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物事を適切に用いながら(3)―時間―

2018.03.19 05:41

http://sadhana.jp/kurashi/13001.html より

 自分にとって関わりのあるもののうちには、「時間」というものもあります。

 「時間」との関わり方にも、良い関わり方とまずい関わり方、適切な用い方と不適切な用い方が生じます。

 人は成熟するならば、人生全体を、「神様のためにご奉仕する」日々、「神様のお望みを達成しようとする」日々にしたくなります。言い換えると、どのような仕方・どのような言動の取り方において、その時その時を献げようとするのかということとなります。

 奉仕や働きが求められて、迅速に、直ちに応じられるのは、その人が神様に近くなっているのだと言えるでしょう。無為な「時間」をなるべく減らしたいです。

 次のような「時」でさえも、神様向きの使い方にします。

――朝目を覚まし、服を着ようとし、一日の最初の働きにつくまで、無駄な考え事や、心の寄り道を避けます。

――夜すべての務めが終了して、ほっとひと息つくわけですが、できるならばさっさと床に入ります。そして、委託の心になり思いわずらいを止め、さっさと眠りにつきます。

 そういう方向性を堅持して、 神様といつもつながっていたい望みから、「働きを絶やさない」方向、「奉仕のわざを続ける」という方向にも向かいたいです。このような「絶え間ない奉仕」の方向で、「時」を使うことは、すばらしい観想の方向となります。つまり、神様との出会いがしばしば恵まれることとなります。

 しかしまた、自分というものに正直であることは、許されることです。

――とても疲れている

――病気にかかったらしい

――気分の切り替えが必要だ

というようなときに、何もせずにいたり、自分の回復に努めたりすることは、許容されます。いな、むしろ、そうせねばならないことです。

 けれども、仕事や祈りに向けての体力・エネルギーがあるならば、仕事や祈りに赴いて、「時間」を有効に使うことは、神様に近づくことです。

 かといって、「一定時間」に過大な能率を求めるようになれば、それは適切な使い方になりません。人が「一定時間」に仕上げられる仕事量には、限度があります。そういう自然な限度を超えて、「急ぎ過ぎる」ことは、かえって、マイナス効果で終わることなります。また、急ぎ過ぎるとき、人は、自分の携わっている事柄の深みのある価値をないがしろにしてしまいます。携わっている事柄の深みのある価値は、尊びたいです。

 ところで、今の時間に集中できなくなる典型的ケースとして、過ぎた失敗や不出来について、くよくよしその思いを引きずり続けるということが起こります。過去の失敗や不出来から、さらりと抜け出す訓練をしたいです。過去のことの尾を引きずるのと反対に、将来のことを心配し過ぎて今の時をおろそかにするということについても、似ている対応が必要です。将来において達成せねばならないことが心配を引き起こすとしても、できるだけ心を落ち着けます。そして、可能な限りの準備をしたうえで、落ち着いて一歩一歩前進しようとして、時を生かしたいです。

――丁寧に務めに取り組む

――敬虔に人との関わりを営む

――神様のような広さと深さを保持する心構えで努める

 このようにして、「時」を有効に生かす――その方向を忘れることなく、「時」を適切に用いることが求められます。

そのように努めているとき、祈りの中においてであれ、活動のさ中においてであれ、神様の訪れを受けやすいです。