「作」は救いになるか?
最近、自分の考えを言語化する機会が多くありました。色々な書類の申請のためとか他者への説明のためとか。
言葉にするというのは、恐ろしいことだと思います。少なくともわたしは。多くの場合「バカだからわかんない」「相容れないままでいい」と諦めて、あるいは、逃げてしまいます。
はっきり。ブログ向いてないです。
だからこれは、全部わたしのための文章です。一個人の考えを、しかも本人が、まとめるための、文章です(これも逃げです)。
何を原動力に「作」るか
これ、他の作家さんに対してわたしが最も興味のあることです。もう、本当に、ものすっごく興味があるので、ぜひ教えていただきたいです。教えてください。
わたしの原動力は「怒り」です。「怒り」の感情や「怒り」を覚えるような事象を基に作っています。なんだか不健康に聞こえますが、おそらく全ての本をこうして書きました。
以前読んだ記事に「病んでいる時の方が良い作品が作れる」という文がありました。筆者の方は画家さんだったと記憶しています。また、この記事への反応として「本当に病んでしまうのは二流、一流の作り手は病める自分を想像して作品を作る」というコメントもありました。一流か二流については置いておいて、どうやら「病んでいる」という状態が作品に関係するというのは物作りの世界ではよく言われていることのようです。
病んでいる時、負の状態からの抜け出し方は人それぞれだと思います。寝る人、食べる人、体を動かす人、お金を使う人など。それと同じく作品を作る人もいて、というかわたしはそういう人なんだろうと思います。
題材としての「怒り」
上に書いたように創作活動において「怒り」を原動力にしているのは「それがわたしのストレス発散方法だから」という理由なのですが、題材としても「怒り」を取り上げることが多いです。
いらいら、めらめら、ふつふつ、もやもや。激しいものや静かなもの、悲しみからくるものや愛情からくるものなど。
「怒り」と一口に言ってもその種類はたくさんあるし、ニュアンスには結構違いがあるなと感じることが多くって、わたしはそこにすごく興味があります。個人個人でも違いが大きくて、なんでそこで怒るの!?と思ったり思われたり、怒らないんだ~と思ったり思われたり。
しかも「怒り」を感じてる時ってその対象へのエネルギーが強すぎて周りが見れない上に、その気持ちを昇華させるためにとりあえずの同意を求めがちなので、なおさら自分と「怒り」への感性が違うことが気になってしまうような気がします。
どの感情も人それぞれ違うよ!と言われればそれまでなのですが(逃げ再び)、自身の「怒り」への興味から題材に使うことが多いのかもしれません。
さて、「事実は小説より奇なり」という言葉があります。現実は虚構よりもかえって不思議である、という意味の言葉です。
その通りすぎる〜〜〜〜!!!!!!
突然いままでのブログの雰囲気を無視して文を書いてしまいました。ごめんなさい。かっこつけも限界を迎えてきたのかもしれません。
大した人生経験もないのですが、それでも「こんなことってある?」と思うような出来事は何回かあります。不思議で、理不尽な、「虚構のような現実」とでも呼ぶべきでしょうか、きっとわたしだけでなくみなさんも経験があるのではないかと思います。
自分に降りかかる「虚構のような現実」は、時に耐え難いほど気味の悪いものです。「怒り」のような負のエネルギーに自分が侵されてしまう感覚は辛く苦しく、でも生きていく上で誰もが感じるものではないでしょうか。
当然ですが演劇とは虚構です。
現実のような虚構も、虚構のような虚構も、好き勝手に「作」ることができます。そしてその作られた虚構は、どんなに不思議であろうと、理不尽であろうと、必ず終わります。
似たようなことを過去にツイートしていました。
この内容がつまるところなのですが、わたしは「虚構のような現実」への抵抗として「作」をしているのだと思います。
「作」は救いになるか?
ここでの救いというのは、あくまで「作」であるわたし個人の、という意味です。もっとも、演劇をやる側としても観る側としても、わたしは上に書いたように「怒り」や「虚構のような現実」への救いを求めているのですが。
語弊を恐れずに思い切って書くと、わたしにとって「作」は八つ当たりです。
日々のストレスを解消する手段として、自分が覚えた「怒り」と「虚構のような現実」への抵抗と昇華の手段として、の、八つ当たりです。
(……やはり語弊を生むのが怖いです。逃げたい。)
わたしが感じ抱えてきた「怒り」と死なない限り切り離せない「虚構のような現実」への抵抗を、作品としてわたし以外のもの(登場人物・役者・お客さん・作品自体さえ)と共有することは、これ以上ない救いなのではないかと思います。
本を「作」る過程でも、稽古を経て演劇に立ち上がっていく過程でも、そして上演し、お客さんに感想を頂くことでも、「作」のわたしは救われることができるのです。
「作」は救われるためにあるか?
一方で、これに関してはわたしは違うと考えます。
負の感情への向き合い方として「作」を選ぶことは勝手です。ただ、自分以外のものを巻き込んだ時点で、それは自分だけの問題ではないのです。付き合ってもらう以上、それに値するものを「作」るという意識や責任は持つべきではないかと思います。つまり、「作」るだけなら勝手だけど、上演するという選択をしたならば、自分が救われるためだけでなくそれ以上のことを目指さなくてはならない、ということです。
先程八つ当たりという表現をしましたが、ただの八つ当たりに終わらせないようにきちんと作品として「作」り上げることは、劇作家を名乗るのであれば必要不可欠だと考えます。しかし必要不可欠であると同時に、この作り方をすると見えづらくなる、難しいところなのかもしれません。
最後に
何回も書いていますが、これは全てわたしのための文章です。
半分が本当で、半分が逃げです。
ブログとして共有しているのだから意識や責任は持つべきなのでは?てかそれさっきお前が自分で言ってたじゃん?
というお言葉に対して、
その通りすぎる〜〜〜〜!!!!!!
すみません。精進します。
長い文章を読んでくださり、ありがとうございました。