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人間の脳の働きのメカニズム・言葉と行動 『大仏破壊・ビンラディン、 9・11へのプレリュード』

2018.04.04 06:42

https://www.porsonale.co.jp/semi_c191.htm より

脳は言葉を「行動」のために生成する。

「行動」が止まると負の行動のイメージが「行動」に作用する。

 前回の本ゼミでは、人間の脳はどのように言葉を生成するのか?のメカニズムをお話しました。

 人間の行動には、言葉が必要です。

 「言葉」は、触覚の認知のレベルでの実体をもつということを明らかにしました。「行動」も、具体的な現実の物と関わりをもつので触覚の認知のレベルで実体をもちます。

 しかし、人間の行動は、「止まる」とか「停滞する」ということがしばしば起こります。するとここでの「言葉」は、実体性をなくします。それは、どのようにして起こるものか?をご一緒に考えてみます。さまざまな病的な行動は、言葉に実体性をなくすことが重大に関与していることをたしかめるためです。

 高木徹の『大仏破壊・ビンラディン、9・11へのプレリュード』(文春文庫、2004年刊、2007年4月文庫化、刊)から、「行動が止まること」と「言葉」との関係とはどういうもので、そこで何が起こるのか?に注目してみましょう。ここには「国際テロ集団、アルカイダ」とその創始者サマ・ビンラディンの行動の軌跡がドキュメントされています。

 日本人に置き換えると、「引きこもり」「フリーター」「アルバイター」「クレーマー」「薬物療法」などの「行動停止」や「半行動停止」と共通することが分かります。

『大仏破壊、ビンラディン、

9・11へのプレリュード』

(文春文庫、高木徹)

1979年。アフガニスタンに「ソ連軍」が侵攻した。

1989年。アフガニスタンから「ソ連軍」が撤退した。

この期間、アフガニスタンの各地の有力者は、それぞれの民兵の組織をひきいて「ソ連軍」と戦った。彼らは、この戦いを共産主義にたいするイスラムの聖戦と位置づけて自分たちを聖戦士(ムジャヒディン)と呼んだ。

「ソ連軍」がいなくなった。すると共通の敵がいなくなったムジャヒディンたちは仲間割れを起こしてお互いに戦いはじめた。有力者ごとに軍閥を形成した。それぞれの支配地域を拡大しようとして戦った。この内戦の悲惨さは「ソ連軍」との戦いの比ではなかった。カブールを訪れると市街の半分以上が廃墟と化している。その破壊のほとんどが「ソ連」撤退後の内戦によるものだ。

国民の大半は移動の自由を奪われた。民兵たちは、多額の通行税を勝手に徴収し、都市だろうが、山村だろうが、ところかまわず略奪、殺人、誘拐、レイプと市民を相手に無法のかぎりを尽した。

こうした状況に、国際社会はほとんど無関心だった。

「タリバン」のスタートはわずか十数人だった。アフガニスタンの南部の古都(カンダハル)の郊外に小さな「マドサラ」(イスラム神学校)があった。この「マドサラ」の管理人をしていた男に「オマル」(パシュトゥント人)がいた。「オマル」は、かつて「ソ連軍」との戦いに参戦し、銃器を扱った経験があった。「オマル」は神学校の生徒らと語らい、自警団をつくって、無法者らを討伐し、市民を助ける活動を始めようと考えた。

1994年秋。10月30日にアフガニスタンに向けて、パキスタンから31台のトラックが出発した。中央アジアの「トルクメニスタン」に送り出された援助部隊だった。このトラック部隊が、重武装の山賊に襲われた。このとき、粗末な民族衣装でヒゲぼうぼうの男たちがあらわれて山賊たちと戦った。

激戦ののちに圧倒してトラックと物資、ドライバーの命を守った。

それが「オマル」らの「タリバン」だった。

「タリバン」とは「神学生」の意味だ。「タリブ」の複数形がタリバンでこののちこのグループの名称になった。

アフガニスタンの国民は「タリバン」を歓迎した。十数人だった「タリバン」は次々と仲間を集めて一ヵ月で「カンダハル」を制圧した。2000人の勢力になった。周囲の無法者を討伐し、すぐに処刑して、カンダハルの市内で遺体を晒(さら)した。

