脳の働き方の言葉の生成のメカニズム 「気持ち」と共同指示の 「認知」「認識」の構造は
https://www.porsonale.co.jp/semi_c194.htm より
脳の働き方から見た「認知」は、「気持ちの世界」をつくります
これまでの「人間の脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」についての説明は、目、手、指、口、皮ふ、鼻などの「五官覚」を中心にした知覚が「言葉」になっていく、という「しくみ」についてお話してきました。
人間の「脳の働き」の本質は「記憶すること」と「記憶したことを思い浮べること」そして「記憶したことを表現すること」の三つでした。「表現」には、「言葉を言いあらわすこと」と「手や足を動かすこと」などの「行動」の二つがあります。人間の脳の働きは、猫や犬などの動物と違って「言葉による表現」の機能や能力に特質があります。すると、この「言葉」というものが、一体、どのようにつくり出されるものなのか?が明らかにされる必要があります。「言葉の生成」ということです。「言葉の生成のメカニズム」が明らかにされて、そこで初めて「人間の脳の働き方のしくみが分かった」ということがいえることになります。
「言葉の生成」の素材ともいえるのが「五官覚」です。
くりかえしていいますと「五官覚」とは、「目」「耳」「皮ふ」「鼻」「舌」の知覚器官の機能のことです。知覚器官の機能とは、「視覚」「聴覚」「触覚」「嗅覚」味覚」のことです。この「五官覚」は、「ものごと」を「分かる」という「了解」(りょうかい)の仕方に特性があります。
「視覚」でいうと、ものごとの形象や面、点、線、光、色などを「了解」(りょうかい)します。「了解」とは、ものごとが、現に、そこに在(あ)ることを分かる、という「分かり方」のことです。このような分かり方のことを「認知」といいます。
「聴覚」も「嗅覚」も「皮ふの感覚の触覚」も全て「ものごとを了解する」ので「認知」の知覚器官です。
この「認知」という五官覚の全てに共通する「了解」(りょうかい)のしくみから分析してみると、「五官覚」は、三つに整理されます。
「視覚」と「聴覚」と「触覚」の三つです。この三つの「認知」の知覚機能はなぜ、三つに集約されるのか?というと、「脳」は、この三つしか記憶することができないからです。
もちろん、「ハードウェアとしての脳」は、「嗅覚」も「味覚」も記憶します。それぞれの記憶の中枢神経が「ニオイ」「香り」「味」などを記憶します。しかし、だからといって、「嗅覚」や「味覚」そして「皮ふ感覚」の「イメージ」が右脳に表象されるわけではありません。
このことは、どなたにもよくお分りいただけるはずです。では、「嗅覚」や「味覚」は、どのようにして「表象」(ひょうしょう)されるのか?というと「視覚のイメージ」を借りるのです。「ブローカー言語野の3分の1のゾーン」の「クローズ・アップ」の機能を借りて表象します。
このことは、「言葉の生成のしくみ」のメカニズムとしてすでに皆さまにご説明いたしました。
脳は、「健康な言葉」と「病気の言葉」の二つをつくります
しかし、もっと重要なことがあるのです。
それは、何か?といいますと、「脳は、言葉を生成する」ということが分かると、「脳」は、「いつ、どこで、どのようにして、健康な言葉と、病気の言葉とをつくるのか?」という問題です。
みなさまも、このことについて疑問にお感じになられているかもしれません。
「ある人は、どういう状況でも健康で、健全な言葉を話したり、行動する」しかし、「別のある人は、どこまでいっても、どのように社会的な体験や学習をおこなっても、見えない何ものかの手に引かれるように病気の言葉と行動をくりかえしてあらわして、社会的に健全な生活はとうていかなわないように見える」、という違いです。
あるいは、「この人は、出会いの不幸があって、本人の責任ではないところでひどい心の病いの状態に陥っているが、果して、いつの日か、心を通わせる友人なり恋人なり、もしくは結婚のパートナーなりと出会うことがあるのだろうか?」という疑問です。
あるいはこうもいえます。
今、現在、心の病いに陥っている恋人なり、結婚のパートナーがいる。もしくは、家族の中に、社会参加を放棄しているようにしか見えない人がいる。しかし、その相手の人は、その明らかに病的な状態を野放しに放置していて、病的な言動があらわれるままに「成り行きまかせ」にしているように見える。では、なぜ、望ましい心身の健康を求めて回復なり、「社会の再生」や「企業の再生」のような「改革」にとりくまないのだろうか?という問題です。
