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物部氏

2022.11.13 07:16

Facebook横田 とみ子さん投稿記事 物部氏の 正体   関裕二氏

そら見つ日本(やまと)の国。この名はニギハヤヒによって作られた。そのニギハヤヒを祖とする物部氏。かれらは、古代日本に何をもたらしたのか。

蘇我氏と崇仏の是非を争っただけではなかった。それ以前から、ヤマトの建国にかかわっていた。いや、天皇家よりも前にヤマトを治めていたのかもしれない。

いや、大和以前に出雲や吉備にいたのかもしれない。物部の謎は、日本の謎である。

数ある古代日本の謎のなかでも物部(もののべ)の謎ほど、深くて怪しいものはない。

 研究者たちも、こと物部をめぐっては百花繚乱というよりも、むしろお手上げの状態だ。ぼくもかつて直木孝次郎や鳥越憲三郎のものや、70年代後半に出版された黛弘道の『物部・蘇我氏と古代王権』とか、畑井弘の『物部氏の伝承』などを読んでこのかた、物部氏をめぐる謎をずうっと気にしてきたのだが、どうにも埒があいてはいなかった。

 いろいろ理由があるのだが、なかでも、和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまったということが大きい。この処置を断行したのは藤原不比等だった。このため、物部をめぐる記録は正史のなかでは改竄されてしまった。物部の足跡そのものを正確に読みとれるテキストがない。

 だから物部の歴史を多少とも知るには、『古事記』はむろんのこと、不比等の主唱によって編纂された『日本書紀』すらかなり読み替える必要がある。のちに『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)という物部氏寄りの伝承をまとめたものが出るのだが、これも偽書説が強く、史実として鵜呑みにすることは、ほとんどできない。

 なぜ物部はわかりにくいのか。なぜ物部一族は消されたのか。たんに藤原氏と対立しただけなのか。その物部氏はなぜ『先代旧事本紀』を書かざるをえなかったのか。こういうことはまだあきらかにはされていないのだ。

 いったい物部は歴史を震撼とさせるような何かを仕出かしたのだろうか。それとも、物部の足跡を辿られては困るようなことが、日本史の展開のなかや、記紀の編纂者たちの事情にあったのだろうか。こういうこともその全貌はわかってはいない。

 けれども、記紀、古代歌謡、『先代旧事本紀』、各地の社伝などを徹底的に組み直していけば、何かは見えてくる。その何かは、ひょっとしたらとんでもないことなのである。とくに神武東征以前における物部の祖にあたるニギハヤヒ(饒速日命)の一族の活躍は、古代日本の本質的な謎を暗示する。

 一方、畑井弘の研究がすでに示唆していたことであるが、実は物部一族とよべるような氏族はいなかったという説もある。

 物部とは、「物具」(もののぐ=兵器)を中心とする金属生産にかかわった者たち、「フツノミタマ」を祀っていた者たち、「もののふ」として軍事に従った者たちなどの、幾多の「物部八十伴雄」(もののふのやそとものお)と、その後に「物部連」(もののべのむらじ)としてヤマト王権の軍事・警察・祭祀をつかさどった職掌にあった者たちとの、すべての総称であったのではないかというのだ。

 まあ、そういう説があるのはいいだろう。しかし、仮にそうだとしても、やはりそこにはフツノミタマを奉じる一族がいたであろうし、石上神宮の呪術を司る一族がいたはずなのだ。そして、その祖をニギハヤヒと認めることを打擲するわけにはいかないはずなのだ。ぼくは、やはり物部一族が“いた”と思いたい。

 では、物部とはどんな一族だったのか。出自はどこなのか。物部が仕出かしたこととは何なのか。ヤマト朝廷と物部の物語はどんな重なりをもっていたのか。


https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20120404/ 【第24話 物部氏と百済】より

 先月号で、善光寺は物部守屋の鎮魂を行う為に造られた特殊な施設であることを述べました。中心となる本堂の祭壇の中央に守屋柱。「寺」とは言うものの仏塔を持たず、そして無宗派。施設の名称を本田善光という人名から採る異例さ。

