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会衆内のSOS

Lesson 3-4 輸血拒否は反聖書的

2022.10.22 02:28

 筆者は、この教理を信じて既に亡くなられた故人各位へは敬意を払います。それを無駄死にだとは思いません。人は結局、死にます。

 しかし、JWの方が輸血拒否の信条を持つのは、単に輸血拒否を頭から叩き込まれているからです。誰だって偏った情報しかもらえなければ偏った答えしか出せません。そして、輸血拒否の教理が破綻していることを20年以上前からはっきりと理解しつつ、偏った情報と指示を与え続けているJW統治体には重い罪があります。この教えはJW内の「現行法」だからです。

 新約聖書における血の取り扱いに関する記述は、以下の個所です。

使徒 15:19‐20
わたしの決定は、諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず、ただ、偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。
使徒 21:25
諸国民の信者たちについては、偶像に犠牲としてささげられた物、ならびに血と絞め殺されたもの、また、淫行から身を守っているべきであるとの決定を下して、使いの者を送ってあるのです。

 ご覧いただいてお分かりのように、異教の神の偶像に犠牲としてささげられた動物の肉を食べてはならないこと、放縦な性を避けること、血を食べてはならないこと、絞め殺した動物の肉を食べないことが示されています。

 これを根拠に、食べるのがダメなら輸血も一緒だから拒否するという結論はあまりにひどい短絡的な思い付きです。この時代は、薬用であろうが食事目的であろうが、用法は食用以外ありません。現代医療における高度な血液の用い方と全く次元が違います。

 全く次元の違う話を、JWの教えでは「例えば、酒をやめるようにと医者から言われた人がいたとして、飲まなくても直接注射器で血中に入れるとしたら、それはお医者さんのアドバイスに従っていることになると思いますか? 輸血についても同じです」という乱暴な例えで説明しきってしまうのですが、よく考えれば分かるように全く論理性がありません。子どもの軽率な思い付きか、頑迷で憂鬱な老人の思い付き以上のものではありません。


聖書は敬意を求めているだけ

 当時、血をゴクゴク飲み物にすることは禁止されていました。ただし、血抜きをしても肉には残り血がかなり残り、それを食べることに関しては何の否定もされていません。つまり、神は人に対して「手順」を置かれたのです。全ての命は神のものだ、という意識付けです。人間が命の全権を握って、なにもかも好きにしてよいわけではありません。それで、殺して動物の肉を食べることは許されていますが、命の象徴である血は大地に戻されねばなりませんでした。

 人間は、相手が動物であっても、かけがえのない命というものへの感謝と敬意がなければなりません。血抜きという段階が厳守され、血そのものは飲食の対象としないことによって、命への敬意が掲げられたのです。

 またコリント第一10章の使徒パウロによる指示は寛容です。

・・・すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人の良心のために、食べないがよい(口語訳)・・・

 これはかなりおおらかなものです。当時の市場で売られていた動物の肉は、血抜きなどされていないものが多くありましたし、非信者がご馳走してくれる肉の多くも同様でした。


輸血拒否は聖書の思想と逆である

 聖書の中で、血という語は「命」や「神の権威」を意識付けさせるために使われています。血を特別なものとして扱うことによって、命や神に対する敬意を示しています。

 さて、高度な現代医療としての輸血のどこに命や神に対する不敬があるでしょうか。深く考えず、輸血拒否という教えにとびついた統治体がおかしいのです。それこそ血と神への不敬です。

 輸血拒否は聖書の一部だけをカルト的に解釈した教えであり、聖書の教えの本質からかけ離れています。意外かもしれませんが、統治体は決して馬鹿ではありませんから、とっくにそのことは悟っています。ただ、すでに大勢の殉教者が出ており、この宗教の大看板ですから、撤回は不可能と考えているのです。そのことは、過去20年に揺れ動いた指示や矛盾した例外規定から明らかです。分かっていて撤回しないのは単なる政治的判断です。神の名をよく持ち出せるものです。真っ先に自分たちが創作した神に自身が滅ぼされると分からないのが慢心した宗教指導者の末路です。

 輸血拒否に関するものみの塔の記事は、ひどい論理の飛躍と内部矛盾、敬語を使った脅迫の宝庫です。おどろおどろしい言葉で恐怖をあおり、思考停止させます。統治体の言葉は聖書より重要です。聖書や神よりもJW組織の方がずっと上なのです。


 輸血拒否問題については音声版もお聴きください。内容が拡充されています