とりかかる初めは、“やり尽くして待つ”の心で
http://sadhana.jp/kurashi/13001.html より
神様との出会いと交わりを恵まれるのは、座して(ひざまずいて)祈っている時だけに限られるのではありません。暮らしの中で、活動が行われている間でもそれは恵まれることです。そして、それは、座して(ひざまずいて)する祈りに進歩した人ほど多く恵まれます。
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仕事に従事している時、次の行動の準備をしている時、ときどき、胸の奥深く、意識の奥深くが高揚することがあります。人間の操作可能なレベルを超えたところからの、尊い感じ、幸せな感じが生まれることがあります。それは、神様が訪れてくださっている時だ、ということができます。そういう状態が生まれることを、「暮らしの中の観想」と表現します。
さて、実生活での“働き”ということは、いい加減な仕方でうまく行くものではありません。ですから、“働き”に着いている時、意識のほとんど全部が、“働き方”を確かなものにすることに集中しています。意識的に神様を思うというゆとりはありません。しかし、胸の奥深く意識の奥深くが、一切の気がかりも消え、単一で恒久的な思いで満たされるような時も恵まれます。無限の広がりと明るさが、心の奥深くや意識の奥深くに生まれ出るとも言えます。
いつもいつもそうなることが恵まれるというわけではありません。時々、そういうあり方が恵まれるのです。――ただ“人の世の、現世に役立つことに取り組んでいる”、などという水準をはるかに超えた、尊い“あり方”が展開しているという喜び・幸せを感じます。
上のことは、単純作業・単純労働のとき、恵まれることがあります。また、逃げることのできない試練の中をくぐっているときに、恵まれることもあります。さらには、隣人・友人のどなたかの為、精一杯の手助けに打ち込んでいるときに恵まれることもあります。 そういう高揚や感銘深さに包まれていることは、「暮らしの中の観想」が成立していることです。
神様の介入をいただいている恵みの時です。ですから、「ああ今神様が私と共に居てくださっている」と明らかに思える場合もあります。
ただ、そういう時がいつもいつも与えられるわけには行きません。ですから、“やり尽くして”待つのです。それが恵まれる時は、必ず来るのですから、期待を抱き続けて、待ちましょう。
上述の高揚や感銘深さに包まれているならば、働きや行動を続ける続け方も、最も気高い、最も尊いやり方となります。真心を込めよう、誠心誠意丁寧に行おう、関係のある方々の最も大きな喜びになるように仕上げよう、とするようになります。
――良い意図を用意し、良い心構えになって、働いたり行動したりしていましょう。神様の訪れがいつか与えられるのです。
“やり尽くして”「暮らしの中の観想」が成立する時を、待ちましょう