシェアしたいと思います。


https://www.y-history.net/appendix/wh0101-009.html 【シュメール人】より

前3000年代頃、メソポタミアで都市文明を最初に生み出した。民族系統不明であるがウル、ラガシュなどの都市国家を建設、青銅器・楔形文字の使用、ジッグラトやシュメール法典などの文化を発展させた。

メソポタミア文明の中で

 民族系統は不明だが、メソポタミア地方南部(ティグリス・ユーフラテス川下流)で都市を形成し、メソポタミア文明の基礎を築いた民族。紀元前4000年紀(前3000年代)の終わり頃、メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行いながら村落を形成し、前2700年ごろまでにウル、ウルク、ラガシュ、キシュなどの最初の都市国家が生み出されていった。シュメール人の民族系統は不明であるが、前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられている。

シュメール人の都市文明

 前3000年紀に栄えたシュメール人の残した都市遺跡として最大のものがウルクである。ウルクは城壁に囲まれ、神殿を中心とした公共建築物をもち、約230ヘクタールの居住地をもっていた。ウルクに次いで繁栄したウルの遺跡からは王墓が発見され、またシュメール人の風貌とその社会を伝える「ウルの軍旗」といわれる遺物も出土している。またウルなどの都市には、巨大な神殿であるジッグラト(聖塔)が建造されている。 → シュメール文化  シュメールの都市は都市神を祭る神殿を核に形成された。神殿は一貫して都市の中心に位置していた。ウルクでは都市の同一地点に建てられており、前3300年には同一プランとして最大になった。全長9.5kmにおよぶほぼ円形の都市壁に守られた巨大な都市で、中央の一段高い丘に都市神イナンナの神殿が建ち、そのそばに聖塔ジッグラトがそびえる。ウルにもジッグラトが作られている。

シュメール人の文字と神話

 またシュメール人は、楔形文字を生み出し、最古の神話「ギルガメシュ叙事詩」を残しており、最近では多数出土した粘土板でシュメール法典の存在が注目されている。彼らの文化は、メソポタミア文明の最初の段階であるシュメール文化と総称される。楔形文字はその後もオリエント世界の諸民族の言語を書き表す文字として共通の文字とされ、アケメネス朝ペルシアまで続いた。シュメール法典は古バビロニア王国のハンムラビ法典に継承された。またシュメール人の神話は、その後のオリエントの諸民族に影響を与え、ユダヤ教の旧約聖書を通じてキリスト教にも引き継がれており、例えば、旧約聖書の「ノアの箱舟」(大洪水)の話の原型はギルガメッシュ神話に見ることができる。

Episode シュメール人の謎

 シュメール人は、彼らの残した都市、楔形文字、青銅器など、その後のメソポタミア、オリエントに大きな影響を残した。しかし後にこの地方で支配的になるセム語とはちがう言語(日本語にちかい膠着語に属する)を用いていた。自らは黒髪人と称していたらしいが、「ウルの軍旗」などの残された遺跡、遺物に描かれたシュメール人は、目が異様に大きく、独特の風貌が見られる。現在は民族としてはまったく残っていないので、「謎の民族」とされているが、その歴史は彼らの残した楔形文字の解読が進んだ結果、明らかになってきた。その王たちの交替は「シュメール王名表」(「シュメール王朝表」ともいう)に記され、その中の王ギルガメシュを主人公とした英雄叙事詩も残されている。シュメール人は民族としては姿を消したが、その文化は後々にも生きていたと言える。

注意 シュメルかシュメールか:『シュメル-人類最古の文明』(小林登志子著、中公新書2005年刊)によると、原音に近い表記は「シュメル」であるが、日本で「シュメール」と表記するようになったのは、第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行していたので、シュメル学の先達の中原与茂九郎(京大名誉教授)が混同されないように音引きを入れて表記したという。<『シュメル-人類最古の文明』(小林登志子著、中公新書2006年刊)はしがき>

シュメール人のその後

 シュメール人は一時バビロニア北部に起こったアッカド人に制圧された後、ウル第3王朝を復興させたが、前1800年頃にはアムル人の古バビロニアに征服された。以後、メソポタミアの主力はアッカド人やアムル人などセム語族系の民族となり、シュメール人はその中に埋没して消えてしまったが、楔形文字やジッグラト、法律などの文化は新バビロニアの時代まで生き続けていく。


https://rekishi-memo.net/sekaishi/sumeru_bunmei.html 【シュメール文明】より

古代エジプトやインダス文明と同様に、非常に古くから栄えたシュメール文明は、最古の都市国家を持つことで知られる。

しかし、その民族や言語は殆ど未解明で、現在も議論されている。

>> シュメール文明興亡史の年表

世界最古の都市国家

古代メソポタミア文明は、粘土の分化

ナイル川流域に栄えた古代エジプト文明が、ピラミッドに代表される石の分化だとすると、チグリス・ユーフラテス川流域に栄えた古代メソポタミア文明は、粘土の分化だといわれる。