するとさらに人気を呼んで2万人という一大勢力になった。「タリバン」の占領した地域は治安が良くなり、生活がしやすくなった。

「タリバン」は、「勝手に武器をもつ者を武装解除し、治安を取り戻す。アフガニスタンの国土を統一すれば、自分たちは他の誰かに権力を引き渡す」と宣言した。

1996年。タリバンは、各地の主要都市を制圧し首都「カブール」に迫った。

「オマルは、もともと映画の『七人の侍』みたいなもので、小銃一丁を背負って山道をとぼとぼ歩いていき、戦いを始めたというだけなんですよ。それがたまたま冗談みたいな経緯でタリバンのリーダーになってしまっただけなんです」

「オマルは、教養のない人です。ほとんど文盲に近い人です。一般的な意味での教育は受けていない人です」。

1996年4月。カンダハルで最も高名なイスラム法学者らがやってきた。「私たちは、あなたを、アミール・アル・ムーミニーンに推すことを検討したいと思っている」。

「アミール・アル・ムーミニーン」とは「イスラム教徒の指導者」を意味する宗教的に特別な地位であり、事実上、全アフガニスタンのイスラム教を指導する全権をもつ者、ということだ。アフガニスタンの各地からイスラム法学者、3500人が集められて三日間討議した。「オマルがこの地位にふさわしいかどうか」が話し合われた。

オマルが呼ばれた。

「我々は、結論に達した。あなたはアミール・アル・ムーミニーンの座についてください」。オマルは、感動のあまり号泣した。

1996年5月。オマルが政治的にもアフガニスタンの支配者になったころ、「カブール」の東百キロの都市「ジャララバード」に「アフリカ」から「オサマ・ビンラディン」がやってきた。7年ぶりのアフガニスタン再訪だった。

「オサマ・ビンラディン」は「サウジアラビア」に生まれた「アラブ人」である。王室の建設工事を請け負うことで、一代で巨万の富を築いた大富豪を父親にもっている。サウジ第二の都市ジェッダの名門・キングアブドルアジズ大学に通った。

イスラム原理主義に傾倒した。

1979年に、アフガニスタンに「ソ連」が侵攻すると義勇兵として参戦し、「ジハード」(聖戦)を戦っている。

このとき、ビンラディンが拠点としたのは「パキスタン」の「ペシャワル」だった。ビンラディンは、事業家としての能力を発揮した。

親ゆずりの莫大な財産を活かして、「義勇兵」のための「一時宿泊所」および「氏名登録所」をつくった。中東、中央アジア、アフリカ、フィリピン、インドネシアから「聖戦」参加の希望に燃えて、アフガニスタンを目ざす若者がやってきた。そこで、この「一時宿泊所」で軍事訓練もおこなってアフガニスタンへ送りこんだのがビンラディンである。ビンラディンは、この施設に滞在している若者に、氏名と実家の連絡先を書かせた。

この施設は「基地」を意味する「カイダ」と呼ばれた。この「カイダ」に定冠詞「アル」をつけて「アルカイダ」とアラビア語で呼んだ。「アルカイダ」のビン・ラディンのもとには「アフガン兵士」たちのリストが残った。この兵士らはビンラディンの呼びかけで集まる実践経験の豊富な「アルカイダ」とも呼ばれるようになる。

1989年に「ソ連軍」が撤退すると「オサマ・ビンラディン」は、サウジアラビアに帰国した。

だが、次の年の1990年の「湾岸戦争」がビンラディンのその後の動向を決めた。サウジアラビア政府は、イラクと戦うアメリカ軍の国内駐留を認めた。これにビンラディンは反発した。「メッカ、メディナの二大聖地のあるアラビア半島」に、不信心者キリスト教徒が上りこんで汚すというのがガマンできないことだという。このアメリカ兵士の中には女性兵もふくまれる。彼女たちは非番の時はビキニ姿で海水浴をした。このことにもビンラディンは激怒した。

イスラム教では、女性は外に出るときは全身をおおって肌を隠すというのが聖なるイスラム教の教えだ。

ビンラディンは、サウジアラビアにいづらくなった。1991年。アフリカのイスラム教団(スーダン)に移った。やがて、アメリカやサウジ政府の圧力で、「スーダン」もビンラディンを厄介者(やっかいもの)と考えるようになる。

1996年。スーダンの大統領は、ビンラディンの追放を命じた。ビンラディンは、自国のサウジアラビア政府から「国籍剥奪(はくだつ)の処分」を受けてパスポートも失った。ビンラディンは、行き場をなくした。最後に残されたのが「アフガニスタン」だった。

