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伊雜宮(いざわのみや) ~春のお伊勢参り①~

2018.03.15 08:48


昨年12月、恒例のお伊勢おかげ参り以来、本年最初のお伊勢参りに行って参りました。
しかし、今回はちょっと違った場所への巡礼にもなりました。

できれば、1月か、立春の直後に行きたいのですが、中々その時期は難しいのですね。


そして、毎回書いて恐縮ですが、もうちょっとだけ伊勢が近いと助かるのですが...
将来的にはこの辺りで暮らしたいなぁと思うのは、今もかわりありません。
実は、その際に、時間の関係で参拝できなかった、二社から、本年のお伊勢参りはスタートしました。


〇天照大御神の遥宮(とおのみや)

実は、瀧原宮と同様、こちらも「天照大御神の遥宮」と言われています。

瀧原宮は、倭姫命巡幸で、最終的に内宮に収まる直前にお祀りされていた、所謂、最後の元伊勢ですが、こちらはそうではありません。

では、なぜ、「天照大御神の遥宮」というのでしょうか?

そんな、難しい話はあとにして、まずは、このお社の素晴らしさをお伝えいたしましょう。

いままで、こちらに参拝させていただくときはいつもクルマでしたが、今回は初めて鉄道に乗ってきました。

伊勢で一旦、宿に荷物を置いて(なぜなら、往路と復路の利用駅が違うから荷物を駅に置いておけないのです。しかし、実際はそんな悠長なことを言えるような場所ではありませんでしたが)、近鉄線の各駅停車(多分、はじめて乗ったかも?? いや、以前に「五十鈴川」から「鳥羽」の間で乗ったかも?? あれは急行だったかも??)で、「伊勢市」駅からガタンゴトンいいながら、約40分で到着した駅は「上之郷」。

近鉄の各駅は鳥羽より先は降車時に駅内精算、そう、地方の路線バスみたいな精算箱におカネを入れます。でも、勿論Suicaも使えるのですが、良かった、あらかじめ切符を買っておいてと、なんだかのんびりした心地よさです。

こうやって電車に乗っていると、鳥羽と志摩は結構遠いことがよくわかります。

その「上之郷」から徒歩3分で、伊雜宮の鳥居に着きました。


本来なら、昨年、来なければいけなかったのに申し訳ない気持ちで一杯でしたが、ひとたび、こちらのお社は鳥居に入ると、やはり結界を張ってあるように氣が変わるのが、凡人の筆者にもわかります。

瀧原宮もその違いが明確に分かるのですが、瀧原さんとのような大自然と一体化するような気配とはこちらはまったく違うのです。

ここにはものすごく強い、なにかの意志をいつも感じます。

なので、瀧原さんのように、大自然に同化できない、というか、させない。

たとえは悪いのですが、人間ごときが、来るような場所ではないぞ的な、とても強いパワーです。

それでいて陰ではない。陽です。

やはりアマテラスさまなのでしょうか、思いっきり陽なのです。

手水の場所から、一直線。

そこに、堂々と鎮座されている。

それが「伊雜宮」です。



初めて参拝したのが先の遷宮の後なので、この位置しか存じませんが。

美しいです。
しかし、とても強いのです。

筆者は反対派ですが、天照大御神は男神だというのが昨今の定説です。

「記紀」でも解釈の仕方では、男神だという表記もあります。
しかも太陽神だからです。
古来、太陽は陽、月は陰。
そう考えればギリシャの神々のように、男神と考えるのが普通です。

ですが、筆者は女神説です。

太陽神であり皇祖神、そして最高神、それが天照大御神なんです。

しかし、唯一、ここに参拝すると、その持論が崩れます。
そのくらい、男っぽさを感じるのが、この伊雜宮なのです。

そしてこれが...

巾着楠です。

この膨らんだ根元を擦ると、金運に授かると言われているそうですが、そういうご利益(そもそも神社にご利益を求めないでください。そういう場所ではありませんので、そういうかたは是非、そういう役割のある仏さまがご本尊の寺院へ参拝してください)なんて関係なく、ここは誰しもがさわってみたくなります。

伊雜宮(いざわのみや)
所在地  三重県志摩市磯部町上之郷374
主祭神  天照坐皇大御神御魂
社格等  式内社(大)論社
       志摩国一宮
       皇大神宮別宮
創建  804年以前
本殿の様式  神明造

さて、前述した「遥宮」の話ですが。

そもそも、伊勢神宮別宮14社のうち伊勢国外のものは伊雑宮(志摩国)だけです。
また神田を持つ唯一の別宮でもあります。
さらに伊雜宮は、10社ある内宮別宮の中で荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ順位とされています。

伊雑宮は、倭姫命が志摩の国を巡られたとき、伊佐波登美命(いざわとみのみこと)に命じて造営され、皇大御神の御魂をお祀りしたと伝えられています。

実は「倭姫命世紀」によりますと、倭姫の巡幸は五十鈴の宮(現在の内宮)で終わった訳ではないのです。
そのあとも、神饌を調達するための 御贄処を定めるために、食の幸に恵まれている志摩の国に南下し、そこで伊雜の地に到着されますが、そこでは見事な稲作に適した土壌に出会います。更に、その先に於いてもうひとつ、決定的な事件にも遭遇されます(そのことに関しては次回に触れます)。

つまり伊雜宮は、豊受大神宮(外宮)ができるまでの間(この表現は誤解を生みますが、まぁわかるでしょう...)、天照大御神の食事を担当していた宮という言い方もできると思います。

その他、伊雜宮に関しては、「先代旧事本紀」の事件に巻き込まれてしまい、色々と良くない噂や、憶測が飛び交ったりしておりますが、筆者は昨年5月に初めて鳥羽の友人から教えて頂き、参拝した際の体験において、このお宮の類い稀な風情に感動を覚えました。

前述いたしましたが、それは伊勢神宮を「静」だと思っていた筆者に、全くそうではない体験を与えてくださいました。

なので、そういう色々な歴史の騒動に巻き込まれてきたことも分からないでもないと思いました。