メソポタミア地方は考古学的には南北二つに分けられる。

北部をアッカド、南部をシュメール、後に両者を合わせてバビロニアと呼ばれる。

北部にはセム系民族が住み、南部に住んでいたのが謎の民族といわれるシュメール人である。

恵まれない環境で、工夫する習慣が育まれた

メソポタミア南部は、雨の少ない乾燥した砂漠であり、鉱物を一切産出せず、地表に石を見つける事すら難しい。

しかも自然の気まぐれと、絶えずコースを変える2つの大河は、この地方に時として大きな洪水を引き起こし、人々の生活を全て泥水で押し流してしまうのだ。

このように恵まれない土地だったにも関わらず、シュメール人たちは、日干しレンガで神殿や住居を建て、都市を築くという人類最古の文明をこの地に築き上げた。

紀元前3100年頃には、ウル、ウルク、エリドゥ、ラガシュ、キシュなどの都市は、大小の運河を整備し、神殿と城壁を持つ都市国家として出現していた。

それぞれの都市が守護神を持ち、近郊の農地から大麦を中心に豊かな収穫をあげていた。

行政経済の粘土板文書によれば、大麦は播種量の約80倍の収穫をあげたことが記されている。

未解明の「シュメール問題」

楔形文字の誕生

シュメール文明の画期的な発明といわれる文字の使用は、ウルク期末にあたる紀元3200年頃にさかのぼる。

最初は素朴な絵文字として始まったこの文字は、いくつかの段階を経て、前2500年頃には楔形文字として完成され、各都市で使用された。

粘土板の上に葦(アシ)の茎を押し付けて書くこの文字で、シュメール人たちは、人類最古の文学として知られる「ギルガメシュ叙事詩」の原型や、神殿経営の実需を示す大麦の給付量や家畜の頭数、さらにそれらにまつわる様々な数字の計算を残してきたのである。

シュメール問題

これほど早い時期に豊かな文明を築き上げたシュメール人とは、どんな民族であったのか?

これは、考古学上未解明の謎なのだ。

彼らがいつ、どこからメソポタミア南部にやって来たのか、そして、彼らが話していたシュメール語がどのような言語系統に属していたのか。

これらの問題は全て分かっていない(シュメール問題)。

シュメール語について

シュメール語は、これまで様々な言語と比較研究されてきたにも関わらず、親戚関係にあたる言葉すら分かっていない。

全く系統不明の言語なのだ。

同じように系統不明の孤立した言語は、スペインのバスク語、カフカスのグルジア語、それに日本語など、相互に関連付けようとする試みは成功していない。

シュメール人はどこから来たのか?

シュメール人の故郷はどこか、という問題も未解明な部分が多い。

旧約聖書の創世記第11章には、ノアの子孫たちの移動について次のような記述がある。

「そのとき人々は、東から移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、定住した。」

聖書に述べられたこの「シヌアルの地」こそシュメールを指すと今日では一般に考えられている。

このような聖書の記述や、土器の比較によって、シュメール人の故郷は現在のイラン南西部のあたりとする説がある一方、シュメール人はペルシャ湾を渡って来た漁労の民族だとする考え方もある。

考古学的には、メソポタミア北部の初期農耕文化との共通性が指摘されている。

いまだに、シュメール人は全く謎の民族なのである。

4000年前に編纂された「シュメール王名表」

先住民族とシュメール人

シュメール人以前に住んでいたと考えられる先住民のウバイド人と、シュメール人との繋がりも気になるところだ。

メソポタミアにはシュメール語で理解できない地名が幾つかある。

ウルクやニップールといった都市の名前、それにユーフラテス川の本来の名前である「ブラヌン」などもシュメール語では理解できないのだ。

おそらく先住民の言葉が残ったものなのだろう。

この先住民については、地中海に起源を持つドラヴィダ系民族ではないかと指摘もあるが、やはり、詳細は未解明である。

大洪水によって、神話の時代の文明は流された?

紀元前2000年頃に編纂された「シュメール王名表」によると、シュメールの歴史は大洪水によって2つに分かれている。

洪水前に天から王権が下ったのは、南の最も海岸に近い都市エリドゥで、全部で5都市8人の王が24万1200年間支配したと述べている。

いわば神話的な記述である。

洪水後、再び天から王権が下ったのは、今度は北部のアッカド地方に近い都市キシュだという。

王名表によれば、キシュの初期の王の名前には、セム系のものが含まれている。

戦争に関する「言葉」が無かった

近年、シュメール語が解読されるようになると、系統すら分かっていないシュメール語の中に多くのアッカド語(セム系言語)が混じっている事が分かってきた。

例えば、戦争に関する単語の多くはアッカド語からの借用語だ。

これはシュメール人が本来、戦争を知らない平和的な民族だった事を物語っている。

しかし、彼らは決して戦いをしなかったという事ではないようだ。

初期王朝時代、ラガシュとウンマという都市国家間で「エデンの首」と呼ばれる境界をめぐり、大きな紛争があった事を粘土板は伝えている。

他民族との輸出入による交流

いずれにしても、シュメール人はかなり早期から多民族と接触していたのは事実だろう。

彼らがいつ、どのような形でメソポタミアの地で活動するようになったかは不明だが、一つの民族として集団を固く保っていたというよりは、早い段階で他の他民族との融合は進んでいたとみる方が自然かもしれない。