1996年5月に、アフガニスタンにビンラディンを呼んだのは「タリバン」ではない。タリバンと敵対していた軍閥勢力の一人「ユーノス・ハリス」だった。

ハリスは、ソ連戦の時にビンラディンと知り合っていた。ハリスは、「トラボラ」に安全な住居を与えた。「トラボラ」は「ジャララバード」の南方の山岳地帯である。「地下基地」が建設されている。

だが、ハリスの根拠地ジャララバードは「タリバン」の攻撃で陥落した。このとき、ビンラディンと「タリバン」は初めて出会った。

ビンラディンは、もちまえの交渉力を発揮して、そのままアフガニスタンに滞在してもよい、ということになった。

1996年9月。

「タリバン」は首都「カブール」を陥落させた。カブールにいた外務省、財務省、保健省、公共事業省、情報文化省などの幹部は、逃亡した。政権を移譲しようにもそれまでの権力者たちがいなくなった。そこで「オマル」は、自分は「カンダハル」から動かないまま、タリバンからカブールの各省庁に幹部を送りこんだ。タリバンの内閣が組織された。この内閣に「勧善懲悪省」なる耳慣れない新しい省が新設された。「勧善懲悪省」の幹部は、「アルカイダ」よりも過激なイスラム原理主義の思想をもっていた。

「勧善懲悪省」は、数千人の若者を雇用した。「宗教パトロール」をおこなった。長いムチとカラシニコフ銃をもち、「反イ スラム的」と思えるものを見つけては市民に暴力をふるった。「勧善懲悪省」が摘発したものは次のようなものだ。

「喫煙・家の中でも家の外でもタバコは反イスラム的だ」。「男子がヒゲをそることも反イスラム的」。

さらに禁止事項がつづく。「凧(たこ)揚(あ)げ禁止」「鳩(はと)を飼うこと禁止」「手品は禁止」「路上で夫婦が会話することを禁止」「髪の毛をビートルズカットにすることを禁止」「半ズボンを禁止」(これにより友好国パキスタンから来たサッカーの親善時代のチームを全員逮捕した。パキスタンの外交当局が説得して、選手は解放された)。

1997年2月。「バーミアン」の「大仏」に破壊の危機が迫っているという情報が、アフガニスタンの国外に伝わった。

アフガニスタンの隣国パキスタンの「ペシャワル」に「SPACH」(スパック)というNGO事務所に「バーミアン」の住民ハザラ人から通報があった。

「タリバンの部隊がバーミアンを目ざして進撃している。部隊の司令官アブドゥル・ワヒドがバーミアンを占領したらまずあの大仏を破壊すると言っている」。

SPACHは、アフガニスタンの各地にある文化遺産の保護を目的にしている。欧米の考古学者や文化人類学、国連の関係者が中心になって、1994年に設立された。組織の切り盛りをしているのは副代表の「ナンシー・デュプレ」女性の歴史学者だった。

ハザラ人は、同じイスラム教でも「シーア派」の教えを信じている。シーア派とは、預言者ムハンマドの後継者の「娘婿アリー」を聖者として信奉するグループである。

イスラム教の多数派「スンニ派」は「アリー」を認めない。「タリバン」は「スンニ派」にぞくしている。だから「ハザラ人」を敵視している。ハザラ人は、モンゴル軍の末裔(まつえい)といわれ、勇猛果敢(ゆうもうかかん)で知られている。

「タリバン」にも降伏することなく戦っていた。ハザラ人は、バーミアンの「二体の大仏」を「お父さんの像」「お母さんの像」と敬愛をこめて呼んでいた。「タリバン」の大仏破壊は、「イスラムが禁ずる偶像崇拝」の破壊、ハザラ人のシンボルの粉砕という意味があった。

通信社AFPの記者がワヒド司令官のインタヴューに成功した。

「大仏は、必ず吹き飛ばしてやる」。

これが「タリバン」の公式発言ということになった。国際的な大反響を呼んだ。

国連の「アナン事務総長」が「タリバンの破壊計画を深く憂慮する」と非難の声明を発表した。ユネスコ、インド、スリランカといった仏教国の政府、イランや国際的なイスラム教徒の組織のイスラム協議会が「タリバン」とその指導者「オマル」に破壊を思いとどまるよう警告の声明を発表した。この騒ぎは「オマル」の耳にも入った。

「オマル」は、このときまで「バーミアン大仏」のことを知らず初めてその存在を知った。「オマル」は、仏教徒に会ったこともなく、仏教だとか、大仏とかも想像もできなかった。

