脳の働き方・言葉の生成のメカニズム 「言葉の意味」の生成の構造・2
https://www.porsonale.co.jp/semi_c195.htm より
脳の働き方のメカニズムは、「言葉」と「行動」を生成することが本質です
前回の本ゼミでは、「脳の働き方」のメカニズムは、「言葉」の「意味」をどのように生成するのか?についてお話いたしました。「言葉」は、「記号性の言葉」と「概念」と「意味」の三つで成り立っていることをお分りいただけていることと思います。
「記号性の言葉」とは「メタ言語」といわれるものです。「言葉」として成立しているにもかかわらず、まだ「言葉そのものではない」、しかし「それでも言葉の価値を表現している」ということが「メタ言語」ということの意味です。
「認知」と「認識」の脳の働きのメカニズムを理解しましょう
人間の脳は、この「メタ言語」としてのしくみをもつ「言葉」を「記号性の言葉」としてつくり出すことから始まります。それは、「ものごと」を目で見て、「クローズ・アップ」でイメージすることから始まっています。では、この「クローズ・アップ」は、どのようにしてつくられるのでしょうか。
「そこに何かがあるな」「そこにあるのはリンゴではないかな?」というように、「そこにあること」を「分かる」という了解から始まることは、すでによくご存知のとおりです。このような「分かり方」のことを「認知」といいます。「認知」は、目や手、鼻、舌、耳などの五官覚が、現実の対象の「存在」との関わりを成り立たせたときの「分かり方」です。「げんにそこにものがあることを分かること」というのが「了解」という「分かり方」のことでした。「認知」は、「手で触った」「舌に触れた」「身体のどこかに接触した」などのように、自分以外の現実の対象を「知覚した」という意味とほとんど同じです。
五官覚は「触覚の認知」が共通のベースになっています
「ほとんど同じ」というのは、「手で触ってもいないのに、手で触ったかのように知覚することがある」という意味を含んでいるから、こんなふうな曖昧な言い方になります。「目で見る」「耳で聞く」「匂いをかぐ」などは、間接的な接触をおこなう「知覚」です。「間接的な知覚」にたいして「直接的な知覚」というものがあることは、すでによくお分りのとおりです。「舌で味わう」「手で触る」「身体の腕、肩、背、脚、腹などの皮ふに接触する」などが直接的な知覚です。
なぜ、このような違いがあるのでしょうか。それは、人間にとっても、また、動物一般にとっても、身体が生きるために必要な「食物」というものは、つねに、遠くに離れて存在している、という事実に規定された機能である、ということに根拠があります。人間も含めて動物一般にとって、「食物」となるものは、その「食物」なるものが自動的にやってきて、自動的に口の中に入ってきて、飢えや喉の渇きを満たす、というようには成り立っていません。
自分で近づいていき、自分でとらえて、自分で口の中に入れなければならない、というようにして「生きること」を可能にしています。
人間の五官覚のメカニズムとは、「遠くにある対象」を見つけ、近づいていき、対象に接触し、そして「身体に摂り込む」という「行動の仕方」に見合っているのです。「遠くにある対象」と「近くで見たり触っている対象」と、そして「身体に摂り込んだ対象」とは、それぞれ「了解」は同一でなければなりません。
あそこの遠くに見えるものは、どうやら、うさぎパンのようだぞ」と認知して、近づいていきます。しかし、近くで見ると「うさぎパン」とは似ても似つかない「亀パンだった」というのでは、生きることにも支障をきたす悲惨な事態であることはよくお分りでしょう。遠くにあっても、近くで見ても、手に取って見ても、やっぱり同じ「うさぎパンである」という「分かり方」をつくり出すのが脳の働きのメカニズムです。遠くに見たときは「うさぎパン」のように思えて、近づいてみると「うさぎ」のフリをした「亀」だった、ということのないように、触覚による「認知」が、視覚による「認知」のしくみの中に構造化されているとご理解なさってください。
その構造が「クローズ・アップ」です。
「触覚の認知」は、確定と保存をおこないます
脳のハードウェアのメカニズムに置き換えて説明すると、「右脳ウェルニッケ言語野」(触覚の認知の記憶の中枢域)と、「右脳ブローカー言語野の3分の1のゾーンの記憶の中枢域」とはつながりをもっていて、「触覚の認知」を「クローズ・アップ」という視覚のイメージで表象(ひょうしょう)させています。
この「クローズ・アップ」という視覚のイメージは「大きく見える」という認知が、まず記憶されます。この記憶は「右脳」のブローカー言語野で「認知」して記憶されて、次に、ウェルニッケ言語野で「記憶」されます。