それを示す証拠の一つとして、シュメール人の粘土板の記録には、各国の地名が度々登場する。

ディルムン、マガン、メルッハという3つの謎の地名もそうだ。

これらの土地から石や材木、金や銅を輸入し、シュメールからは穀物などを輸出していた。

資源に乏しいシュメールでは貿易は不可欠だった。

だが、この3つの地名がどこを指すかについては、研究者の間で議論されているところである。

ディルムン、マガン、メルッハの比定地

現在、ディルムンはペルシャ湾にあるバーレーン島とするのが普通だが、マガンについては、アラビア半島のオマーンとする説や、エジプトとする説もある。

メルッハはさらに遠く、インダス河口とする説の他、エチオピアとする説もある。

シュメール文明とインダス文明の接触

シュメール文明は、メソポタミアだけの狭い範囲ではなく、エジプトなど、他の古代文明と交流があった事が推定されている。

ウルの発掘では、インド製とみられるメダルが出土しており、特にインダス文明との接触は強く示唆されている。

シュメールでは牛と鋤による農耕が行われていたが、牛と鋤を使った耕作は本来インド起源である。

それがメソポタミアやエジプトに伝わったのかもしれない。

楔形文字を残して滅んだシュメール

他国の制服を受けるも、再び独立

都市国家として発展したシュメール文明は、紀元前2350年頃、サルゴン率いるアッカド王国に征服され、セム人の支配を受ける。

この時代に都市国家の垣根は取り外され、メソポタミアは一つの領土国家となる。

さらに、山岳民族のグティ人(現在のクルド人と同じ民族ともいわれる)の支配が始まり、この地方は暗黒時代を迎える。

多くの像が見つかっているグデア王が、ラガシュで独立したのも、この時代の事だ。

だが、やがてシュメール人は自らの支配を取り戻し、紀元前2060年頃、ウル第3王朝として復活する。

ウル・ナンム王以下5代の王たちからなるウル第3王朝は、100年程の短命王朝ではあったが、シュメール文明として最も繁栄した栄光の時代である。

そして、ウルを首都とする中央集権国家体制が完成した時代でもあった。

最古の法典 ウル・ナンム法典

ウル・ナンムは最古の法典を制定した事で知られており、その時期はハンムラビ法典よりも300年以上も前である。

しかし、この時代を最後に、シュメールの栄光はメソポタミアの歴史から姿を消してしまう。

文明は滅ぶも、文字や学問などの分化を残した

王朝末期には、西からセム系のアムル人、東からはエラム人の侵攻を受け、前1950年頃、ウル第3王朝はとうとう滅亡してしまう。

シュメール人も、国内に侵攻して来た多くのアムル人の中に同化していったものとみられる。

だが、彼らの発明した楔形文字は、のちの多くの民族に受け継がれた。

口語としてのシュメール語は消滅したが、学問や文化としてのシュメール語は、各民族の対訳辞書の中に残された。

それは、ヨーロッパにおけるギリシャ語やラテン語と同じ役割を担ったのである。

僅かに痕跡を留めたシュメール文明は、現在も多くの謎に包まれている。

シュメール文明滅亡までの年表

時代 王朝 主な出来事

BC5000年頃 ウバイド期 初期の集落が出来る

BC3500年頃 ウルク期 都市形成期

灌漑農業や交易が始まり、ウルクで絵文字の使用が始まる

BC3100年頃 ジェムデッド・ナスル期 都市国家が成立する

BC2900年頃 初期王朝期 シュルッパクで古拙文字(こせつもじ)が使われる(楔形文字の前段階)

BC2700年頃 キシュ、ウルクで第1王朝成立(ギルガメシュの時代の可能性が指摘される)

BC2600年頃 ウルで第1王朝成立

BC2500年頃 ラガシュでウル・ナンシェ王朝成立

ディルムン、マガン、メルッハと交易

BC2350年頃 アッカド王朝期 キシュ出身のサルゴンが領土を統一、アッカド王国となる

BC2200年頃 - アッカド王国が滅亡し、山岳民族のグディ人の支配を受ける

ラガシュでグデア王が独立

BC2060年頃 ウル第3王朝期 ウル・ナンムがウル第3王朝を興す

BC1950年頃 - ウル第3王朝が滅亡する

以後は、混乱期を経て、バビロニア時代へ