1997年2月28日。「タリバンの政府大使館」が各国のメディアを集めて発表した。「アフガニスタンには仏教徒はいない。仏像を拝む者はいない。だから偶像崇拝に当らない。我々は、大仏を破壊する意思をもっていない」。

「私は、命令に従うのみである」(ワヒド司令官)。

1997年秋、9月。タリバン部隊から攻撃を受けて「ハザラ人の部隊」が総崩れになり、バーミアンが陥落した。この戦闘には「アルカイダ」が参加していた。

「アルカイダ」は、「ジャララバード」から「カンダハル」に住いを移した「オサマ・ビンラディン」が「軍事キャンプ」をつくって再生させたものだった。

「オサマ・ビンラディン」は、リクルート名簿(ムジャヒディニ=イスラム聖戦士のリクルート名簿)をつかって海外から少しずつ兵士を集めていた。

彼らのための「基地」(アルカイダ)をアフガニスタンの国内に作っていた。約一年半かかって、戦闘員やテロリストを訓練した。

ビンラディンの訓練キャンプを卒業した戦士は一万人から二万人いたと推定されている。中東のイスラム諸国だけでなく、ロシアの「チェチェン共和国」「カシミール」「フィリピン」「インドネシア」から集まっていた。

キャンプでは厳しい訓練がおこなわれた。

一人の能力が観察されて厳密に査定された。この中の一部の選ばれた戦士が、「アルカイダのメンバー」として認められた。ビンラディンは「強力なエリート部隊」を育てていた。高度な都市の拠点攻撃、都市を攻撃するさまざまな戦術、などに優れていた。

それが「タリバン部隊」に参加してバーミアンの「ハザラ人」を圧倒した。

バーミアンを占領した「タリバン部隊」は、「大仏像」に砲撃を加えた。

ロケット砲とも戦車砲ともいわれている。

「千数百年の時を生きながらえてきた大仏像」が初めて被害を受けた。巨大な仏像の全体が崩れることはなかったが、仏像の下腹部に穴があいた。着衣の部分も剥(は)がれ落ちた。「アルカイダ」の攻撃部隊がおこなったことを誰もが疑わなかった。

「タリバン」の内部にも、「大仏破壊」に反対する人はたくさんいた。首席補佐官の「ムタワルキ」と情報文化大臣の「ムタキ」も反対する人だった。「ムタキ」は、「オマル」に働きかけた。

「かつてアフガニスタンにイスラム教をもたらしたイスラム王も、大仏を破壊しなかった」。「アミール・アル・ムーミニーン」となっていた「オマル」にとって偉大な先人は絶対的な存在だった。

「指令書25号。アフガニスタンの遺産は何千年も前から存在している。わが国も、外国の人々もこうした遺跡を先人から引きついだ遺産と考えてきた。だから、アフガニスタンのイスラム行政官と国民は、これらを大事にしなければならない。イスラムの使用人、オマル」。

大仏保護は、「タリバン」の公式見解となった。

1998年2月。

イギリスのロンドンに編集部があるアラビア語の新聞『アルクッズ・アルビ』に一通のFAXが届いた。

「民間人であれ、軍人であれ、アメリカ人を殺害せよ。全世界のどこにいてもすべてのイスラム教徒の義務である。オサマ・ビンラディン」。

1998年5月。

オサマ・ビンラディンは、アフガニスタン東部の山間、「ホースト」にある「軍事キャンプ」で、大規模な記者会見を開いた。パキスタンの集合場所に、海外から十数人のテレビ、新聞、雑誌のジャーナリストが集められて「アルカイダ」が用意した車で全員「目隠し」をされて「軍事キャンプ」に連れてこられた。三日後、ビンラディンは、武装したアルカイダのSP数人に囲まれてあらわれた。

「アメリカは聖なる大地をふみにじっている」

「シオニスト(ユダヤ教至上主義者)、十字者(イスラム教徒を攻撃するキリスト教徒の連合軍)と死ぬまで戦う」

「軍服を着ている者と民間人とを区別しない。アメリカ人は、全員、このファトウ(アメリカ人の皆殺しの宗教指令)の対象である」

オサマ・ビンラディンの単独イ ンタヴューに成功したジョン・ミラー記者(アメリカ三大ネットワークの一つ、ABCの記者)は、ビンラディンの「アメリカ人は一人残らず殺す。民間人も区別しない」と発言した模様を「ワールドニュース・トゥナイト」で放送した。アメリカ全土に、「オサマ・ビンラディン」の名前がとどろいた。ABCは、ビンラディンのおかげで、多大な著作権料を世界中の放送局から、長期にわたって受け取れる素材を手に入れた。