「認知」と「認識」のシステムが「病気の言葉」をつくり、「健康な言葉」をつくり出す
このような問題は、やはり「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」の問題です。
目、手、足、皮ふ、耳、鼻、味覚などの「五官覚」は、それじたいは、人間にかぎらず、犬、猫、鳥などの動物にもそなわっている「知覚の機能」です。それは、なぜ分かるのか?というと、どんなに空腹でも、同じ種の生き物どうしは、仲間を襲って「共食いをしない」という事実によっても説明できます。もし、同じ仲間を襲って「殺す」とか「共食い」をするということがあるとすると、それは、「自分の種」を残すための選別と排除の行為としておこなわれます。「クマ」が、子連れの「母グマ」を襲って「子グマ」を殺し、そして食べる、などの行為が典型です。
人間の「身体」にそなわっている「五官覚」の機能は、「認知」をおこなって「記憶」し、これを「左脳」の「認識」の機能が「認識」して「記憶する」というメカニズムが「言葉の生成のメカニズム」でした。
この「右脳系」によって「認知」されて、「左脳系」によって「認識」されるという記憶のメカニズムは、「システム」としてみると何の問題もなく、スムーズに進行していくように見えます。
「五官覚」は、すでにお話しているとおり「動物」にもあります。
「食べる」「飲む」「触れる」「ニオイを嗅ぐ」「見る」「聞く」などは、人間と動物一般の機能と全く同じです。
犬や猫の動物と人間とを分けるものは「社会意識」です。「社会意識」とは、人間関係についての意識のことです。この人間関係の「意識」が「場面」や「状況」ごとに形式化されて「言葉」や「行動」としてあらわされるというのが「社会性の言葉」です。
人間は、この「社会意識」を言葉として憶えて、行動にもあらわせるようになれば「心の病い」といった病気に陥らずにすみます。みなさまもよくお分りのとおり、人間は、「乳児」「幼児」「小学生」までは健康だったのに、思春期や成人してから、パッと「心の病い」に陥って、病的な行動をあらわすのではありません。「障害児」「障害児童」といわれるような子どももいて、「自閉症だ」とか「てんかんの病い」だとかいうような「病理」を背負っている子どもが象徴的です。
このような子どもについての話をよく聞いてみると、「障害児」といわれている子どもは、0歳児の「1ヵ月め」や「3ヵ月め」、「8ヵ月め」といった段階から何らかの異常が見られたというケースが多いようです。つまりこの段階からすでに、「五官覚」の機能は異常であったのです。「五官覚」が「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」にしたがって「認知」の働きをはじめるにつれて、「病気の言葉」としての「素材」になりはじめます。
このあたりの観察について、無藤隆は『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』の中で次のようにリポートしています。
『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』
(講談社現代新書より、リライト・再構成)
乳児期には、「感情」とその「あらわれ」というものがある。
人間には、いくつかの「基本的な感情」というものがある。これらの感情は、人間の「顔の表情」に対応している。
この「顔の表情」は、「0歳代の生後数ヵ月」から「0歳8ヵ月」くらいまでの間にすべて出てくる。
「人間の顔の表情」とは、他者との「感情的な交流」をなり立たせる。
この分野を研究しているのは、アメリカ・カリフォルニア大学の心理学者エックスマンである。エックスマンは感情の「基本感情」とは、「恐れ」「怒り」「嫌悪」「悲しみ」「喜び」の五つのことである、とする。
感情の「五つの基本感情」は、それぞれ、「特有の生理学的変化」をともなっている。
「生理学的な変化」とは、「恐れ」は「逃げる」、「怒り」は「立ち向かう」、などというものだ。
人間の「感情」と「顔の表情」は対応している。
この対応についての実験がある。「悲しみ」なら「悲しみ」の「顔の表情」のつくり方を教えて、そのとおりに「表情」をつくってもらうという実験である。すると、その「表情」のとおりの「感情」が生じる、という結果が確かめられている。
このことは、「悲しいから泣く」のか、それとも「泣くから悲しい」のか?と問う時、この両方が成り立つことが分かる。