 その善光という人物ですが、百済滅亡後日本で生涯を閉じた百済王子・善光である可能性に触れました。仮に物部氏の祭祀を百済王族が行ったとすれば、それは物部氏と百済王族が同族であった可能性が極めて高いことを意味します。

出雲バス停(奈良県桜井市)

 なぜなら一族の先祖の供養は同族の者に行わせなければ魂を鎮めることができないという考えがあったからです。古代中国では周が商を滅ぼした後、商の王族に杞(き)という小国を与えて先祖を祀らせました。

 日本でもいわゆる出雲族の霊をなぐさめる為に三輪山(奈良県桜井市)の神を大物主(大国主)神として、それを祀る出雲人の集落が作られ出雲庄という地名に残っています。

 果たして物部氏と百済王族が同族ということがありうるのでしょうか。

1.「もののふ」と「もののべ」

本居宣長「訂正古訓古事記」(季刊明日香風121より転載)

 古事記には、応神天皇の五世代目の皇子にについて次の記述があります。5世紀の終わり頃のことです。

 「物部(もののふ)の我が夫子(せこ)が取りはける大刀(たち)の手上(たかみ)に丹(に)画きつけ、其の緒は赤幡を載せ、赤幡を立てて見れば、五十隠(いかく)る山の三尾(みお)の竹をかき刈り、末押しなぶる魚簀(なす)、八弦(やつを)の琴を調ぶる如く、天(あめ)の下を治め賜へる伊耶本和気天皇(いざほわけすめらみこと)の御子市辺之押歯王(いちのへのおしはのみこ)の奴末」

 大意は、「赤い軍旗を立てて武力で広い国土を治めた履中天皇(イザホワケ)の落ちぶれた孫が私です」。「私」は後に即位し、仁賢(にんけん)天皇になります。

 注目すべきは、最初の「物部」の部分です。古事記は漢文で書かれており、上記引用文は江戸時代の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)が日本語に読み下したものを基礎としたものです。本居宣長は、「物部氏は天皇一族ではない」という前提で「もののべ」を「もののふ」と読み分けました。

2.物部と天皇家

 偉大な天皇の装飾に「物部」。豪族の名前にも「物部」。本居宣長が前者を「もののふ」、後者を「もののべ」と日本語で読み替えたばかりに、同じ文字であることに注意を払わなくなってしまいました。

 果たして、物部氏という豪族が天皇の臣下に存在したとすれば、天皇の偉大さを装飾する形容詞として同じ漢字を使うものでしょうか。

 古事記は漢文、即ち中国語で書かれています。編纂された奈良時代は、唐の文化が日本の模範であり、その唐では皇帝の名前に使う漢字の使用を遠慮して避ける習慣がありました。このような状況下で、臣下の固有名詞を天皇の装飾に用いることはあり得ません。

 古事記は、藤原不比等(ふじわらふひと)が都合の良いように奈良時代に作らせた史書です。その目的は当時、天皇を操る地位にあった藤原家の基盤を強固なものにする為に、万世一系の天皇の血筋を虚構で打ち立てることにありました。

 「天皇家」は古ければ古いほど藤原家の権威も高まります。「天皇家」は紀元前7世紀から一貫して続いていたことにしました。

 5世紀の約百年間続いた王朝について見てみましょう。中国南朝の史書によれば西暦413年の讃から502年の武まで5人の王が記録されています。不比等はこの期間に事実と関係なしに第15代応神天皇から第25代武烈天皇まで11人の天皇を配しました。

 天皇家の出発点を古く設定したため実際より長い期間になり、多くの天皇が必要だったからです。

 もとより倭では王も庶民も苗字がありません。現在の天皇家にも苗字がありません。不比等は実在した5世紀の王族を讃え、それ以外の王族と区別するためだけに用いられた形容詞「物部」を、苗字として使うことで物部氏を王の血筋とは別の豪族と思わせようとしたことが古事記と日本書紀から読み取れます。