ビンラディンの「記者会見」に驚いたのはアメリカの視聴者だけではなかった。「タリバン」の最高指導者、腰を抜かしたオマルは、ビンラディンを「カンダハル」に呼びつけた。ビンラディンは4WD車に乗ってやってきた。4WD車は日本製の車だった。

「私の許可なく記者会見し、さらに他の国に向かって聖戦の宣言をするとは何事だ」。

「アフガニスタンの統治者は一人だけいればよい。それは私か、あなたかどちらだというのか。タリバンを率いているのは私だ。あなたはゲストではないのか。ゲストならゲストらしくするべきである」。

ビンラディンは、ひたすら謝った。

「今後は、タリバンの方針を守る。タリバンの許可なく、声明を出すことはやめる」。

だが、その年の暮れに、ビンラディンは、ユスフザイ記者をアフガニスタンに招いてインタヴューさせている。今度はタリバン公認で、「アルカイダ」ではなくビンラディンの側近のもとでおこなわれた。

「こんどは、オマル師や他のタリバンの許可をとった」と話した。

オマルは、今度は何らの非難もしなかった。ビンラディンは、オマルの心をつかむために惜しげもなく持っている資産を投入した。

タリバンに4WD車をまとめて、40台、50台と買って与えた。弾薬や装備の補給、糧食の補給を自給自足でできるアルカイダ部隊を提供した。

タリバンと戦った「北部同盟」の部隊指揮官「アブドル・ワキール」の話。

「アラブ兵(アルカイダ)と戦った時の恐怖は今も冷めやらない。彼らは、無謀(むぼう)な戦い方をする。100人のうち80人を殺しても残りの20人が、殉教者になって天国に行くんだ!!と叫びながら戦って死んでいく」。彼らは、「我々はイスラム教徒である。国、民族は関係ない。アラーのために戦う聖戦を止めることはできない」と言っていた。死んだアルカイダの死体は16歳、17歳の若者がほとんどだった。

このアルカイダの戦いに「オマル」は感動した。

「我々タリバンがカブールを手にしていられるのもビンラディンのおかげだ。彼らは?そうだ、これはアフガニスタン同士の内輪もめだ、だから私たちは手を引こう?と言うこともできたはずだ。しかし、そうは言わなかった。ビンラディンが我々を裏切らないのだから、我々も彼らを裏切ることはできない」(オマル)。

だが、アルカイダの幹部の一人はこう発言している。

「我々は、アフガニスタンに軍事キャンプが欲しいから、タリバンに協力している」。

アルカイダ兵士の「イスラム教」が聖戦で死んで、行けると信じている天国とはどういうものか。

「ごちそうが山のようにある」「肌もあらわな美女が何人も周りにはべっている。その女性らは、望めば何でもしてくれる」。そういう天国が待っていると信じている。だからこの地上では極めて禁欲的で貧しい生活にも耐えられる。

だが、自分は天国に行けるとして、とくに憎悪の対象でもない人間を殺しても良心の呵責(かしゃく)はないのか。

もし、相手がイスラム教徒ならば、相手も天国に行けるのだから、それもいいだろうということになる。だが、異教徒の場合は地獄へ行けばよい。すると、異教徒は、生きようと死のうとどちらでもいい、関心がないというのが本音に近い。

「異教徒は、イスラムの教えに目覚めることのできないきわめて下等な人間だ」ということになる。

ある「イスラム宗教団体」の指導者の話。

「私たちは差別ということを恐れません。人種とか、民族で人を差別することは決してありません。しかし、宗教で人を差別することは当然だと思っています」

1996年。タリバンは、「カブール」を占領した。

アメリカ、ヨーロッパを中心とする国際社会の「タリバン」を見る目は、厳しくなった。だが、ビンラディンは、この「国際社会」なるものについてこう話す。

「国際社会といってもアメリカが中心になっている。安保理事常任理事国五カ国のうち、四カ国までが欧米、キリスト教の国だ。中国は、キリスト教以外の価値観を代表していない。ましてや、イスラム教の国など一つもない。国際社会といってもしょせんは、西欧社会がつくったまやかしだ」。