「乳児」の場合の「基本感情」は、かなり初期の頃から分化してあらわれることが観察されている。
「基本感情」とは「怒り」「喜び」「悲しみ」「恐れ」「嫌悪」の五つのことである。この五つの「基本感情」は、分化していく。
「否定的な感情」は細かく分化していく。(「怒り」の場合ならば「恨む」「復讐する」「憤慨(ふんがい)」「狂乱」などのように分化する)。
しかし、「肯定的な感情」は、分化していく方向をたどらず、「一つにまとまる」という進み方をする。
「喜び」「安心」「誇り」「快楽」「歓喜」などにまとまる。
共通する「表情」は「ほほえみ」(微笑)である。
「乳児期」の「感情の喚起(かんき)」の仕方について研究したのは、アメリカのデラウェア大学のイザードである。
イザードは、次のように「乳児期の感情発達」についてのべる。
生後3週間の乳児が、人間の顔を見てほほえむ、ということがある。
生後8週の新生児が、苦痛を与えられると「怒り」を示すことがある。
生後16週の新生児が、自分の欲しているものを取ろうとして抑制されると「怒り」の表情を示す、ということがある。
乳児は、予防注射などの「苦痛」にたいして「怒り」の感情を表情にあらわす。また、「苦い味」を感じると「嫌悪」の表情をあらわす。
乳児にとって、これらの「基本感情」は、かなりの早期から出現する。
しかも、その感情の表す性質にしたがって、その感情にふさわしい状況であらわれている。これは「基本感情」を喚起する「脳内のシステム」が働いていることを示すと思われる。
脳幹をとりまく「皮質領域」は「辺縁系」と呼ばれる。
ここには、「海馬系」を中心とした系と、「扁桃体」を中心とした系がある。「扁桃体」は「快、不快」の記憶にかかわる。「海馬系」は「不安」とその「エピソード」の記憶にかかわる。「視床下部」は、これらの記憶の統合にかかわるといわれている。
ここから推論されることは、「感情」を媒介する「脳神経系」は、いわゆる「知的なもの」と区別される。「感情」が「表情」とむすびついて、姿勢や動き、行動の変化とむすびついていることは、「運動系」ともむすびついていることを示す
「感情」の「表出行動」は、次の「7つの要素」でなり立っている。
中央の「中枢神経」から「外的な方向」への活動
典型的な「顔の表情」
その「表情」のこまかい要素
姿勢
声による表情
顔や目の動き
筋肉的な動きの準備
これらは、「感情」が表出される過程であらわされる。これらの「7つの要素」が表現されると「感情」は、「ひとつの経験」となる。この「経験」が「意識」になる。
「感情」が「経験」になるということは、「行動」と「認識」にむすびつく、ということだ。
その内容は次の「6つ」に分けることができる。
「動機づけ」になる
「行為の準備」になる。
「行為への傾向」をあらわす。
「知覚的な選択性」を示す。
「認知と行為のための手がかり」になる。
「感情状態」をあらわす。
乳児も、大人と同じように「味覚」がさまざまな「感情」の表現をあらわす。
「甘い味」は「ある種の興味の感情」をつくり出す。「苦い味」は「嫌悪の表情」をつくり出す。「苦い味」を口の中に入れると「嫌悪の表情」を示して、「苦い味のものを口から舌で追い出そうとする」。
これは、「感情の状態」が動機づけとなって、「一つの行為をつくり出している」、ということだ。
「新生児」には、「快い匂い」と「嫌悪をもよおす匂い」が「感情表現」に影響する。子どもは、新生児の頃から「味覚」が単純で、「甘い味」を好み、「苦い味」を嫌う。
「生後7ヵ月までの乳児」は、注射をされると「苦痛の表情」を示し、次に「怒りの表情」を示し、その後で、時によっては「悲しみの表情」をあらわす。
「生後7ヵ月」をすぎると「身体的な苦しみの表情」(痛みの表情)は減少していく。そして「生後19ヵ月」までに「15%の乳児」が、「怒りの表情」をあらわすようになる。
この「表情の変化」に「適応」という意味があると思われる。乳児は、「怒りの表情」から「泣きの表情」へと移る。
しかし「生後19ヵ月」になると「苦痛」から「怒り」への表情と変化する。「助けを求める」という意味から「自らが防衛的な行動をあらわす」というように適応しているのではなかろうか。
また、「乳児」は、「怒りの表情」からも「泣き」へと移行する。
「怒り」が「悲しみ」に転じていくのだ。これは、一つの「感情」が次の「感情」を生み出していることを示すものだ。
「生後3ヵ月の乳児」が「母親と分離した場面」でもあらわれる。この「怒り」と「悲しみ」の感情のあらわれは、「生後13ヵ月」から「生後18ヵ月」の間、ずっと同じ傾向としてあらわされる。
