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会衆内のSOS

Lesson 1-3 JWの謎

2022.10.28 00:04

 聖書には、JWが言うような「唯一の組織」や「唯一の経路」といった教えはありません。

ルカ 12:42‐48
主人が、時に応じてその定めの食糧を与えさせるため、自分の従者団の上に任命する忠実な家令、思慮深い者はいったいだれでしょうか。主人が到着して、そうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです!真実をこめてあなた方に言いますが、主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。しかし、もしもその奴隷が、心の中で『わたしの主人は来るのが遅い』と言って、下男や下女たちをたたき、食べたり飲んだり酔ったりし始めるならば、その奴隷の主人は彼の予期していない日、彼の知らない時刻に来て、最も厳しくこれを罰し、その受け分を不忠実な者たちと共にならせるでしょう。その時、自分の主人の意向を理解していながら用意せず、またはその意向にそって事を行わなかったその奴隷は、何度も打ちたたかれるのです。しかし、理解していなかったために打たれるべきことをした者は、少なく打たれます。実際、だれでも多く与えられた者、その者には多くのことが要求されます。そして、人々が多くをゆだねた者、その者に人々は普通以上を要求するのです。(マタイ 24:45‐51も参照)

 ここでイエスは、羊を導き、守る職責を果たす人々は幸いであり、祝福があると述べておられます。また、それらの人々が利己的な行いに陥ることがあり、間違った指導を与えるなら過失の度合いに応じた裁きがくだされる、と述べておられます。導く人々には責任があり、当然に多くが要求される、とも述べておられます。しかし、「一つの組織」または「一つの級」だけが神に受け入れられる指導を与えるといった考えは教えられていません。

ヘブライ 13:7、17
あなた方の間で指導の任に当たっている人々、あなた方に神の言葉を語った人々のことを覚えていなさい。そして、その行いがどのような結果になるかをよく見てその信仰に倣いなさい。・・・あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い、また柔順でありなさい。彼らは言い開きをする者として、あなた方の魂を見守っているのです。こうしてあなた方は、彼らがこれを喜びのうちに行い、嘆息しながら行うことのないようにしなさい。そのようなことはあなた方にとって損失となるのです。

 この聖句からは謙遜で物柔らかな態度がクリスチャンにふさわしいことが分かります。秩序があるべきである、ということも分かります。しかし、この聖句にも「一つの組織だけが神に受け入れられる」などといった考えは一言も含められていません。


聖書の教え

 そもそも「初期クリスチャンの統治体」「西暦一世紀の統治体」などというものは聖書中に実在しません。

使徒 15:37‐39
バルナバとしては、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行くことに決めていた。しかしパウロは、彼がパンフリアから先は自分たちを離れて業に同行しなかったことがあるので、彼をずっと連れて行くことを適当とは思わなかった。そこで怒りが激しくぶつかって、彼らは互いに別れることになった。

 使徒たちはJW統治体のような組織など組んでいませんでした。

 聖書のどこにも「統治体」(英:Governing Body)やそれに類する概念は全くありません。

 述べられていないどころか、「統治体」なるものは聖書に反したものです。

マタイ 23:9‐10
あなた方の父はただ一人、天におられる方だからです。また、『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。

 統治体(governing body)は支配する集団という意味ですから、名称そのものが既にマタイ 23:9‐10に記されている「指導者と呼ばれてはなりません」という指針に反しています。指導者はイエスキリストお一人だけだからです。

 旧約聖書も見てみましょう。

民数記 11:25‐29
 するとエホバは、雲のうちにあって下って来られ、彼に話して、彼の上にあった霊の幾らかを取り、それをその七十人の年長者ひとりひとりの上に置かれた。そして霊がその上にとどまるとすぐ、彼らは預言者として行動するのであった。・・・さて、その人々のうちの二人が宿営の中に残っていた。一人の名はエルダドといい、もう一人の名はメダドといった。そして、霊がそのふたりの上にもとどまるようになった。彼らは書き記された者たちの中に入っていたが、天幕のところに出ては行かなかったのである。そして、彼らは宿営の中で預言者として行動するようになった。そのため、ひとりの若者が走って来て、モーセに報告してこう言った。「エルダドとメダドが宿営の中で預言者として行動しています!」すると、若い時からモーセの奉仕者となってきた、ヌンの子ヨシュアがこたえて言った、「我が主モーセ、彼らをとどめてください!」しかしモーセは彼に言った、「あなたはわたしのためを思ってねたみを覚えるのか。いや、私はエホバの民の全員が預言者であったらとさえ願う。エホバはご自分の霊を彼らの上に置くこともできるのだ」