これがイスラム社会に住む人々にとって強い説得力をもっている。

だが、「国際社会」は、アフガニスタンのタリバンの「勧善懲悪省」が実施した「女性弾圧政策」に厳しい目を向けた。「女性弾圧政策」とはこういうものだった。

「女性が外出することを大幅に制限した」。「女性が外に出るときは、親か夫と一緒でなければならない」「ブルカと呼ばれる頭からつま先までを覆い、顔も見えない民族衣装を着ての外出を強制した」、「女子の就学、就業も制限した」。内戦で「夫」に死なれた戦争未亡人が3万人はいた。

働けないので収入の道が途絶えた。

彼女たちは「物乞い」となって路上に立った。カブールは「ブルカ姿」で「お金をください」と乞う女性であふれかえった。現在のカブールでも街を車で走ると、そうした女性がどこからともなくぞくぞくやってきて、目の部分を網で隠した衣装の奥から、しぼり出すような声で哀れみを誘おうとする。

こうしたタリバンの女性政策に対して、3人の国際的に有名な女性が先頭に立って非難の論陣を張った。

一人は「エマ・ボニー」(イタリア人。欧州委員会の委員。フェミニズムの運動家、アフガニスタンへ援助をおこなうECHO(EU人道支援事務所)の所長)、もう一人は「マデリン・オルブライト」(クリントン大統領政権下の初めての女性国務長官)、もう一人は、クリントン大統領夫人の「ヒラリー・クリントン」だった。

国際世論のタリバン非難が一気に強まり、各国政府も、タリバンにたいして柔軟な姿勢をとることが難しくなった。

「オマル」は、支配地域で「徴兵制」を施行した。兵力が不足したためだ。だが、各地で「徴兵制反対」の反乱が起きて「タリバン兵」の逃亡が起きつづけた。「オマル」はこれに頭を悩ませていた。「オマル」は「アルカイダの軍事力」に頼らざるをえなくなった。ビンラディンが「軍事キャンプ」をつくったり、「アルカイダリクルートのアラブ部隊」を海外から呼び寄せていることに何も言えなくなった。オマルは、ビンラディンを呼んで、軍事情勢やアラブ兵の扱いについてこまかいところまで協議していた。

「私たちの兵士に行動制限をかけるといったことは止めていただきたい」(ビンラディン)。オマルはこれを認めた。

ビンラディンは、オマルに贈り物を与えた。巨大な邸宅、「オマルモスク」の巨大建築などだ。

1998年8月7日。

アフリカのケニアの首都ナイロビ、タンザニアの首都ダルエスサラームの二つの「アメリカ大使館」が攻撃されるというテロが起きた。冷蔵庫に偽装したトラックが、数百キロの爆薬を満載して突入し、爆発した。合計240人が死亡した。クリントン大統領は、報復攻撃をおこなった。スーダンの化学兵器の製造工場、アフガニスタン「ホースト」の「軍事キャンプ」だった。このミサイル攻撃の30分前に、ペシャワルにいるジャーナリストにビンラディンからの「衛星電話」を受け取っている。

「アメリカは嘘をついている。テロなど、自作自演だ。我々は関与していない。今度は、アメリカ人がその報いを受け取る番だ」。

オマルは緊急演説をした。

「アメリカこそが、最大のテロリストだ」。

アフガニスタンの各地で「反米デモ」が起こり暴徒と化した。国連の施設や事務所に乱入した。国際政治に通じていない「タリバン」には、アメリカも国連も同じものだった。国連は援助機関の全てを引き上げた。

「アフリカの事件は自分がやったのではない」(ビンラディン)。この話を「オマルは信じた」(ユスフザイ記者の証言)。

1998年10月。タリバンと国連の交渉が「カンダハル」でおこなわれた。

「ビンラディンの引き渡しに同意すればタリバンは国際社会に認められて全ての問題が解決に向かう」(国連政治局、川端清隆政務官)。

「ビンラディンは我々の聖戦の同胞である。海外に追放するなど、もってのほかである」(オマルの回答)。

1999年2月。

アメリカのインダーファース国務次官補は、パキスタンの首都「イスラマバード」を訪問した。

タリバン政府の「ジャソール外務次官」と会談した。

「タリバンは全力を尽してオサマ・ビンラディンを国外追放し、彼を法の裁きの場に引き出さなければならない。今後、ビンラディン、アルカイダが我々アメリカに何か行動を起こしたと信じられる事態が発生したら、タリバンがビンラディンに安全な避難場所を提供しているとみなし、タリバンに責任があるとみなす。今後、ビンラディンの攻撃を受ければ、我々はタリバンを攻撃する」。

