ネトウヨと保守、右翼は何がどう違うのか
ネトウヨと保守、右翼は何がどう違うのか http://bit.ly/2orIPMN
AERA編集部 2017年04月25日
西部邁、中島岳志が師弟対談
自民党の閣僚や国会議員にも「ネトウヨ」のような発言が増え、籠池問題で保守派のイメージが暴落した。「あんなのと一緒にしてくれるな」と怒る保守の論客が、沈黙を破った。
──現代では「保守」という言葉が、さまざまに解釈されています。「保守」という言葉の定義を教えてください。
中島:政治的な保守という場合、近代合理主義に対するアンチテーゼとして生まれた近代思想の系譜を指します。イギリスの政治思想家エドマンド・バークを嚆矢とする、近代左翼の人間観に対する懐疑的な態度です。左翼は理性に間違いはないと信じ、理性と合致した社会設計をすれば、理想社会が実現できると考える。それに対して、バークは人間の理性の完全性を疑った。理性を超えた慣習や良識にこそ、歴史のふるいにかけられた重要な英知があると考えた。これが保守のスタート地点です。
思い描く理想だけで大変革をすると…
西部:保守の政治思想は三つに整理できる。第一は、中島君が言った、人間の完成可能性への懐疑。人間は道徳的にも認識的にも不完全性を免れないのだから、自分が思い描く理想だけで大変革をすると取り返しがつかなくなるという姿勢です。第二は、国家有機体論。社会はまるで植物の有機体のようにいろいろなところに張り巡らされ、成長したり衰退したりする。そこに人工的な大改革を加えると、有機体が傷ついてしまう。個人や集団の知恵ではとらえきれない、長い歴史を有し、複雑で多種多様な関係を持った有機体であることを忘れてはならないという論理です。第三は、改革はおおむね漸進的であらねばならないということ。合理的に説明できないという理由で破壊的な社会改革はすべきでない。伝統の精神を守る限りにおいて、一歩一歩、少しずつ改革していくべきだという考えです。
──伝統の精神を守れば、保守でも現状を変えるのをいとわないということですか。
西部:保守を、現状維持と解釈してはいけません。現状とは過去から残された慣習の体系ですが、保守はそれを無条件に受け入れはしない。本当の保守は慣習という実体の中に歴史の英知のようなものを探りあて、それを今に生かそうとします。それが、どの変化を受け入れ、拒否するかの基準になる。ただ、歴史の英知には実体がない。「天皇陛下」や「靖国神社」は歴史の英知ではなく、慣習の体系です。その中に日本国民のバランス感覚がどう示されているかを、その時代、その状況において、皆が議論して確認する。そうした慎重な態度を保守思想と言うのです。
中島:右翼と保守の違いも考える必要があります。よく右翼は復古主義だと言われます。復古とはある一点の過去に戻りさえすればユートピア社会に回帰できるという考え。戦前の日本の国体論もそうですし、イスラム原理主義も同様です。保守からすれば、過去の人間も不完全な存在で、過去にも問題があったと考えざるを得ない。保守にとっての過去は分厚い歴史のようなもので、特定の一点への回帰ではない。これが日本の右翼思想と保守との大きな違いです。
西部:ドイツの哲学者カール・ヤスパースは「人間とは屋根の上に立つ存在である」と言った。どちらかに偏れば、右にも左にもすぐ転落する。それを避けるには、ただ一本の棒がバランスを取る役目を担ってくれる。保守はこれを伝統と呼ぶ。
リベラルの起源は寛容
──中島教授は「リベラル保守」を提言しています。リベラルとは何を指すのでしょうか。
中島:リベラルの根拠を探っていくと、いわゆる欧州の「30年戦争」に突き当たります。江戸時代の初期、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントがずっと宗教戦争をしていて、価値観の違いによる殺戮(さつりく)を繰り返していた。1648年、これを何とか終結させようと「ウェストファリア条約」を結び、後の国際秩序を形成していく。このとき重視されたのが、「寛容」という概念です。世界には考え方の違う人間が多くいる。それに対してまずは「寛容」になり、そこから合意形成をしないと秩序が保てない。30年戦争の反省から出てきた「寛容」が、ヨーロッパのリベラルの起源です。
