「分かり得る」に対する違和感 | 大方由希の葛藤
葛藤、僕にとってそれは美しいものです。
人は前進したいからこそ、そして自分の目指す在り方と社会の求める在り方の間でもがくからこそ、葛藤するのではないでしょうか。葛藤こそ、生きるエネルギーの表れでもあると思うのです。
前編の「情熱」シリーズで、「絶対性と近づきたい」と語った大方由希の「葛藤」についてのインタビュー記事です。
就活を通して感じる違和感
私は絶対性と一体化することが美しさ・ 美しいと感じること。
個人的な名前の付け方としてそれを「美しい」と言ってるだけで、絶対性と一体化する事が私にとって「美しい」という事を他者と分かり得なくても、私個人として美しさを感じたいだけだから、そこに他者がいようといまいとどうでもいいの。
私のベクトルが一番向いてるのは絶対性との一体感であって、それに対して他の人と共感したい・共有したいとは思わない。
大方由希 国際基督教大学 3年 (2018.3.12)
だから、わざわざ就活を通して「絶対性に近づきたい」という自分の根幹・軸となるところを人事の人に伝えなきゃいけないのが、不快なのかもしれない…。
絶対性と一体化するっていう体験を美しいものとして捉える事を自分のものとして大事に持っておきたい。だからこそ、他者に共有したくないし、それぞれにそういうものを持っていて欲しい、みんなが。 それが、クライブのいう宗教なのかもしれない。
(聞き手:クライブ)あぁ確かに。
そう、自分としては宗教は「体系化された他人と共有するもの」である必要はないと思っていて、俺には俺の宗教が、大方には大方個人の宗教があれば良いと思ってる。個人の宗教を共有する必要はないし、それぞれがプラクティスする宗教に満足していれば、体系化された宗教をめぐる争いもなくなるのになって思う。
大方にとっては「絶対性に近づきたい」っていう軸そのものが、何か聖なるものなのかもしれないね。
そうだね、確かに他の人には触れられたくないのかも。小さい頃からうまく言語化出来ないままずっと大事に持ってきた感覚だし、他者に関与できない私個人だけの神聖なものって感じかな。
分かり得ないということ
なんか高校生の頃からなんとなく宝箱に入っている宝石みたいなイメージを「絶対性との一体化」と思う事に対して抱いている。
だから、自分の物だし、他者に侵される領域にあるものではないし、それを生まれてから死ぬまでずっと持ってる。死んだらもしかしたらその絶対性に一体になるかもしれないし…それは分からないけど。
とりあえず今、有限な存在として生きている中では、分かり得ないということ自体が防衛壁なのかもしれない。分かり合えないからこそ自分のものでもあるし、分かり得ないからこそ自分だけのものにしておける。
俺にとっては分かり得ないって事が悲しいなって思ってたけど、大方にとっては逆で、防衛の壁じゃん。
自分は人と分かり合いたいし、繋がりたい。だから、完全に分かり得る事は無理だという事を前提としながら、そしてそれを少し悲しいと思いながら、それでも生きてる限り共感する事が人間らしさだと思ってるから自分はオープンに話していく。
でも、大方にとっては、分かり得ない事自体に魅力を感じてるんだろうね。
わかる!わかるとか言って(笑)自分が話してる事だけど(笑)
いやぁ面白いね。 分かり得ないという事自体が、私にとっては自分の宝石が詰まった宝箱の鍵になっているんだよね。
分かり得ないからこそ、他者にはその宝石箱を開けられない。だから、分かり得ないという事自体が防衛壁だし鍵だし。
うん。だから大方にとっては、分かり得ないという事が悲しい事じゃないんだね。
うん、救いですよ、分かり得ないという事が救い。
だからこそ、私が大切にしている「絶対性と近づきたい」という価値観を分かりやすく説明しなきゃいけない事に対してムズムズするというか。
それを人生の軸にしている限り、就活で説明する時に偽れないじゃん。嘘をついたら綻びが出てきて、面接官にも伝わる。
だからといって、分かりやすく説明しようと思っても、本当にプライベートな感覚だから、他人が理解出来るような説明が出来ないし、したくない。
あちら側も、急に抽象的なヤバい話をされても掴みきれずに困っちゃうと思う(笑)
だから、その大切にしてるものに布をかぶせるような感じで、少し隠しながらもこういう人間ですという説明をしなくちゃいけなくて、そうせざるを得ない社会システム上に生きている事自体が無理。
だから何がしたいのかなぁ…山奥で暮らしたい(笑)
あ、結論出たね(笑)
葛藤
改めてムズムズしてること、葛藤してることってなんだと思う?
自分にしか大事に出来ないようなものだったり、他者には分からないような大事なものを持って生きたとしても、どうしてもうまく生きていくためには迎合して譲らなきゃいけないような部分も出てくるわけで、それが嫌なのかな。
つまり、絶対性との対峙が私にとって最上の美しい感覚で、その事自体を私は他の人に触れられないように大切にしていきたい。
けれど、分かり得ることを美徳とする社会だったり、自分を分かりやすく説明する事が良しとされる就活では、自分が一人で大切にしたいことも共有する事が求められるのが息苦しいなと思う。
そもそも、分かり得るという事が美徳とされている社会に違和感を持っているのかもしれない。
就活に限らず、例えば、その人の見ている目線で事実を再編成して、それを一つのストーリーとして語る事ってあるじゃない。私もそうだし、特定の人じゃなくても、歴史って往往にしてそういうものだと思うけど。
でも、一つの目線からは分かり得ない事が無数にあるわけで。そういうものを大事にしたい…。 あるストーリーの中で無意識のうちに存在しない事にされている部分は、他のストーリーの中ではものすごく力強く動くものだったりする可能性だってあると思う。
全部分かってしまったら、それは100%分かり得てる状態で、静止している状態だからそれ以上の変化は何もないの。でも、「分かり得ない」っていうのは可能性があるわけ。
例えば、30%分かっている状態なら、残りの70%に可能性がある。
ああ、想像の余地を残してるような感覚かな。
そう、想像の余地もあるし、そこが永遠に埋まらないっていう事が我々にとっては希望であり、救いである。それ以上変化する可能性を残してくれているから。
だから、やっぱり分かり得るという事を当たり前のように美徳とする社会があって、それに準じて、分かりやすく説明する事が求められていたり、いろんな事情で共有されないものを「存在しないもの」として扱う事が、場合によっては無意識の暴力になる事があると思うんだよね。
その人にしか理解できない大切なものの存在を尊重したいし、そもそもそういうものが存在し得るんだって事を意識的に想像できる人でありたいなって。
編集後記
「分かり得ない」ということ。
それは、僕にとっては人間が孤独なのだという事を突きつける悲しい事実でした。しかし、その一方で、僕らが他者と分かり得ないからこそ、守れる自分だけの感覚や大切にしている価値観もある。
僕らは「分かり得る」ことを美徳とする社会に生きているのだと、インタビューを通して気付かされました。
「分かり得ない」ということを悲しいものとして捉える人がいると同時に、「分かり得ない」ということを救いだと語る彼女もいる。
分かり得ないからこそ、存在する自分だけの大切なストーリーを見つけたいものです。
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