ウェルニッケ言語野で「記憶」されることを「認識」といいます。「認識」とは、何のことでしたでしょうか。「右目」「右耳」のX経路による「分かり方」のことです。カメラのレンズで焦点を合わせて、面や点、線のこまかい形象性や色を「分かる」ということが「認識」という「分かり方」でした。「認識」とは、対象の確定のことです。パソコンやケータイでも「確定」をおこないます。「自己の本体の中に取り込む」(保存もしくは、保持ともいいます)ことが「確定」です。
「脳の働き方」としての「認知」と「認識」のしくみをご説明します
「認知」と「認識」は、どのようにして成り立つものなのでしょうか。
いちばん分かりやすい事例が「パラパラマンガ」です。
みなさまも、小学生か中学生の頃に「パラパラマンガ」をお作りになったことがあるのではありませんか。
「英単語などの単語」を小さな長四角の厚紙のカードに書いて、いつでもどこでもこの「カード」を取り出して暗記する、ということをおやりになったことがあるのではありませんか。この「カード」の一枚一枚ずつに、「人間の姿」を描いていきます。その「姿」は、同じ動作をしているものを、少しずつ「動き」の形を変えて描きつづけます。だいたい20枚くらいの分量を描きます。
この約20枚くらいに描いた人物の「カード」の端を左手でしっかり固定して、右手でパラパラとスピードでめくると、「描いている人物」が「動いているように見える」というのが「パラパラマンガ」です。
この「パラパラマンガ」に「認知」と「認識」の脳の働き方のメカニズムがよく見て取れます。「認知」と「認識」が交互にくりかえされて、「記憶の土台」を形成し、この「土台」をベースにしてさらに次の記憶を重ねる、という連続した表象(ひょうしょう)がおこなわれています。
このような「パラパラマンガ」に見る「認知」と「認識」の表象(ひょうしょう)と、この表象(ひょうしょう)の連続性を利用した「表現」が「紙芝居」であったり「スライド」であったり、そして「映画」であることは、みなさまもよくご存知のとおりです。
「映画」は、どなたもよくお分りのとおり「1秒間に24コマ」の「人物像」を連続してスピードで動かすと、「ごく自然な動き」に見えます。
「認知」は「一つの行動パターン」を了解すること、です
すると、「認知」とは「一つの動きのパターン」を「了解すること」であることが分かります。「認知」とはもともと「パターン認知」のことでした。「パターン認知」とは「アナログ」のことでもあります。
「アナログ」とは、もともとはギリシャ語です。「どこまでもよく似ている」(相似的である)という意味です。人間の「認知」は「どこまでもよく似ている」という了解の仕方のことです。では、何を「パターン認知」するのか?といいますと「一つめの動き」(動きのパターン)、「二つめの動き」(動きのパターン)というように「動き」を了解して記憶するのです。この「記憶」はもちろん「認知」のことです。
「映画」の撮影の「フィルム」は、こんなふうにして「認知」を記憶(保存のことです)しつづけています。このことは、みなさまも「パラパラマンガ」をお作りになって実験して確かめることができます。
すると、何が分かるのか?といいますと、「動き」とは、「自分自身が、対象となるものごとに近づいていくときの行動」と全く同じであることにお気づきになるはずです。
「認識」とは、「二つめの行動パターン」と比べた「一つめの行動パターン」の分かり方のことです
「自分」が「対象」に一歩だけ近づく。
この「一歩分の接近」(距離)の了解が「認知」です。では、ここで「認識」とは、どのように成り立つのでしょうか?「一つめの動き」が認知されて、次の「二つめの一歩の動き」が認知された時に、「初めの一歩め」が区別されて、違いが了解された時が「認識」です。
例をあげてご一緒に考えてみます。今日は、遠くに「うさぎパン」が見えます。昨日は、なにやら香りのいい匂いに誘われて歩いて近づいてみると、なんと、それは砂糖とクリームがバターで練られて、バニラエッセンスも塗り込められて作られた「亀パン」でした。「一口でいいから食べてみてね」とその「亀パン」はウルウル目でじっと見つめて甘い声でささやきます。誘いに乗って一口でも食べたら、確かに「望みのままに願いごと」は叶ったでしょう。しかし、叶えられた願いごとは、次々に新しい快美感の刺激を求めつづけさせる「渇き」と「飢え」を感じさせて決して「安心」とか「満足」というものをもたらさない悲惨な「快美感」でした。
新しい刺激による快美感が、即、スピードで手に入らない日は、また、「亀」の言うことを聞かねばなりません。「亀」の要求を受け容れるということは、「うさぎの耳」の聴覚の機能から遠ざかるということです。「見ザル」「言わザル」「聞かザル」の「よこしま猿」と同じように「見えないカメ」「言わないカメ」「聞こえないカメ」の甲羅(こうら)を着せられるのです。
「認識」は、「距離の縮まり」を左脳系で記憶します
今日は、「うさぎパン」が見えます。
「一歩近づく」と一歩の距離の分だけ「大きく見える」でしょう。
