孝謙天皇神社
https://kyonsight.com/jt/simotsuke/kamidai_kouken.html 【孝謙天皇神社[こうけんてんのう神社]】より
栃木県下野市上大領161
祭神:孝謙天皇 配神:御篠元女官・御笹元女官
境内社:神明大神・八坂大神・稲荷大神・八幡大神・村上社
旧地名:下都賀郡石橋町上大領161
四十六代孝謙天皇の舎利塔を御神体とする。徳川家が代々崇拝し、朱印地高三石を賜わる。
詳しくは由来書を。聖武天皇の娘孝謙天皇としての在位期間は749-758年。重祚して称徳天皇としての在位期間は764-770年。実際は平城宮で崩御なされている。道鏡が下野薬師寺別当に任ぜられるのは崩御の後である。天皇の高級女官として権力をふるった篠姫と笹姫も,邪魔にされて道鏡と共に下野国に配流されたというところだろう。
本殿裏手に石垣があり,柱に「下都賀郡石橋宿」と彫られている。
境内に多数の石祠が祀られている。
背後に男体山を望む。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 4巻26丁
下都賀郡石橋町大字上大領鎭座 村社 孝謙天皇社 祭神 孝謙天皇 建物本社間口一間半奥行仝 氏子二十戸
本社創立詳かならす 社域六百七十一坪にして字江川端に在り
http://www.muse.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/kikaku/20220917ganjin/index.html 【開館四十周年記念特別企画展 鑑真和上と下野薬師寺 ~天下三戒壇でつながる信仰の場~】より
企画展概要
下野薬師寺は、古代下野の仏教文化を象徴する名刹です。創建は飛鳥時代にさかのぼり、大宝律令の選定者の一人である下毛野古麻呂を生んだ豪族下毛野氏の勢力下に成立したと考えられます。
奈良時代には日本屈指の大寺院との位置づけから、唐僧鑑真による授戒作法を執り行う戒壇が東国で唯一設置され、東大寺(奈良県奈良市)、観世音寺(福岡県太宰府市)と並び、天下三戒壇と称されました。以後、東北・関東地方十か国の授戒と信仰の中心寺院となり隆盛を誇りました。
平安時代に一時衰退しましたが、鎌倉時代に慈猛が戒律と真言密教を柱として再興を果たしています。南北朝時代には足利尊氏によって安国寺に改称され、以後600年以上にわたって安国寺として存続しましたが、平成29年(2017)の平成の大修理を契機に寺名を下野薬師寺に復古しました。
下野薬師寺には、鑑真の高弟で「持戒第一弟子」とされた道忠をはじめ、道鏡や行信といった日本屈指の高僧が下向したほか、同寺から輩出された人物として、日光開山の勝道、金沢北条氏の菩提寺である称名寺(神奈川県横浜市)の開山に招かれた審海が知られています。
当館が開館して40周年という節目の年にあたり、天下三戒壇の一翼を担った下野薬師寺について再評価することで、栃木県の豊かな歴史と文化を再認識していただければ幸いです。
(以下略)
https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-12580631074.html 【栃木県:スーパーエリート・下毛野古麻呂 &「東の飛鳥」】より
新型コロナウイルス、いつまで続くのかその見通しは難しい。世界に感染拡大の最中、その中で震源地の中国民の率直な感謝表明のニュース。日本から中国に届いた支援物資に「山川異域、風月同天(山や川は違えども、同じ風が吹き同じ月を見ている)」との漢詩の一節が。こちらも毎日閉塞感の日々、外出を控え自宅自粛ムード、暇はあるが金はなし。ここで日中の過去・未来の永い交流、その歴史をこの機会に考えてみるのもどうか。
現在、東京一極、地方は閉塞とその構図は止まらない。かの著名な考古学者・故森浩一「考古学は地域に勇気を与える」と説く。「地域学のすすめ」(岩波新書、写真)を手にする。
https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12571834595.html 【城跡=平出工業団地?】
https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12413016094.html 【地域学】
