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やわい屋

「さんち」にてご紹介いただきました。

2018.03.15 03:53

奈良の中川政七商店が運営するウェブメディア「さんち」にてご紹介いただきました。

非常に丁寧な取材でたくさんお話をさせていただき楽しい時間でした。

お世話になりました。

さらに後編もあるとのこと!重ねてありがたいです。

今回の取材では話しながら考え直す部分がたくさんありました。やり取りの中で深まったこともありましたので、記事にもありますが仕事についての個人的な考えを補足的に書いておこうと思います。



・魚屋さんと器屋さんは一緒。


器屋は腐らないものを扱っているので、並べたらそれでお終いのように思われがちですが、たとえばアパレルのお店に季節感があるように、僕らの仕事にも季節感があります。どんな商売でも鮮度と信用が一番大切だと僕は考えています。その一番わかりやすい例がよい魚屋ではないかと思います。

いいお店は、いつ行っても旬のものが店頭に並んでいて、何気なく手に取るものでも味を知って並べているからハズレがない。それに聞けばあれこれおススメやうんちくも教えてくれて、夜の宴の話題にもなる。

そんなお店が近くにあったらそれだけで暮らしが豊かになると思いませんか?

僕はそう思ってこの仕事をやっています。

仕事とは「誰かがこの町で暮らす為の理由のひとつ」になり得るのです。

それはコンビにでもドラックストアでもパチンコ屋でも同じです。

逆にどれだけ「地域住民の為」と謳っていてもそうなれていない場所も多くあります。

そういう所には志はあっても寄り添う優しさや隙がありません。

そこにいてもいい、そこにいたら落ち着く、そういう「気配」はなかなか作ろうと思ってつくれませんし、気を向けなければけして生まれません。

そして、日常に戻っても時に思い出して、またそこに行きたいと会いたいと思う「余韻」も必要なことだと思います。

そして僕らの思うそんな気配と余韻を感じさせてくれる場所は、非の打ち所がないほど掃き清められた、洗練されていて一部の人の為の場所ではなくて、日常を生きる庶民が気楽に足を運べる路地の雑多な生活観のある場所です。

そういう良い店は実は市場や産地に足を運んで、眼で見て選んだものひとつひとつ並べてる。見えないところにそういうこだわりがあるから、僕ら消費者は『あの親父さんが選んできたものならいい、間違いない』って感じる。

だから完璧でなくてもいいんです。たまに親父さんの勘が外れて不味かったら、デパートなら、返金しろ!と思うところも、次行った時に「この前の不味かった」と言えば、悪そうに笑っておまけしてくれる。また次行った時も「こないだはすまないね」と声をかけてくれる。お金には色がつかないから本来1000円のものは1000円なんだけど、心情的には違う。

そういう交流が本当は社会にとって必要なんだと僕はおもいます。


・遠足は準備のほうが当日よりも思い出に残る。


僕にとって遠足は、どこに行ったのかの記憶はあまりないんだけど、あの、おやつを真剣に買っているときが、前日わくわくして寝れなかったときが興奮のピークでした。

もしかしたら人生は、そういう名もない日常の支度が主役なんじゃないかなと思います。

そういう無形の支度の日々の中に、喜びとか、悲しみとか、人のいろんな大事なことが詰まってて、そういう豊かさがいま求められてる。

ただ、今のスピード感のある社会では、そのやわう、準備をする時間はなくなってきている。ではみんなどうやって準備をせずにものを結果を得ているのかと言えば、お金で買ってるんです。

僕らは手間をお金でやり取りしている。でもそんなこと続けていたら、なんにも作り出せない人になってしまう。

エベレストの上からの景色はTVで観て知ってても、そこにいたる経験も体力も養われない。それは「知っている」だけであって「五感で体感して分かっている」こととは根本的に違います。準備の時間はどんどん圧縮されていて、都市的な生活のリズムでは特に感じづらくなっている。

現代は「知ってる」ことはすごく多いのに「考えて分かってる」ことは極端に少ない社会です。

だからこそ手間をかけること、料理を作る時間や、糸を紡ぐ時間、焼き物の土をこねる時間、木を乾燥させ加工できるようにする時間…

昔は当たり前だった手間や支度を金銭感覚として計ってしまう。

昔の民具が安かったのは誰も手間を賃金に換算しなかったからです。冬のなにも出来ない時期に細々と営まれた手工芸は日銭を稼ぐ意味はあっても農業を辞めてまでおこなう仕事ではなかった。大切なのは今年一年の家族の食べる食料を用意することだったからです。


・朝日は美しいということ。


だから、僕らものの『配り手』は、その大切さを伝えないといけないなと思うんです。

草鞋を作る人がいて、僕らはそれを使う人に届ける「配る」のが仕事。届けるのは草鞋だけではありません、農村の貧しい暮らし。都市部でうしなってしまった美しい原風景。それらすべてを届ける。これはものを通した一種のジャーナリズムでもあったはずです。

同時に、僕らの仕事は『ここから見る朝日はとても綺麗だよ』と手を取って連れて行くところまでです。

これこれこういう理由があるから綺麗なんだよとか、今の季節しか見られないんだよ、こんな景色が開発であと数年で観れなくなってしまうんだよ。そういう情報は本当は伝えなくてもいいんじゃないかと思うんです。

それはその朝日から、その朝日を見るまでにたどった道筋の景色からそれぞれが感じ取って、考えることだと思います。

僕らは繰り返し、その場所までつれていく。その意味や真意は伝えなくても繰り返し繰り返し道をたどることで体力がつき、周囲を見回す余裕も出てくる。

そのとき気がつけばいいんです。

実はその山の反対側が削られていることに、残土によって生態系が崩れていることに、見えない放射能の汚染があることに、もうすぐなくなってしまうことに、気がつけばいいんです。

そして、いままで美しい。ただ美しいと心酔していた景色が永遠でないことを、その美しさが絶対でないことを知って、それでもなお美しいと思う心の真理を求めれないいと思います。

その山の反対側が削られていることを、残土によって生態系が崩れていることを、見えない放射能の汚染があることを、もうすぐなくなってしまうことを知ってから観ていたらどうでしょう?朝日はなにも変わらず美しいのに、感じ方は大きく変わることでしょう。

僕らは『ここから見る朝日はとても綺麗だよ』と手をひくのが仕事です。

この器は美しいよ。この籠は美しいよ。と届けるのです。

そして、それを使う中で自分の力で気がついてもらえたらと切に願うのです、その手工芸はいずれもいつなくなるともしれない、尊いものであることに。

そして、それは手工芸に限らず、町の景色や国のあり方や家族の問題とまったく同じことです。

一番大切なことはいつだって手の届く範囲で起こってます。

忙しい、時間がないとよく耳にしますが、そうなっているのはなぜなのか。そこに眼を凝らし、耳を傾けないといけません。身の丈にあわない消費や、求めすぎる心ではいつまでたっても満たされません。

貧すれば鈍する。ということわざがあります。太宰治はこれを「貧すれば貪す」と書きました。

貧乏すると貪欲(どんよく)つまり欲深になる。「貧」とは、いつも分け与えてしまって、なにももたない様です。「貪」とは、今欲しいもっと欲しいと溜め込んで、どれだけあっても足りないと思う様です。

どちらのような人でありたいかは聞くまでもないと思います。