江戸の真北
https://www.sankei.com/article/20150117-VBQP2UW5YNLMRND53IRZNCEY3Y/ 【家康はなぜ日光で「神」になったか 「江戸の真北」に意味がある】より
「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌(いはい)は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請(かんじょう)せよ」
江戸幕府を開いた徳川家康は元和2(1616)年、75歳で亡くなる間際に側近を集めてこう遺言したとされる。
久能山は家康が少年期と晩年を過ごした駿河にあり、江戸の増上寺は徳川氏、三河国の大樹寺は父祖・松平氏の菩提(ぼだい)寺。下野・日光山だけが生前の家康や徳川氏に特別なゆかりがない。「東照大権現」として今も人々の信仰を集める家康。なぜ、日光で「神」として祭られることを望んだのだろうか。
奈良時代後期に勝道上人が開いたとされる日光山は、関東武士の尊崇を集めた山岳信仰の霊場だった。鎌倉幕府を開いた源頼朝も寄進をしていたが、戦国末期には衰退していた。
源氏の末裔(まつえい)を名乗って東国をまとめ上げ、天下を統一した家康は、頼朝を尊敬していた。慶長18(1613)年には側近だった天台宗の僧・天海が日光山の貫主に就任。頼朝を意識し、「日光再興」を図ろうとした意図がうかがえる。
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日光は地理的条件にも恵まれていた。自然の要害で幕府防衛の拠点となる可能性を備えてもいたが、日光東照宮で長年神職を務め、「日光東照宮の謎」などの著作がある高藤晴俊さん(66)=日光市=は「日光が江戸から見て、北極星の輝くほぼ真北の方向にあったことに大きな意味があったのでは」と指摘する。
北極星は、古代中国で宇宙を主宰する神と認識されていた。「天子南面す」の言葉通り、君主は北極星を背にして南向きに座し、神と一体となって国をつかさどるとされてきた。
日光東照宮陽明門の真上には、夜になると常に北極星が輝いているのが確認できる。「北極星を背に江戸を守る」という宗教的意義を持った場所として、日光は最適だった。
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「日光市史」によると、家康の御霊を乗せたみこしは元和3年3月15日に久能山を出発。4月4日に日光山の座禅院に到着、儀式を経て正式に鎮座した。改葬は、よろいかぶとに身を包んだ騎馬武者や、やりを抱えた兵ら総勢1千人に及ぶ大行列だったとされる。日光東照宮で今も春秋の例大祭で行われている「百物揃(ひゃくものぞろい)千人武者行列」は、この様子を再現したものだ。
天下人となった家康が、恒久平和を願う神となるための重要な儀式だった日光改葬。大きな役割を果たしたのが、「黒衣の宰相」として辣腕(らつわん)を振るった天海と臨済宗の僧・崇伝、それに家康の葬儀を取り仕切った吉田神道の権威・梵舜という3人の聖職者だった。
梵舜は、豊臣秀吉が死後に自らを「豊国大明神」として祭らせた豊国神社の創建に関わった。高藤さんは「秀吉を神格化した際の宗教的な奥義を知る梵舜に葬儀を任せたのだろう」と推測する。
また、家康の神号をめぐり「明神」か「権現」かで論争が起き、秀吉と同じ「明神」を推した梵舜と崇伝に対して天海が「権現」を主張。論争に勝った天海が、その後の宗教的主導権を握ったといわれる。
ただ、高藤さんは「日光への改葬には崇伝が大きな役割を果たした」との見方を示す。神号論争に敗れた「引き立て役」として語られることが多いが、高藤さんによると、慶長19年、家康が京の五山の僧侶に「論語」にある北辰(北極星)についての文章を書かせた際、崇伝が序文と跋文(ばつぶん)を加えている。
家康を北極星に見立てる神格化の萌芽(ほうが)が垣間見える出来事で、「梵舜が神道の伝統にのっとり神格化への道筋をつけ、崇伝が日光遷座の設計図を描き、天海がそれを仕上げたという流れだったのでは」(高藤さん)。いずれにしても、綿密に計算された神格化であったことは間違いない。
戦国時代の研究で知られる静岡大名誉教授の小和田哲男さん(70)は「家康は260年を超える太平の世を実現しただけでなく、いわば右肩上がりの拡張主義だった戦国時代から低成長・安定の時代へと舵を切った。現代にも通じる部分がある」と話す。
冒頭に紹介した遺言は、「そして八州の鎮守となろう」と続く。家康の御霊は今も日光から江戸(東京)や関東、日本全体を見守っている。(宇都宮支局 原川真太郎)