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会衆内のSOS

Lesson 3-1 聖書の不完全さ

2022.10.25 01:45


 大人は、愛する人に完全を求めません(難しいことですが)。そのような人は存在しないからです。相手が聖書でも同じです。

 まず、書き記された語句というものは、読み手に多くをゆだねます。文章とはそういうものです。

 特に書き手と読み手の文化が違う場合、「完全」などありえません。一つの例として次の聖句があります。

ヤコブ 1:23‐24
み言葉を聞いても行なわない人がいるなら、その人は、鏡で自分の生まれつきの顔を見る人のようなものだからです。その人は自分を見はしますが、そこを離れると、自分がどのような者であるかをすぐに忘れてしまうのです。

 この聖句は現代人にとっては意味がいまひとつピンときません。鏡にはっきりと映った自分の顔は覚えているからです。・・・さて、古代の鏡は金属、例えば青銅をよく磨いただけのものでした。もともと、面がさほど平らではない上に、純度の低い金属で、よく磨いてもすぐに曇ってしまうので、鏡は人の顔をぼんやりと映すだけでした。はっきり映りませんので、古代の鏡というものは、その場を離れれば、どんな姿形だったかを思い出すのは難しいものでした。

 多くの例から分かりますが、あくまで聖書は古文書です。現代に実践するには不適切な文言も多くあります。

コリント第一 11:5,13
だれでも、自分の頭を覆わないで祈ったり・・・する女は、自分の頭を辱めることになります。・・・女が覆いをしないで神に祈るのはふさわしいことでしょうか。
コリント第一 14:34‐35
女は会衆の中では黙っていなさい。話すことは許可されていないからです。むしろ、律法が言うとおり、女は服していなさい。それで、何かを学びたいと思うなら、家でそれぞれ自分の夫に質問しなさい。女が会衆の中で話すのは恥ずべきことだからです。
出エジプト記 21:23‐25
もしも致命的な事故に至ったならば、魂には魂、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き印には焼き印、傷には傷、殴打には殴打を与えなければならない。
出エジプト記 31:14
あなた方は安息日を守らねばならない。それはあなた方にとって聖なるものなのである。それを汚す者は必ず死に処せられる。
出エジプト記 21:20‐21
人が自分の男奴隷または女奴隷を棒で打ち、その者が彼の手の下で死んだ場合、その者のために必ず復しゅうがなされる。しかし、その者が一日か二日生き延びるならば、その者のための復しゅうはなされない。その者は彼の金銭だからである。
使徒 4:32
さらに、信じた大勢の人々は心と魂を一つにし、だれひとり、自分の所有する物について、それが自分のものだとは言わなかった。彼らはすべての物を共有したのである。
使徒 4:34‐35
畑や家を所有していた者はみなそれを売り、売った物の代金を携えて来て使徒たちの足もとに置くのであった。一方、各人の必要に応じて、それぞれに分配がなされたのである。


聖書の成立過程の欠陥

 聖書は完全さを保つように導かれ保護されてきた本、という信念も誤りです。まず一番単純な例は、欠損している聖句が数箇所あるということです。欠損しているのに完全ということはありえません。

 また、聖書は多数の巻物の収録ですが、正典と外典(偽典)の区別や内容の正確さについては、あいまいな証明の仕方しかありません。

 おまけに、現在は偽の箇所と判明したものの、昔は広く正典の内容として信じられており、内容もおかしくはないために聖書の一部として印刷され続けている箇所もあります。ヨハネ8章の冒頭部が代表的です。

