「ナポレオン失脚の原因」①
江戸城無血開城に当たって勝海舟は、交渉による講和を中軸にしつつ、新政府側の出方によっては徹底抗戦も考えていた。具体的には江戸の町を焼き払う焦土戦術。彼が参考にしたのは、ナポレオンのモスクワ遠征時にロシア側が行った首都モスクワの焼却。1797年の資料だが、人口27万のモスクワは聖都として340ものロシア正教会をかかえていた。こんな作戦は、合理的にものを考える人間には想像もできない。だから合理主義者勝海舟の江戸焦土戦術もそれをやるぞと見せかけてイギリスを動かし、新政府にプレッシャー(江戸城総攻撃の中止)をかけさせる作戦だったのだと思う。
このモスクワ遠征はナポレオンが失脚する大きな原因になった。なにしろこの遠征でナポレオン軍は、少なくとも38万人の兵士と1200門の大砲を失ったのだから。1812年のこの遠征の開始を文豪トルストイは『戦争と平和』でこう表現した。
「6月12日、西ヨーロッパの軍勢がロシア国境を越えた。そして戦争がはじまった。すなわち人間の理性と人間のすべての本性に反する事件が起こったのである。数百万の人々がたがいに数かぎりない悪逆、欺瞞、背信、窃盗、紙幣の偽造と行使、略奪、放火、虐殺 など、世界中の裁判所の記録が百年かかっても集めきれないほどの犯罪を犯し合い、しかもこの時代に、それを犯した人々は、それを犯罪と思わなかったのである。」
ナポレオンは力に任せてモスクワまで乗り込み、失脚の原因を自ら作った。勝はあくまで平和的な交渉による講和を極限まで追求し、そのために何度も命の危険にさらされながら有効と思われるあらゆる手段を追求して奇跡と呼んでいい《江戸無血開城》を実現した。政治家は、勝から大いに学ぶ必要がある。力への依存は、必ず敗北する。すぐにか、少し先かの違いがあるだけで。
(焦土作戦で炎上するモスクワ)
(1797年のモスクワ)
(トルストイ)
(勝海舟)