 「物部」を冠した物部氏は、第15代応神天皇から第25代武烈天皇まで「天皇家」そのものだったと言わざるを得ません。

3.百済王と七支刀

国宝・七支刀(石上神宮絵葉書より)

 日本書紀は百済の肖古王(しょうこおう)が神功皇后(じんぐうこうごう)に七支刀(しちしとう)を贈ったと記します。神功皇后は架空の人物と思われますが、古事記・日本書紀によれば応神天皇の母であり、年代としては4世紀後半と考えられます。

 石上神宮(いそのかみじんぐう。奈良県天理市)には七支刀が伝わっています。剣の銘文によれば泰和(太和)4年(西暦369年)に中国南朝の東晋で作られたものであり、王に贈られたことが解ります。日本書紀に書かれた剣に特定して良いでしょう。

 七支刀は、物部氏と縁の深い石上神宮に今日まで秘蔵されてきました。贈られたのは王。枝の出た剣は実用品ではなく、国家統治を象徴する剣です。王(天皇)がこれを臣下に下賜することは考えられません。この剣も物部氏が5世紀の「天皇家」であったことを示唆します。

4.百済王と物部氏

 百済の肖古王は4世紀末、物部氏に剣を贈りました。その百済は、建国時期がはっきりしません。朝鮮半島では12世紀に「三国史記」が書かれるまで歴史書がなく、客観的に建国時期を知るには他国の記録に頼るしかありません。

 中国の史書「晋書」に初めて百済が登場するのは、西暦372年の朝貢の記事です。記された「余句王」が肖古王のことと考えられます。

 古事記によれば応神天皇に照古王(しょうこおう。肖古王に同じ)が馬などを献上しています。応神天皇は4世紀末から5世紀にあたります。おそらく百済は高句麗人の肖古王が4世紀の後半に建国し、現在のソウルあたりを都にしたと考えられます。

 しかし百済は建国から程なく倭の軍門に下ります。

 高句麗の好太王碑によれば、391年に倭が海を渡って百済や新羅を支配下に置いたこと、その後百済と倭は友好関係にあったことが解ります。

 倭の支配下に入った百年後、6世紀頃の百済を記録した隋書(ずいしょ)には、百済は高句麗から分かれた国であり、新羅人、高句麗人、倭人それに中国人が雑居していると書かれています。

 長期にわたって百済は独立を保ちながら倭と友好関係を維持しており、百済王と倭王間に姻戚関係があったことがうかがえます。即ち、4つの民族の雑居地を倭王の血を引く高句麗人の王が統治していたのでしょう。

 5世紀の王が物部氏であれば、百済王家と物部氏は親族ということになります。

5.物部王朝

 5世紀に入ると、今まで奈良県桜井市を中心とした地域に造られていた前方後円墳が、大阪府堺市を中心とした地域に造られるようになります。その規模は巨大化し、墓としては世界最大のものまで現れます。

朝鮮半島から秦氏や漢氏(百済人)の大量移住がありました。須恵器と呼ばれる高温で焼かれた硬質で灰色の土器が広まります。

 これは好太王碑や隋書に書かれた「倭」が、それまでの王朝に取って代わったことを意味します。中国南朝の史書に記録された倭の五王の時代、古事記、日本書紀によれば応神天皇に始まる王朝です。

 百済は475年、都をソウルから熊津(現在の公州市)に移します。この頃から6世紀中頃にかけて、百済に10基の前方後円墳ができます。前方後円墳といえば日本の墳墓形態です。倭と百済の密接な関係を示しています。

6.物部王朝の後

 4世紀後半、即ち百済建国の頃、匈奴・鮮卑が朝鮮半島南東部に進入し、その地域を征服します。奈忽王に始まる新羅建国です。慶州の古墳からは金冠などの金製品や西方系のガラス器など、それまでの墓に埋葬されなかった特異な文物が出土します。