「乳児」のあらわす「感情の喚起」は、次の4つの「認識」についての効果をもたらしている。
「評価」
「比較」「カテゴリー化」「推論や判断」
「原因帰属」と「信念」
「記憶」と「予期」
これらの「認識」は、「感情」が起こった後で生じることもあるし、「感情」と並行して生じることもある。また、これらの「認識」は、「乳児期」には顕著にはあらわれない。
「満1歳」をすぎてから「満1歳半」以降にいちじるしくあらわれてくる。
「1.評価」は、積木(つみき)で何かの形を完成した時に、母親に「誇りの表情」を見せる、などだ。「2歳児」になると、「自分が見られている」ことについて「恥かしがる」という感情をあらわす。この時期の子どもは「乳児」の段階を超えて「幼児期」に入っている。
「初期の乳児期」の「乳児」の感情的な反応からは、後の「母と子の間の愛着の質」が予測される。「感情の状態」とは、「表情」とか「心拍の変動性」のことだ。
「愛着」と「感情の反応」との関係についての実験がある。「母親と子どもを短い期間、分離させる。そしてまた再会させる」という実験である。結果はこうだ。
「不安定な乳児」と「母親」は、「再会」のときに「アンビバレントな感情」(矛盾した感情のこと)をあらわすのだ。「再会」時に「怒り」と「悲しみ」をあらわす。「喜び」が少ない。
「生後13ヵ月の乳児」の段階で「不安定」であった場合、その後の「乳児期」も引きつづいて「否定的な感情」を示すことが多い。しかも、これはさまざまな場面で見出される。
「不安定な愛着の乳児」は、「安定した愛着の乳児」と比べてみると「特別に感情が不安定」である。
「アンビバレントな感情」をもつ「乳児」は、「否定的な感情」にたいしての「閾値」(いきち)が低い。(否定的な感情が、すぐに起きやすい。
五官覚の知覚は「視床」で「病気」か「健康」かにふるい分けられて言葉になるメカニズム
■ここでのべられていることを立体的にとらえるために、まず「脳のハードウェア」からの説明はどうなっているのか?の要点をご説明します。
『脳のしくみとはたらき』
(クリスティーヌ・テンプル、講談社BLUE BACKS)
では、次のようにのべられています。
1930年代に、パペッツは、情動の制御に、大脳辺縁系の構造が関与していると論じた。
「パペッツの回路」と呼ばれる。
「パペッツの回路」の中心部の構造は、視床下部、視床核、帯状回、海馬、そしてこれらの相互結合のことだ。パペッツは「中枢性の情動機能を仕上げる」「情動の表出にも関与する協調機構」を構成する、とのべる。
大脳辺縁系の下に「脳幹」がある。「脳幹」には「網様体」がある。「網様体」は、五官覚情報を受けて、「フィルター」のように作用して、新しい情報や変化した情報を通過させる。
「網様体」には「青斑核」がある。ノルアドレナリンを分泌させる。ノルアドレナリンは、左脳の皮質、および視床下部に作用する。「下向システム」では「小脳」「脊髄」に作用する。
青斑核の近くに「黒質」がある。
ドーパミンを分泌する。ドーパミンは快感を促進する。
「情動の知覚」および「情動」の表出は、「右脳」がより多くかかわっている。また、五官覚は、脳の交叉支配により「左脳」と「右脳」とに分かれて結合している。
「左耳」は「右脳」に結合している、というようにである。
人間が「情動を起こす」という局面では、「神経インパルス」が「視床」を通り抜ける。この中の一部が「右脳」に行き「恐怖」「怒り」「幸福」の感覚を起こす。そして他の「インパルス」は「視床下部」と「パペッツの回路の中心構造」に向かって「生理的変化」を起こす。
すなわち、「情動」と「生理反応」は、同時に起こる。
「情動」は、自律神経によって起こる。また、自律神経は、「心拍の変化」と「血圧の変化」を起こす。
この心拍と血圧の変化をさして「ストレス」と呼ばれることもある。
情動は、五官覚の刺激から始まる。この刺激は「脳」によって受容される。すると、人間は、自分の感覚の変化を感じる。「生理的変化」が感じられる。この「生理的感覚」は「情動」を生成する。
「泣くから悲しくなる」「叩くから怒る」「震えるから怯える」というものだ。ここから「幸せである」と感じたいならば「微笑むこと、笑うことは、幸福感をもたらす」という心理学の説も生まれた。
この説の難点は、だからといって、「感じている情動」とは「どういうものか?」は分からないというものだ。
分かっているのは、「生理的変化」だけだからだ。
「感情」の五つの基本型は自律神経が生成する
■ここまでの引用をとおしたご説明をとおして、「乳児」はどのように「気持ち」というもののメカニズムを生成するのかが、ほぼお分りいただけたことと思います。