タリバン代表団に、ケニア、タンザニアでのテロがビンラディンの仕業であることの証拠を記した分厚い書類を渡した。

「もしさらに証拠が必要なら、いくらでも提供する用意がある。ビンラディンを起訴した司法省の担当者や、裁判を担当する判事と会談してもらってもよい」(インダーファースの話)。

ジャソール外務次官の表情はひきつった。

ビンラディンから「オマル」へ書簡が送られた。

「私の存在が内外で問題になっている。それなら私が国外へ出ることを考えてもよい」。

オマルは、あわてて返事を出した。

「あなたは、客人なのですから、どうぞアフガニスタンに滞在してください」。

ここで二人の立場は逆転した。オマルが頼んで、「いてほしい」ということになった。ビンラディンは単なる客人ではなくなった。

2000年10月12日。

アラビア半島の国イエメンの首都アデン沖にアメリカ海軍のイージス艦「コール」が停泊した。どこからともなく小さな「ボロ船」が近づいてきた。「コール」

に接舷(せつげん)した。大爆発を起こした。

それは自爆攻撃船だった。

「コール」は奇跡的に大火炎と沈没はまぬがれた。17名の死亡、39名の負傷者が出た。ボロ船にいた1人の身元が判明した。アフガニスタンの軍事キャンプで訓練を受けていた。逃亡した3人は、アフガニスタンに逃げた。

どう見てもビンラディンの仕業だった。

12月の「国連安保理」で「対タリバン制裁」を大幅に強化する決議が可決された。

「世界中のテロセンターが、中東から南アジアに移りつつある」(国連事務総長の報告書)。

ビンラディンの「軍事キャンプ」は55ヵ所になっていた。「カブール」の町は、アルカイダ(アラブ兵たち)でいっぱいになった。一万人はいたと推測されている。

「アルカイダ」のナンバー3で「同時多発テロ」の計画を立案した「ハリド・シェイク・モハメド」は「カタールの衛星テレビ局アルジャジーラ」の「ユスリ・ユーダ」(プロデューサー)のインタヴューに答えている。

「わが師・ビンラディンはアルジャジーラがお気に入りだ。ビデオにも録画して分析している。私たちの声を正しく報道してくれるだろうと思っている」。オマルの発言に変化が起こっていた。

「パレスチナ、チェチェン、カシミールなど世界各地でイスラム教徒が虐げられている。これを救わなくてはならない」。

ビンラディンは、オマルの思想を支配してしまったと誰もが考えた。

2001年2月26日。

オマルは「大仏の破壊指令」を発信した。ラジオで放送された。

3月10日。大仏の破壊は、数回に分けられ、数日にわたっておこなわれたと証言されている。「爆発で近くの住宅は跡形もなく吹き飛んだ。遠く離れたバーミアン市街の商店の扉が外れるほどの衝撃だった」(ホセイン村長の話)。この大仏破壊は「アルカイダ」が行った。

2001年秋。9月。「9・11」事件が起きた。二つの破壊はなぜ起きたのか。

「ツインの仏像と、ツインのタワー、その両方を破壊した」(パキスタンの内務大臣、モイヌディン・ハイダルの話)。

「大仏もWTCも非常な労力をかけて作られたモニュメントだ。それを壊すことで非イスラム文明の思い上りをぶち壊すという意味がこめられている」(ピエール・ラフランス)。

「大仏を破壊したシーンがビデオ撮影された。新しく世界中から戦士を集めるためのPRのメッセージになった。WTC破壊も同じ効果をもって役立った」(ワヒド・ムジタ)。大仏破壊のあとアフガニスタンに来た「アラブ人」は1ヵ月前の1ヵ月50人と比べて50倍になった。

6年が経過した。ビンラディンの思想は世界中に飛び散っている。ビンラディンの「メディアプロダクション・アッサハブ」はアルカイダの戦いを撮影し編集して、インターネット、ビデオ、CDで流している。その映像を世界中で見つめる者が大勢いる。このビデオの中には日本の「浅草寺」も入っている。

このビデオは「アルカイダのリクルートビデオ」と呼ばれている。

脳の働き方からの観察「行動停止」「半行動停止」は人間のあらゆる病理の根拠である

 少し長くなりましたが、高木徹の『大仏破壊・ビンラディン、9・11へのプレリュード』(文春文庫)より、要点を整理して再構成し、ご紹介しました。ここで注目していただきたいのは、「脳の働き方」の「ソフトウェアのメカニズム」についてです。