 新羅のあたりはそれまで辰韓(秦韓)と呼ばれ、秦(注)の圧政から逃れた漢族が居着いた地域でした。古事記や日本書紀が記す秦氏のことでしょう。日本書紀によりますと秦氏は、応神天皇の時代に百済経由で日本に移住します。

 辰韓から直接日本を目指す者もいたはずです。彼らの移住地は現在の県名に残っています。佐賀(さが)、そして滋賀(しが)。何れも由来が不明とされてきましたが、辰韓(しんかん)が元と私は考えます。それに蘇我(そが)も。

 蘇我氏も物部氏と同じく「天皇家」であったに違いありません。旧事本紀巻十国造本記によれば蘇我氏の若長足尼(わかながのすくね)が三国の坂中井(福井県坂井市丸岡町)に置かれた役所で国造(くにのみやつこ)をしていました。

 日本書紀によるとこの坂中井に継体は住んでおり、請われて507年、樟葉宮(くずはのみや。大阪府枚方市)で天皇に即位します。継体の出身地は高島郷(滋賀県高島市)です。

 継体天皇は即位から大和に都を定めるまで20年近く要しています。蘇我氏の力が圧倒的なものではなかったことを意味します。物部氏の娘と結婚し、血縁による融和策をとります。

 日本書紀によれば、継体天皇は手白香皇女(上記1.引用文大意の「私」こと仁賢天皇の娘)を娶ります。その間に生まれたのが欽明天皇です。倭王と百済王家との関係が重なって見えます。

注:筆者は従来、前秦(351-394年)としていたが、3世紀末に編纂された三国志魏書辰韓伝に「自言古之亡人避秦役」(秦の苦役を避けて来たと自称している)との記述があることに気付いた。始皇帝の秦(前778-前206年)。

7.百済系と辰韓系の攻防

 継体天皇が大和に入ってから60年。587年に丁未の変(ていびのへん)が起こります。物部守屋は惨殺され、蘇我天皇の天下となったのです。

 ところが645年、いわゆる大化改新で蘇我本家が滅ぼされ、辰韓系は宮中から排除されました。根強く物部氏や百済系の勢力が残っていたことを物語ります。

 天皇家は物部・百済系に戻りました。ところが660年に百済が滅び、663年には百済復興を目指す救援軍を派遣しますが白村江の戦いで大敗します。

 672年、壬申の乱に勝利した天武が天皇になり親新羅政策を採ります。

8.善光寺

 天武の死と共に藤原不比等が政権を握ります。不比等は天智天皇、即ち物部・百済系の王の血を引くと考えられています。不比等は天武の皇后を即位させ、持統天皇とします。持統は天智天皇の娘です。

 これ以降の天皇は不比等が決めて行きます。聖武天皇に至っては、その母も妻も不比等の娘です。

 不比等は藤原氏の権勢を強固なものにする為に歴史を創造します。古事記、日本書紀です。その一環として善光寺が建設されます。それは自身の祖先慰霊でもあったはずです。

 善光寺の開祖は本田善光とされています。善光が百済王子であれば、物部最盛期の王の血を濃厚に受け継ぐ適任者と考えられます。

 では、「本田」は何を意味するのでしょう。音は「ホムタ」に通じます。5世紀に始まる物部王朝は応神天皇、即ちホムタワケに始まります。「ワケ」は5世紀の天皇に共通するもので、王を意味します。

 応神天皇は百済経由で秦氏の移住を受け入れました。「ホムタ」が秦氏の「ハタ」に対応するとすれば、「ホムタワケ」は「秦王」を意味します。中国を初めて統一した秦の始皇帝にあやかった称号かもしれません。

 本田善光の「本田」は苗字ではなく、初代王を意識して付けられた形容詞ということになります。

 5世紀の王朝を始めた物部氏、6世紀に殺された物部守屋を物部氏の象徴として鎮魂するには百済の王子・善光は適任です。果たして本田善光は、百済王子だったのでしょうか。