解析的に整理すると、こんなふうになります。
人間の「気持ち」は、「基本的な感情」といわれるもので成り立っています。「怒り」「嫌悪」「喜び」「悲しみ」「恐れ」の五つです。
この「基本感情」は、五官覚の「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」からつくられます。この「五官覚」は、どれも自律神経が働かせることは、すでによくご存知のとおりです。自律神経は、「交感神経」と「副交感神経」の二つのことです。自律神経の働きは、恒常性(こうじょうせい)といわれています。「ホメオスタシス」のことです。なぜ、自律神経が働くのかというと、「恒常性」といわれていることが示すとおり、「生命活動」そのものとして働いているからです。
「水を飲む」「食事を摂る」「夜になったら眠る」というものが「生命活動」のことです。「食事を摂る」のはエネルギーの補給のためです。エネルギーが無くなれば身体の生命活動はそこで止まるので「空腹感」「飢餓」といった知覚をつくり出すのが自律神経です。
なぜ自律神経が「生きること」の生命機能をになっているのかといいますと、エネルギーを摂り込んだり、燃やしたりする「代謝のシステム」を働かせているからです。
「お腹がすいたよ」と言います。
この言葉は「胃」の中の食物が消化されてなくなったときの言葉です。「胃」は自律神経の「副交感神経」が動かしています。「副交感神経」は「A6神経」のことです。「お腹がすいた」という「胃の状態」は「A6神経」に伝わり、さらに「視床下部」の「腹内側核」に伝わって「空腹感」を「右脳のブローカー言語野の3分の1のゾーン」にイメージさせます。「食べ物」のイメージを表象させます。このように、「首から下」の臓器や器官の情報を「A6神経」に伝える自律神経のシステムを自律神経の「上向システム」といいます。「A10神経」に伝えてドーパミンを分泌する「交感神経」とセットになっていることはよくお分りのとおりです。
目、耳、手(指)、舌(口)、鼻の五官覚の「知覚」も、自律神経が働かせている、ということをご説明しています。
「感情」(気持ち)は、「五官覚」からつくり出されるということは、ご紹介したケースで見たとおりです。乳児に「注射をしたら怒った」「手を伸ばして物を取ろうとすることを抑制したら怒った」という事実がそれを証明しています。無藤隆が「感情の基本型」とのべている「怒り」「恐れ」「喜び」「嫌悪」「悲しみ」は、五官覚の「視覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」が生成の「素材」である、ということをご説明しています。
この「五官覚」の中で、「味覚」と「嗅覚」と「触覚」は、対象が「身体」に直接的に接触して知覚されるので同じグループにまとめられます。嗅覚は、対象を身体に摂り込んでいいか、悪いか、を了解するというのが知覚の内容です。「味覚」は、摂り込む対象の「質的な価値」を評価して了解します。「触覚」は、対象の「実在的な実体」を了解するのです。これらのことは対象の「形象性」は分からないので、そこで「視覚」の機能を借りて「クローズ・アップのイメージ」によって代替的に表象される、というしくみは、すでによくご存知のとおりです。
すると、「感情」とは、何のことかというと「身体に摂り込めるか?どうか」の「了解」のことであると定義されることが分かります。「対象」となるものが何であれ、「身体に摂り込むこと」が望ましいと価値判断されるときが「喜び」です。
望ましくない対象が「接近」してほしくないと了解されれば「恐れ」です。
また、望ましいと求めているのに摂り込めないときが「悲しみ」です。同じように、望ましくない対象がすでに接近しつつあるときが「嫌悪」という了解になるでしょう。
すると、ここでどなたもお気づきになるのは、「基本感情」の「喜び」には、どういう意味があるのか?ということです。この「喜び」について、無藤隆は、次のようにリポートしています。
『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』
(講談社現代新書より、リライト・再構成)
生後9ヵ月以降、「指さし」という行為が増えてくる。また、自分が「指さし」をおこなう前に、母親が「指をさす」ということを理解する。
母親が「指を指す」と、子どもは、その方向を見る。そして、興味深いものがあれば、それをじっと見る。
乳児が「指をさす」という行為は、「視線」と重なっている。