 高木徹が取材した作品をテレビ放送し、ついで本にまとめた内容は、ビンラディンの「アルカイダリクルート」と呼ばれる「PR戦術」の方法です。

 何のためにバーミアンのツインの大仏が破壊され、そして「9・11」が引き起こされたのか?といえば、「行動停止」の状態に陥っている若者を世界中からリクルートするためだ、という主旨になっています。

 すでにみなさまには、「行動には言葉が必要である」という脳の働き方のソフトウェアのメカニズムの本質についてお話しています。人間の脳は、「行動」をつくり出すために存在します。しかし、脳は、いつでも、誰の脳も「行動」をつくり出すわけではありません。ここでいう「行動」とは、「自分には楽しいことがもたらされる」「自分には、得することがもたらされる」という「未来形の行動」のことです。この「未来形の行動」のためには、「現実について正しく分かる言葉」が絶対の前提になります。高木徹の『大仏破壊』のドキュメントの中には、「現実についての言葉」を長期記憶として学習して、記憶していない、という人々の「行動」が克明に記述されていることがよくお分りでしょう。「現実についての言葉がない」とは、「非社会意識」(イスラム原理主義)「社会参加しない」(女性の外出を制限する等)、「社会参加の否定」(援助を必要とせず自立した生産と収入によって自分の生活を支えることの拒否、等)のことです。

 これらのことを肯定して、保護し、依存させる、というのがオサマ・ビンラディンの「アルカイダ、リクルートビデオ」による「PR」でした。「PR」とは「パブリック・リレーション」(Public Relations)のことです。

 このように再構成してとらえてみると、ビンラディンが「大仏破壊」と「9・11のツインタワーの破壊」に成功した根拠が浮び上がります。それは、日本でいうと「引きこもり」「フリーター」「アルバイター」「長引く薬物療法」「高齢者に増えている要介護状態」といったことと脳の働き方が共通しています。「行動」が「止まっている」か、「半行動停止状態」にあるかのいずれかが共通しています。「行動が止まる」か「半行動停止の状態」になると、「現実を壊す」ための「負の行動のイメージとその言葉」が「右脳」に表象されるようになります。その典型が「大仏破壊」や「9・11のツインタワーの破壊」です。

 「行動」が「止まる」と脳の中の言葉も変化します。「左脳系の海馬」で記憶されている言葉ではなくて、「右脳系の海馬」で記憶されている「生」(なま)の感情や欲求を実現する言葉だけが「右脳のブローカー言語野の3分の1のゾーン」に思い浮びます。アルカイダの「兵士」らが共通して表現している「死ねば天国に行ける。そこにはごちそうが山のようにあって、美しい美女がたくさんいる。望めば何でもしてくれる」といった「トカゲの脳」の幸福のボタン押しの分泌するドーパミンが表象するイメージにむすびつく「言葉」です。

 高木徹の『大仏破壊』は、単に6年前の出来事のことではなく、ビンラディンがばらまいている「PR」が今も生きていて「テロの脅威」が継承されているといったことが主要なテーマではありません。

 「行動停止」と「半行動停止」の状態がさまざまな病理とその症状をつくり出す、という「脳の働き方」のソフトウェアのメカニズムが語る真実の巨大な実例になるのです。こんなふうにとらえて、「脳の働き方のメカニズム」の学習の必要の傍証になさってください。

 さて、今回は、「乳児の脳の働き方」についての新しいメカニズムの解明は、ひとまずお休みです。

 次のことをご一緒に確認いたしましょう。

?脳の働きが生成する「言葉」は、身体と同じくらいの「実体性」をもっている。

?「言葉」は、自律神経の「副交感神経」によって「認識」されて記憶される。

?記憶される「認識」は、「触覚の認識」が土台になっている。「視覚の認識」も、「聴覚の認識」も「触覚の認識」によって共通に認知されるので「実体性をもつ」と規定される。

?言葉は、この認識を土台にしてさらに水準を高くしていく。水準が高くなっていくごとに、言葉の抽象性が高くなっていく。

 このように解析して明らかになる「言葉」は、つねに、「今の現在」と「明日の将来の現在」にむすびつく「言葉」であることによって、身体とその行動は健康でありつづけます。病気やその症状とは無縁でありつづけるのです。