https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12413004237.html 【地域学】
https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12412796884.html 【地域学】
古代は草深い田舎と思われてきた関東で、なぜか考古学上の節目となる発見が多いと記す。その中で私が特に注目したのは「律令体制と下毛野朝臣古麻呂」(P39〜41)の記事で、地方豪族出身の貴族の存在である。
もう少し掘り下げるため、下毛野古麻呂のことを私なりに調べ直してみた。
飛鳥時代は激動が相次ぐ緊張に満ちた時代であった。7世紀~8世紀にかけてヤマト朝廷は中央政権を形成、すなわち天武・持統王朝に至り、日本初の統一国家の誕生、大宝律令にて「倭」から「日本」の律令国家へと体制つくりを成し遂げた。写真は飛鳥宮廷の世界。
当時飛鳥時代は全国で600~700万人の人口しかいない。地方ではウジを単位として地域に君臨する小豪族・首長の世界、古墳時代をまだ引きずっていた世であった。
ここで北関東の田舎、下野国(栃木県)から突然、スーパーエリートである下毛野古麻呂が登場してくるのである。
下野氏(しもつけ、栃木県)は、現在の下野市を中心とした地域を本拠地とした有力な氏族で、上野氏(かみつけ・群馬県)とともに東国統治の伝承をもつ豊城入彦(とよきいりひこ)を祖とし、下野国の国造(地方首長)であつた。
下毛野古麻呂の名前が資料に現れるのは「日本書記」持統天皇三年(688)が最初で、この時すでに中央貴族と同等の位にあった。その
後、大宝律令の撰定に携わった関係から当時大臣に当たる兵部卿を歴任した。地方貴族が中央貴族に昇格することは、当時としては異例なことで、彼がいかに有用な人物であったかが分かるのである。古麻呂は、実務実践者においては大宝律令撰定者の上位トップであった。撰者には刑部親王(おさかべ)・藤原不比等・栗田真人ら19人が知られる。
ご存知、大宝律令とは、701年に文武天皇が天武(写真)・持統の意を次いでこの事業を1年で仕上げる。刑罰を定める「律」と統治の仕組みを定める「令」がそろった日本初の律令体制である。もちろん唐の律令の仕組みに倣ったものだが、原点の漢文素養が無ければその役は務まらない。実務官人の多くは、渡来人もしくは渡来人の末裔、唐や新羅への学問僧や留学経験者の知識も連ねていたに違いない。だが、古麻呂は、このような経験を持たない、だが最後には大学博士にもなった、超エリートであった。
地方から出て、学問により国家の中枢の重要な地位に就いていた人物として類例のない人物である。畿外に基盤を持つ氏族からの出身者から昇進はこの当時古麻呂だけ。他に吉備真備や和気清麻呂しかいない。最後は朝臣・式部卿代将軍正四位まで昇進し709年に古麻呂は没した。
余談だが、当時の役人の地位と収入を推定すると(2000年時点、奈良国立文化財)、一位(太政大臣) 4億4千万円;二位(左右大臣) 1億5千万円;三位(大納言など)8千8百円;正四位(参議など上級官人) 4千8万円;正六位(下級官人) 830万円 ;最下位(舎人など) 270万円と相当の格差は今よりも激しいか。古麻呂は正四位なので当時としては上位貴族の高給取りでもあった。
そして当時東国としては最大の下野薬師寺、中央の大寺院と肩を並べる大寺院の創建にも古麻呂は関与した。地方が氏神として競って氏寺を競っていた頃、下野の氏神として建立されたのが下野薬師寺の始まりである。時は天武天皇の命で律令と国史の編纂が始まった、685年頃である。後ほど日本三大戒壇が設置さるなど、官寺として日本代表格の大官寺に昇格した。まさに飛鳥・藤原の都とほぼ同時期に
唐の知的文化を下野国でも地方文化を花咲かせていていたのである、そのことは驚きだ。尚、 下野国に新羅人を移住させたと日本書記、持統元(686年)・同三年・同四年(690)に記されている。また,須国造碑には倭人では知りえない唐の元号、永昌元年(689)銘があり、いずれも新羅人の存在は無視できない。また下野国は陸奥に通ずる東山道の起点でもある。これらの秘める歴史の視点にも重みがあるようだ。(紙面が尽きたのでいずれかに取り上げたい)。
ウイルス疫病が治まった頃に、共に学ぶ明治大学博物館分科会「飛鳥・藤原を学ぶ会」一同と、ゆっくりとこの「東の飛鳥」(写真)を巡る予定である。このように関東の裾野は広いのである。