二冊目【森を見る力】
【森を見る力】
著者:橘川幸夫
出版社:晶文社
デジタルメディア研究所・所長で、雑誌ロッキング・オンを世に送り出した橘川さんの著作。関係ないけど、タイトルを見て、これは面白いだろうなぁと思っていた本…
【ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。】の著者。(こちらも今度読んでみようと思う)
この本【森を見る力】の発刊は2014年だけれども、読んでいると原稿はそれ以前、リーマンショック以後、震災前後に書かれたものが多いのではないかと思った。
内容的には少し前、といっても数年前なのだろうけどユーチューバーの黎明期やInstagram登場前、Twitterが全盛の頃の話題も多い(たった数年でここまで様変わりしていることは異常なのではないか…)のだけれども、その後の現代の姿を的確に見据えていて面白かった。
帯に書かれた本文からの引用はこうだ
「僕たちの生活から、インターネットを無くすことはもう出来ない。だから、せめてインターネットに習熟するエネルギーの一部を、インターネットから最も遠い方法論を追求するために使った方がよいのではないか。(…)枝や根っこから出来るだけ遠くの地点から、現在の自分を見る力のことを【森を見る力】と呼ぼう」
自分にも似たような思考があるので共感した。僕は読書をノートに写すというやり方でインプットしているので読む量は多くない、別に読む量が多ければ多くの学びがあるとも思わないので、ここ5年程は今のスタイルで読書をしてる。
本文でなるほどと思ってノートに書き移した箇所をいくつか引用しておこうと思う。
「ジョブズから学ぶものはプレゼン技術でも、強引な交渉力でもない。ひとりの人間が自分が最初に感じたものを忘れることなく、誤魔化すことなく、追求し続けること、ジョブズは死んだが僕らはiPhoneという名前のジョブズの魂と共に今日も生きる。」
これは柳宗悦が提唱した民藝という思想と共に生きている自分としては、とても納得がいく箇所だった。
なにも柳宗悦の思想形態や事業手腕をトレースしたいわけではない、ここにあるように「ひとりの人間が誤魔化すことなく追求し続けたこと」に感銘を受けている。別に柳宗悦が聖人である必要はない、むしろ普通の人間であったからこそ、自らが愚者だという自覚があったからこそ、偉大な功績を残せたと考えるほうが自然だろう。それは何十年も前に亡くなった柳宗悦の逸話からよりも、ジョブズの逸話から学んだことのように思う。こういった物語は人間味が伝わらなくなると、途端に神格化されるし、そうなってしまうと本来の雑味が失われて、形骸的になってしまって面白味にかけるようになる。
インターネットに習熟するエネルギーの一部を、インターネットから最も遠い方法論を追求するために使った方がよいのではないか。(…)枝や根っこから出来るだけ遠くの地点から、現在の自分を見る力のことを【森を見る力】と呼ぼう」
これは社会学になるのかな?よくわからないけれど自分にも似たような思考があるので共感するところだ。
僕は読書をノートに写すというやり方でインプットしているので読む量は多くない、別に読む量が多ければ多くの学びがあるとも思わないので、ここ5年程は今のスタイルで読書をしてる。
本文でなるほどと思って、ノートに書き移した箇所をいくつか引用します。
「ジョブズから学ぶものはプレゼン技術でも、強引な交渉力でもない。ひとりの人間が自分が最初に感じたものを忘れることなく、誤魔化すことなく、追求し続けること、ジョブズは死んだが僕らはiPhoneという名前のジョブズの魂と共に今日も生きる。」
これは柳宗悦が提唱した民藝と共に生きている自分としては、とても納得がいく箇所だった。
民藝に惹かれているといっても、なにも柳宗悦の思想形態や事業手腕をトレースしたいわけではない、ここにあるように「ひとりの人間が誤魔化すことなく追求し続けたこと」に感銘を受けている。別に柳宗悦が聖人である必要はない、むしろ普通の人間であったからこそ、自らが愚者だという自覚があったからこそ、偉大な功績を残せたと考えるほうが自然だろう。それは何十年も前に亡くなった柳宗悦の逸話からよりも、ジョブズの逸話から学ぶことが多いように思う。こういった物語は人間味が伝わらなくなると、途端に神格化されるし、そうなってしまうと本来の雑味が失われて、形骸的になってしまって面白味にかけるようになる気がする。
本文にあった「僕たちひとりひとりが今、持たなければいけないのは思想である。」という言葉が心に残った。著者のいう思想とは、要約すると【自分の立っている位置を、社会という他者との関係性のから、はかり知る力】のことであると思う。現代は自己というものを、他者からどう見えるかという横軸的な見方に終始しがちだけど、自己というものを本当に知ろうと思うならば、横軸だけではなく縦軸を用いて、もっと立体的に自己を見つめる必要があると思う。
鳥瞰して立体的に捉えられてはじめて、自分がどのような場所に立っているかが分かる。そして、その場所の歴史や過去との流れを知ることで、未来を想像する糸口を知ることができる。ひとりで歩いていると思っていた道が、実はかつて誰かが切り開いた道である。と知った時、はじめて【個人】になれるのだと思う。
それは山を登る道筋がたくさんあるけれど、頂上はひとつであるのと同じで、どの道にも間違いはないし、答えはけしてひとつではない。
ただ、自分の人生を自分ひとりのものだと思うより、おおきな大河の流れの途中の今という瞬間に生かされている。そう思ったほうが自然であると僕は思う。
人が人だけが、関わらず生きられると勘違いをしている。
迷惑をかけない人間になる努力よりも、迷惑をかけても許してもらえる人間である努力をしたいと思う。