「江戸無血開城とぶれない男たち」山岡鉄舟④
山岡鉄舟は身長六尺一寸(185㎝)、体重二十八貫(105㎏)、一昼夜に三十里(118km)を歩 行したといわれる健脚。江戸から駿府まで、勝が用心のためつけてくれた薩摩藩士益満休之 助が一緒とはいえ、敵兵が充満する東海道を昼夜兼行ですすむ。官軍隊長の屯所へは、案内 も求めず入り、大声でこう言ったそうだ。
「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」
駿府に着いた山岡は西郷に会う。一面識もないが、遠慮なく用件を切り出す。西郷は、江 戸城総攻撃中止の条件(七カ条)を提示する。山岡はそのうちの1カ条だけは拒否する。
(西郷)「それは何の箇条ごわすか」
(山岡)「主人慶喜をひとり備前に預かること、決してあい成らざることであります。なんとなれ
ば、徳川恩顧の家士が決して承服いたさぬゆえにござりまする。つまるところ兵端をひら
き、むなしく数万の生命を絶つことなれば、これ王師のなす所にあらず。さすれば、先生は
ただの人殺しでござりましょう。ゆえに拙者はこの条においては、決してお受けできませ
ぬ」
(西郷)「朝命ごわす」
(山岡)「たとい朝命たりといえども、拙者においては決して承服できませぬ」
(西郷)「朝命ごわす」
(山岡)「しからば先生と私とその位置をかえて論じましょう。先生の主人島津公、もし誤って朝敵
の汚名をうけ、官軍征討の日にあたり、ご主君恭順謹慎のときに及び、先生が私の立場にお
られ、主家のために尽力するとき、主人慶喜のごときご処置の朝命あれば、先生はそのご下
命を奉戴し、すみやかにその主君をさしだし、安閑として傍観なされますか。君臣の情は、
先生におかれてはいかようにいかようにお考えか。この儀においては、鉄太郎決して忍ぶあ
たわざることでござる」
この言葉は、西郷の胸にこたえた。しばらく沈思した後こう述べる。
(西郷)「先生の説は、いかにもごもっともでごわす。しからばすなわち慶喜殿のことは、吉之助
きっと引きうけ取りはからい申す。先生、かならずご心痛ご無用にしてたもんせ」
この時、江戸無血開城は事実上実現したといってよい。勝と西郷の江戸開城談判の五日前のことである。
(「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑」 静岡県静岡市葵区御幸町3-21)
(肥後直熊「西郷隆盛肖像」 黎明館[鹿児島市])