これは「共同注意」と呼ばれる。「共同化された世界」が生まれるのだ。
乳児が「指さし」を理解すると母親は「これはなあに?」と話しかける。多くの子どもは、ここで声を出す。また、子どもが「指さし」をおこなったり、母親が「指さし」をおこなってその物の名称を話すと、ここから子どもは「その物の名称」を早く覚えていく。
母親が「指さし」をおこなうと子どもには「共同注意」が実現して、さらに乳児も自分の関心のある物に「指さし」をおこなえるようになる。
このときの「指さし」を「共同指示」と呼ぶ。
「共同指示」とは、指で示した喜びの対象のこと
■この「指さし」(指で、目に見える物を指し示すこと)が、「基本感情の喜び」に相当します。「喜び」とは、「望ましいものを手に入れた」「望ましいものを手に入れたい」「関心がある」「知りたい」「分かりたい」など、「欲求」や「欲望」の対象との「関係づけ」のことです。「関係づけの知覚」が「喜び」という感情です。
人は、現実の中にある生きるために有益なものを見つけて、近づいていき、そして手にして、摂取する、という関わり方をおこないます。
すると「喜び」とは、「対象」が、身体の外にあるときの関わりと、身体に「摂取したとき」の関わりの二通りの内容をもつことになるのです。ここは重要なところです。「対象」が、「身体の外」にあるときは、「期待」とか「予期」といった「喜び」になるでしょう。
「あっ!!うさぎパンではないかな?食べたいな」、といった「喜び方」です。もちろん、近づいていき、手に取り、食べれば「触覚の認知」に変わり、視覚のクローズ・アップは「クローズアップの記憶」として「認識」されます。
対象がまだ「身体の外」にある時は、「Y経路」(交感神経)の「パターン認知」であることがお分りでしょう。
「乳児による指さし」と「母親による指さし」は、脳の働き方としてどのように成立するのでしょうか。
「指でさし示す」という段階では、まだ「Y経路によるクローズ・アップ」の段階です。この「クローズ・アップ」の情報は、「大脳辺縁系」の「視床」(ししょう)に伝わります。この「視床」(ししょう)から「左脳系の海馬」か、「右脳系の大脳辺縁系」へと分かれて、進行していきます。そのどちらに進行していくのか?を決定するのが「母親による指さしという共同指示」です。
ここで、乳児は、「母親の表情」を見るのです。「これは、うさぎパンよ」と母親が話すので、その言葉を耳で聞いて、同時に「母親の表情」を見るでしょう。「母親の表情」は、どうなっているでしょうか。「喜びの表情」をあらわしているでしょう。この「母親の喜びの表情」が「指さし」というクローズアップされている「共同指示」の対象を「認識」します。「X経路」(副交感神経。左脳系の海馬で記憶)によって、「記号化」されるのです。この「記号化」とは、まだ「言葉」(概念)を学習していないので、「前言語」(メタ言語)と呼ぶべきものです。「母親の喜びの表情」が、その「記号性の認識の意味」として裏付けられるのです。このような代理としての「言葉の意味」のことを「メタファー」(見立て。隠喩)といいます。「キツネうどん」「メロンパン」「うさぎパン」などが「メタファー」です。
「母親の喜びの表情」は、言葉の「意味」のメタファーです
これらの「脳の働き方のメカニズム」は、もし、「母親」が、乳児の「指さし」にたいして「無表情」だったり、「怒った表情」を見せると、「記号性の認識」が記憶されません。すると「メタファー」に象徴される「言葉の意味」の「記憶も無い」ということが生じます。すると、「冷たい態度の母親」のもとで「乳児期」をすごした人は、「クローズ・アップ」として「認知」した対象との関わりを成立させることができません。「自分の身体」に直(じか)に触れたものだけが「喜びの対象」になるでしょう。これならば「母親の共同指示と喜びの表情」が無くても「喜び」を「認識できるから」です。ここには、「共同指示」は無いので、「視床」(ししょう)から分かれて「右脳系の大脳辺縁系」に「クローズ・アップ」のまま伝わります。「好き」という「喜び」であれば「扁桃核」で記憶されて、「その対象」に執着するでしょう。「おしゃぶりハンカチ」「手離さないバスタオル」などです。「汚いから洗う。よこしなさい」と言って「母親」がその「物」を取り上げると、「憎しみの対象」として「認知」されるでしょう。この乳児のケースでは「中隔核」で「怒り」や「恐れ」「嫌悪」といった「負の感情」の「パターン認知」が記憶されるのです。これが「病気としての言葉をつくる脳の働き方」のメカニズムの起源です。