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私の手は神様の手、私の足は神様の足

2018.03.26 15:04

http://sadhana.jp/kurashi/13101.html  より

祈りがよく積み重ねられると、心は常に神様と語り合うことを続けます。人々の間にあっても、口を開かずにいられるなら、働きながらでさえも神様と語り合います。そして、語り合うことから、しばしば奉仕の実践にも進みます(より正確には、「互いに相前後して」語り合うことと奉仕の実践とが生まれると言えます)。

語り合いながら、奉仕の実践をするとき観想が続けられるなら、私の今の動きは、私のためだけでないことが当然なこととなります。

 そもそも、よく祈りを積み重ねた人は、自分の日々の方向性がいつも神様を目指すものとなっています。自分にとって喜ばしかろうが、辛かろうが、神様を目指す方向の事柄に従事し続けます。この根本志向に沿って、具体的な言動の度に、神様と対話しています。「神様、あなたに捧げます」「神様、み国が来ますように」「神様、あなたの栄えがありますように」などというようにです。

心の中の対話と共に生まれる実践では、心が神様に近づけば近づくほど、実践を、より正しく、より適切・的確で、より磨かれた仕方にしようとします。ここでは、丁寧に穏やかに美しく、自分の手足を動かします。丁寧に、丁寧に、心を込めて、神様の思いにつながりながら、働きます。

 自分の内において、このように神様の思いの実現へと向かいます。

 たとえば具体的に、我が家に来客があったとします。まずは、応接間にお通しして、いつもながらのコーヒーをいれて差し上げます。もう何年も何年も、歓待の入り口として習慣にしているもてなしです。すっかり慣れていて、手足が滑らかに動きます。気持ちよい時間としたいですし、好意を表したいですから、純な思いで心を込めます。心を込めて丁寧に、手慣れた動作を進めます。気持ちよくスムースに出来ること。滑らかに、穏やかに、このサービスに務める私の手は、神様と共に動きます。神様がこの手を使っておられると感じられます。

 外見からすると、取るに足らないと思われるような、務めかもしれません。ささやか過ぎるものかもしれません。自分のできる範囲をわきまえていますから、そういう範囲を大切にする願いがあります。目新しさに欠けるかもしれません。人間の一時的な興味を追うのでなく、天のおん父に心を合わせようとしているのです。ですから、外見からすると、小さ目で、あまり目立たず、さっそうとしているわけでもない、平凡な働きであることでしょう。

けれども、内面は、幸せです。私は絶えず神様の思いにつながっている。私は神様と共に体を動かしている。私の好みによるのでないこの働きにおいて、無色透明のように、私は神様をこそ目指している。この私を動かしているのは神様・・・・私は、神様が私の手をお使いになっているのを感じます。また、神様が私の足をお使いになっていると感じます。私の手が神様の手になっている。私の足が神様の足になっている。

 体の部位は、従事する仕事によって、替わります。ある時は目、ある時は口、ある時は耳、ある時は肩、ある時は腰であることもあるでしょう。

 体までも神様と一体となっているこのような感覚がずっと保たれるよう、丁寧に丁寧に手足や目や耳などを働かせます。体まで神様と一体化して、思うことも、見ることも、人に尽くすことも、丁寧に、穏やかに、美しく行い続けます。