和銅採掘露天掘跡
http://wadohosyoukai.com/iseki/wadoiseki/ 【和銅遺跡とは】より
慶雲5年、西暦708年、武蔵国秩父郡から銅が献上され、これを喜んだ朝廷は年号を「和銅」と改元し、日本最初の貨幣「和同開珎」を発行しました。このことは日本の正史に燦然と輝く歴史的事実であります。その「和銅」が採掘された跡が、今もなお秩父市黒谷の和銅山に残されています。ここを中心とした一帯が「和銅遺跡」です。
和銅とは精錬を要しない自然銅のことで、「ニギアカガネ(熟銅)」と呼ばれていました。和銅山に残る百メ―トルを超す二条の断層面は、当時の露天掘りの跡です。この和銅によって、唐の「開元通宝」を模し、「天地和同」「万物和同」などのめでたい言葉をもとに名付けられて、「和同開珎(わどうかいちん)」が誕生しました。〈年号は「和銅」、銭貨名は「和同」と、厳然とした区別があります〉
和銅山の西に、和銅献上の祝典が挙げられたと伝えられる「祝山」があります。後に遷座して社が建てられたのが「聖神社」です。神社の境内には、「和銅鉱物館」が建てられています。なお、同館には聖神社秘蔵の左甚五郎作の竜頭を源とする「黒谷の獅子舞」の獅子頭なども陳列されています。
さらに、かなり広域にわたりますが、秩父市指定史蹟「黒谷の銅製錬所跡」及び周辺に散在して残る採掘坑跡があります。「和銅」との直接的な関連は薄いと考えられていますが、「金山」の地名で現在にまで残る遺跡です。
和銅山から、荒川の蛇行に沿う秩父盆地を一望する時、つつじに囲まれて萌え出る新緑の「美の山」に対峙する時、紅葉越しに聖の御社を拝む時、そして木枯らしの中、残雪混じりの落ち葉を踏んで銅洗堀に降り立つ時、千三百年の昔を今に、荘厳にして素朴な輝かしい「和銅の時代」を実感できるのが、ここ黒谷の和銅遺跡なのです。
伝承と地名
黒谷には、銅の産出、献上、鋳造、運搬などにちなんで残されたと思われる地名、言い伝えが沢山あります。銅の発見、産出、献上に関しては、和銅山、祝山、金山、和銅沢、銅沢、銅泉、殿地(派遣特使の館跡)。鋳造、冶金では、銅銭堀、銅洗堀、鋳銭房(鋳銭所)、樋の口(=火の口)(ふいご、たたら、坩堝、羽口など)、破風屋(破風矢)、燠(赤くおこった炭火)、硫黄山、硫黄の下。運搬などでは、竹(たけい=会計のこと)、押出し(=運送)。伝承、伝説(民話)では、秩父駒で奈良の都へ銅を運んだという羊太夫の話、銅産出地特有の植物と言われる「花筏」(俗称「筏草」)や、俗称のみしか伝えられていない「一葉羊歯」が、和銅山にだけはあるという話などが言い伝えられています。
http://wadohosyoukai.com/iseki/rotenbori/ 【和銅採掘露天掘跡 -埼玉県指定旧跡-
露天掘跡】より
国道140号を挟んで、秩父鉄道黒谷駅と対象の地点に当たるのが和銅山です。国道から東に向かい、聖神社の下を過ぎ、案内板・道標に従って15分程歩くと、露天掘跡に着きます。高さ5メートルもある「日本通貨発祥の地」と記された『和同開珎』のモニュメントが建てられています。流れている沢は、「銅洗堀」です。そこに立てば、南東面にそそり立つ和銅山に、二条の露天掘跡が山頂に向かって続いているのが眼に入ります。沢に架かる橋を渡り、和銅山中腹まで続く見学道の階段に沿って登れば、断層面をえぐる和銅の採掘溝を真上から覗くことができます。
ここ和銅採掘露天掘跡は、地殻変動によって秩父古成層と第三紀層の断層面(出牛黒谷断層)に、露出した自然銅が発見され採集されたところです。これを歴史的に見れば、ようやく国家の形態が定まりつつあった大和朝廷にとって国威を発揚し、貨幣制度を整えるのに願ってもない好機となった一大慶事の桧舞台ともなったところなのです。
その「和銅」の歴史に名をとどめるのは、催鋳銭司の多治比真人三宅麻呂、発見・採掘に深い関わりがあったであろう日下部宿禰老、津島朝臣堅石、金上无などがいます。多治比真人三宅麻呂は、国の特別史蹟「多胡碑」に名が刻まれているほどの人物ですし、金上无は新羅からの渡来人で、和銅献上時無位であったにもかかわらず、従六位下の老、堅石と並んで一躍従五位下に叙せられたところからみて、その貢献度の高さが抜群であったことが想像できます。
祝福は広く一般にも行われ、大赦、恩賞、昇叙等と共に、秩父郡の庸(力役の代納物)と調(特産物貢納)、武蔵国の庸が免除されました。
このように悠久の歴史の襞を刻んで、今、「和銅」は静寂の中に佇んでいます。和銅沢のせせらぎと共に、「和銅」が語りかけるものが何であるか、しばし足をとどめて耳傾けてほしいものです。
http://wadohosyoukai.com/iseki/koubutsukan/ 【和銅鉱物館】より
聖神社境内に建てられている「和銅鉱物館」には、自然銅はもちろん、日本全土、東アジア、アメリカまで含めた広範囲に渡って収集された和銅関連の鉱石類、350点余りが展示されています。正木丹治先生、久下 司先生、小林據英氏、太田口福松氏、日窒鉱業所をはじめ多くの方々のご提供によるものです。
なお同館には、いわば「和銅の時代」の遺物である「蕨手刀(わらびてのとう)」や左甚五郎作の竜頭を源とする「黒谷の獅子舞」の獅子頭も展示されています。
(略)
蕨手刀(わらびてのとう) -埼玉県指定有形文化財・考古資料-
柄頭が蕨の若芽に似た曲がり形をした刀なので「蕨手刀」と呼ばれます。平背、平造り、無反の刀相で、全長44.8cm、刀身32.6cmの刀です。明治41年(1908年)10月、秩父市の大野原古墳群(荒川の支流の横瀬川を挟んで西南方、和銅遺跡と対称の地域)の中、現秩父市立原谷小学校建設工事の際に敷地内の小円墳から出土したものです。展示してある直刀六振りのほか、鉄鏃、和同開珎も伴出しました。
多くの出土例と同じく、終末期古墳からのものであって、七世紀の所産と見られ、和同開珎を伴っている点からも、蕨手刀の持つ時代の特徴を備えた優品とされています。渡来人とも関わって、埼玉県指定史蹟の「飯塚・招木古墳」等の調査に基づく解明も大いに望まれるところです。