西部:英語でいうと、tolerance(トレランス)。これは忍耐とも、寛容とも訳される。自分も相手もいろいろ不完全なのだから、自分の不完全さにとりあえず忍耐し、その上で相手にもある程度寛容になることで、初めて議論が進むだろうと考える。議論で少数派の言うこともよく聞けばまっとうじゃないか、と考える態度も寛容さだということです。
中島:デモクラシーを多数派の専制にしてはならないというのが政治学の基本です。フランスの政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルが名著『アメリカのデモクラシー』で書いたのは、多数者の専制を引き起こす大衆社会の熱狂を避けよ──ということ。多数者の専制下では、少数者は抑圧され、最終的には個性や自由が迫害された均質社会となり、大衆社会にのみこまれる。それは避けるべきだと説いた。そして、デモクラシーが健全に機能する前提として、学校、協会などの中間共同体を挙げている。この中間領域は、メディアの出現で崩壊するとも書いています。為政者と個人がメディアを通じて一対一となると、為政者は大衆の欲望の代理人となり、ポピュリズムのような政治がはびこる。メディアと大衆、それを利用しようとする政治家が三位一体となり、結局、アメリカのデモクラシーは崩壊すると指摘しています。
西部:イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは後年、トクヴィルを読んで感銘を受け、書評論文を書いた。現代イギリスの恐ろしさは毎朝、同じ時間帯に、同じ紅茶を飲みながら、同じ新聞を読んでいる人が3千人もいることだ、と。人間はそれぞれ個性を持って態度を決めるべきなのに、3千人も同じものを読む時代を恐ろしいと言う。今の日本のメディア状況なんて、どれだけ恐ろしいか(笑)。
──いわゆる「ネトウヨ」は、保守思想にシンパシーを感じている人も多い。保守からはどう見られているのでしょうか。
中島:彼らは保守思想にすらコミットしていないと思います。左翼が言っていることが気に入らないという「反左翼」という意識だけではないか。
西部:でも、この「反左翼」の歴史は長い。何十年も前から有名な右派論客にも、「反左翼」だけの人間はたくさんいる。それが次第に数を増やして、ネットにあふれている。ただ、彼らの言葉が過激になったことの背景はある。戦後70年間、言論界のみならず学界、経済界、政界も左翼思想になじむ言動をしないとパージされてきた。それに反抗するのだから、極端な人間が一定数増えるのは必然です。
右翼も左翼も少数自負
中島:奇妙な「ねじれ」もあった。朝日新聞をはじめ、左派は「自分たちはマジョリティーじゃない」という意識がある。政権はずっと自民党で日本は保守の地盤が強く、自分たちはそれに抵抗している少数派だという自意識です。一方で、右派は自分たちの意見がメディアや教育、アカデミズムから排除されている、マイノリティーであり、誰もそれを代弁してくれないという意識があった。双方が「アンチの論理」でやりあったからぐちゃぐちゃになったんです。
西部:ネトウヨにはある種の反知性主義としか言いようのない、下品な言葉遣い、他人に対する誹謗中傷、罵詈雑言(ばりぞうごん)があるらしい。トランプ米大統領をはじめ、世界の指導者でもゴロツキがたくさん出てきた。でも、これは反社会的勢力のレトリックと同じなんです。たとえば、トランプ大統領は昨日と今日で言っていることが180度違う。それは、危機的状況を回避するときに反社会的勢力が得意とする、「俺たちは、場面場面でものを言っとるんじゃ」という態度と同じ。そういう人間は矛盾を指摘されてもまったく動じない。昔の保守政治家には、相矛盾した二つをギリギリつなげる微妙で繊細な語彙(ごい)、ユーモアがあった。今は、それもなくなり、ただの乱暴な言葉だけだ。
一方で、左翼の論客の言葉だってネトウヨと同等に乱雑で、内容としては反知性的なオピニオン、つまり「根拠のない臆説」が増えている。右翼だけが反知性主義だというのは、朝日の偏見です(笑)。
中島:朝日を最も攻撃しているのも、また左翼です。ちょっとでも理想と違うと糾弾する。どっちもどっちです。
西部:われわれのような真の保守たらんとする者たちから見れば、勝手にやってくれということですよ(笑)。
(構成:編集部・作田裕史)
※AERA 2017年5月1-8日合併号
=== AERA記事(ここまで)===