神権宣教学校案内書 p14
聖書は、ご承知のとおり、66冊の本でできています。そうした本の厳密な冊数は・・重要ではありません。それらの本の特定な配列順序についても同じことがいえます。それぞれの本は、聖書の正典、もしくは霊感のもとに著わされた本の目録が完結したのち、長い間、別々の巻き物として存続したので、昔の目録は、それぞれの本の配列順序を異にしているのです。・・霊感の所産であると言いうる、なんらかの確かな根拠を持っているのは、今日、正典とされている、それらの本だけです。ほかの書物を正典に入れようとする努力は、昔から抵抗を受けてきました。
聖書全体は神の霊感を受けたもので有益です p301
<研究4―聖書とその正典> 次の一覧表は伝統的なユダヤ教の正典に準じた24冊の書を掲げたものです。(一覧表が続く)
聖書に対する洞察 第二巻 p1130
<ヨハネ 7章53節‐8章11節の偽作の章句> これら12の節は、明らかにヨハネの福音書の元の本文に付け加えられたものです。これらの章句は、シナイ写本やバチカン写本1209号の中には見いだされません。もっとも、5世紀のベザ写本およびさらに後代のギリシャ語写本の中には確かに出ています。しかし、初期のほとんどの聖書の訳本ではそれらの章句が省かれています。ヨハネの福音書の一部でないことは明らかです。ある部類のギリシャ語写本では、この章句がヨハネの福音書の末尾に置かれています。別の部類の写本では、ルカ 21章38節の後に入っており、それが偽作であって、霊感による本文ではないという結論の裏付けとなっています。
聖書に対する洞察 第二巻 p902‐904
<長い結びと短い結び> マルコ 16章8節・・の言葉のあとに長い結びや短い結びが付け加えられている写本や訳本が幾つもあります。長い結び(12節から成る)はアレクサンドリア写本、エフラエム・シルス重記写本、およびベザ・カンタブリギエンシス写本に見られます。またラテン語ウルガタ訳、シリア語クレトニア写本、およびシリア語ペシタ訳にも出ています。しかし、シナイ写本、バチカン写本1209号、シリア語シナイ写本、およびアルメニア語訳にはありません。後代の幾つかの写本や訳本には短い結びが含まれています。8世紀のレギウス写本には両方の結びがあり、短いほうの結びが先に置かれています。その写本は、それぞれの結びの前に、これらの章句が一部の地域で流布しているとの注を付けていますが、どちらの結びも権威あるものとしては認めていなかったようです。


集計の誤りの例

 エズラ記 2:2‐65とネヘミヤ記 7:7‐67は共に、バビロンへの流刑から帰還したイスラエルの民の人数について、部族・立場別および全体の人数を全く同じ仕方で記録しているのですが、部族・立場別の記録の幾つかの項目に、二つの書の間での記載数値の食い違いがみられます。また、項目自体、片方の書では欠落している項目もあります。これらの二つの記録は、それぞれ全く同じ仕方で集計されていることに加え、「全会衆の人数」を始めとする多くの項目の数値はぴったり合致することから、相違している項目については、何らかの原因によるミスであると考えられます。


背教的な教えの詳しい掲載

ヨブ記 4:12‐18
さて、わたしに、ひとつの言葉がひそかにもたらされ、わたしの耳はそのささやきを捕らえた。夜の幻による不安な考えのうちに、深い眠りが人々を襲うとき。怖れがわたしを襲い、おののきも襲った。おびただしいわたしの骨を、それは怖れで満たした。ときに、ひとつの霊が、わたしの顔の上を通り過ぎて行った。わたしの身の毛はよだちはじめた。それは立ち止まりかけたが、わたしはその姿を見分けられなかった。ひとつの形がわたしの目の前にあった。静けさがあり、そのときわたしはひとつの声を聞いた、『死すべき人間―それは神よりも正しかろうか。あるいは、強健な者がその造り主よりも清かろうか』。
見よ、ご自分の僕たちをさえ神は信じておらず、その使者たちの過失をとがめられる。
ヨブ記 25:6
まして、うじである、死すべき人間はなおさらである。虫けらである人の子は!

 もちろん、これらは背教的な発言なのですが、それは聖書の内容に詳しい人でないと分かりません。誤読・悪用される可能性が高い危険な箇所です。


アンデレとイエスの出会い方の違い

 よく指摘されるように、四福音書の内容は少しずつ違っています。それぞれ完全ではないからこそ、多数の福音書が残っているとも言えます。多くの相違箇所は解説次第で一致させられますが、アンデレとイエスの初めての出会いの記述が違う点については絶対に無理です。初めての出会いは一回しかありません。短い文章で、初回の遭遇がそれぞれ違う出会い方になっています。

 福音書の性格について、ルカが述べています。

ルカ 1:1‐4
わたしたちの間で全く信じられている事柄について、初めからの目撃証人また音信に仕える者となった人々がわたしたちに伝えたとおりにその叙述をまとめようと、大勢の人が手がけましたが、私も、すべてのことについて始めから正確にそのあとをたどりましたので、それを、きわめて優れたテオフィロ様、あなたに、論理的な順序で書いてお伝えすることを思い定めました。それは、あなたが口伝えに教えられたことの確かさを十分に知っていただくためです。

 細部が相違してはいても、主流を同一にする四福音書がある、ということです。

 聖書には価値がありますが、完全なものではありません。そのことを理解し、聖書自体を神と同一視したりしないようにしてください。それはキリスト教信仰の上での大切な安全弁です。聖書を完全視するキリスト教信仰は、決して人々の助けとはなりません。