 記述から分かるように、モーセだけがエホバから用いられたのではありませんでした。

 聖書は神が「一人の人物」や「一つの級」だけをお用いになる、という考えを支持していません。

創世記 14:18‐19
また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を携えて来た。彼は至高の神の祭司であった。そして彼はアブラムを祝福してこう言った。「アブラムが祝福されるように。至高の神、天地を作り出された方によって。」

 祭司や都市という呼称から、イスラエルの祭司や都市と混同してしまいがちですが、このときはまだイスラエル国民は存在していません。(彼らはアブラハムの子孫)メルキゼデクグループとアブラム(アブラハム)グループは完全に独立した別集団です。

 またイエスキリストの時代、バプテストのヨハネも弟子たちを連れており、イエスの弟子たちとは別のグループ、別の組織を成していました。

マルコ 2:18
彼らはやって来て、イエスにこう言った。「ヨハネの弟子とパリサイ人の弟子たちは断食を励行しているのに、あなたの弟子たちが断食を励行しないのはどうしてですか」。

 イエスの弟子たちは、自分たちのグループに属さない人に対する拒否感を示したことがあります。それに対して、イエスはこう述べておられます。

ルカ 9:49‐50
ヨハネがそれにこたえて言った、「先生、わたしたちは、ある人があなたの名を使って悪霊たちを追い出しているのを見ましたので、それをとどめようとしました。彼はわたしたちと一緒に従って来ないからです」。しかしイエスは彼に言われた、「あなた方はその人をとどめようとしてはなりません。あなた方に敵していない者は、あなた方に味方しているのです」(マルコ 9:38‐40も参照)

 イエスはご自分の一行の一員でない人の役割を認め、是認しておられます。(使徒 19:13‐17も参照)

 もはや結論は明らかですね。


聖書預言の誤用

 聖書原文は古代語である上、預言の多くは表現が難しく、一般人である個々のクリスチャンが本当の意味で自分で預言の聖句を研究し、結論を導き出すことは不可能です。

 つまり、預言の研究については、聖書の他の部分と異なり、始めから終わりまで全面的に他の人の意見に頼らざるをえない、という事実があります。結局は「偉い人」の見解をそのまま受け入れざるをえない、ということです。自分で検証できない部分を信仰の中心に置くことは間違いですし、ローマ12章1節の教訓にも反しています。

 また本来、預言は当時の人々に向けて書かれたメッセージです。現代にこそ預言の本当の成就があるはず・・・などと考えるのは傲慢です。その傲慢の裏には、現代人こそ物事の中心であり、過去の人々はその前哨戦・下敷きに過ぎないのだ、という身の程知らずのエゴが隠されています。最近の聖書研究の成果によって、預言は、それが書かれた当時の人々であれば比較的容易に理解できるような隠喩や比喩で書かれているということが判明しています。

 一方、聖書には以下の事柄が明確に述べられています。

使徒4:10‐12
ナザレ人イエス・キリスト・・この方こそ、『あなた方建築者たちにより取るに足りないものとして扱われたのに隅の頭となった石』です。さらに、ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ、わたしたちがそれによって救いを得るべき名は、天の下にほかにないからです。
ヨハネ 3:16‐18
神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。神はご自分の子を世に遣わされましたが、それは彼が世を裁くためではなく,世が彼を通して救われるためなのです。彼に信仰を働かせる者は裁かれません。信仰を働かせない者はすでに裁かれています。その人は、神の独り子の名に信仰を働かせていないからです。

 そうです、これこそ真実です。「救いを得るべき名」はイエスの名です。

 イエスは、シンプルに次のように語られました。

マタイ18:20(新改訳)
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、私もその中にいるからです。
ヨハネ14:6 (新改訳)
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヨハネ15:1,5 (新改訳)
わたしは、まことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

 この明解な教えに何か付け加えるべきではありません。どの宣教団体も教会も、自分だけが神に受け入れられている、と教えることはできません。そのように述べるなら偽りです。

ガラテア1:8
わたしたちが良いたよりとして宣明した以上のことを良いたよりとしてあなた方に宣明するとすれば、その者はのろわれるべきです。