この一歩の距離の段階が「認知」です。「一歩分の距離が近づいた」という「パターン認知」です。さらに「一歩だけ近づく」という行動がつづきます。「二歩目の距離の近づき」です。この「二歩目の分の距離の縮まり」も「パターン認知」です。この「二歩目の距離の縮まり」の「パターン認知」と比べて、「一歩目の距離の縮まり」のパターン認知が「認識」として記憶されます。この「認識」は、「左脳系のウェルニッケ言語野」でおこなわれます。まだ「言葉」による了解ではないので、単に「経験」として学習されているだけです。「左脳のウェルニッケ言語野」は「知覚の経験性」を認識して「左脳系の海馬」に記憶します。「ウェルニッケ言語野」は、文字どおり、「言葉」をつくる「記号性」のベースとなる五官覚の「知覚」の機能的な差異や特質を記憶するのです。
では、「五官覚」のそれぞれの機能的な違いの「体験性」はどこで記憶されるのかというと、「ウェルニッケ言語野」の周辺の側頭葉から後頭葉にかけて、定まって偏在している「中枢神経」で、特化的に記憶されていて、ネットワーク状につながっているのです。このハードウェアとしてのメカニズムは、「左脳」も「右脳」も同じです。ただ、「左脳系」は「認識」をつかさどり、「右脳系」は「認知」をつかさどるという違いがあるだけです。
「認知」と「認識」は、それぞれどのように記憶するのか?という「対象の特定の仕方」をあらわす概念です。この抽象的なしくみが「言葉」(言語)の成立の構造になっています。
「右脳」は「知覚」の体験性を記憶し、「左脳」は「知覚」の記号性を記憶します
「認知」と「認識」の相互的な関係について、「うさぎパン」にたいして「一歩近づく」そして「二歩目が近づく」という「パラパラマンガ」と同じしくみを例にあげてご説明いたしました。
みなさまは、すでに「ゲシュタルトの二・五次元の認知」という概念をご存知です。「ゲシュタルトの二・五次元の認知」とは、左右に大きく離れたA点とB点の位置AとBの二つの「懐中電灯」を交互に点滅させると、あたかも「光が動いているように見える」という実験が典型です。これは、A点の懐中電灯が消えて、B点の懐中電灯が光った時、A点の「光」の「認知」が「認識」に変わったことを意味しています。そして、B点の光が消えてA点が光った時、B点の「光」の「認知」が「認識」に変わったことを意味しています。このA点とB点「認知」と「認識」がものすごい速さでくりかえされると、次は、「光が移動している」という「認知」と「認識」に高次化します。高次化とは、「記号性をおびて記憶される」ということです。
空の雲がどんよりと重くなって暗い色になれば、たんに「雲の色が変化した」という了解にとどまらずに「雨が降ってくる気配」という象徴的な意味が「認知」と「認識」に加わります。高次化とは、「意味」が生成されるということです。このときの「意味」は、「黒くなった雲」から、「やがて雨が降ってくる」という体験的な事実と事実関係がむすびついていることはよくお分りのとおりです。
「言葉」の「意味」は、独立した「認知」と「認識」でつくられます
「言葉」には「意味」があります。その「意味」とは、「黒くなった雨雲」という対象とは独立している「認知」と「認識」のことです。独立はしているけれども、全く無関係ということではありません。「ゲシュタルトの二・五次元の認知」では、これを「角度の変化」「方向の変化」として関連づけています。
「角度の変化」「方向の変化」とは、人間が移動すれば、対象となるものはさまざまに「姿」「形」を変えて「認知」されるし、そして「認識」されることでよくご理解いただけるでしょう。ゲシュタルトは、「イスに座っている人物」についての「認知」と「認識」で説明しています。みなさまも、「イスに座っている人物」を想像なさってみてください。ご自分が歩いて近づいていく、そして、その人物の背後に回る、その人物の右か左の横に立って「見る」ということを想像なさってください。すると、「角度」「距離」「方向」が変わるごとに「人物」の姿、様子が変わってイメージされるでしょう。
この「角度」「方向」「距離」のいずれかから「人物」を見たとき、「イスに座っている」という様子についての「イメージ」が「誰にとっても共通のイメージ」として「認知」されて、そして「認識」されます。「休んでいる」「落ちついている」「楽な姿勢」といったことがその「共通のイメージ」になるでしょう。
この「共通のイメージ」が「イスに座る」という「言葉」の「意味」になるのです。このように「意味をともなった言葉」のことを「概念」といいます。
この「意味」を認知も認識もしていない場合の「言葉」を「記号性の言葉」といいます。
『メタファー思考』
(瀬戸賢一、講談社現代新書)
「明らか」……「明らかに」「明らかにする」のように用いる。「明るい」と対応。明暗のメタファーだ。一般的には「光のメタファー」である。さらにいうと「視覚のメタファー」である。「明るい性格」「暗い過去」「明暗を分ける」など、このメタファーの分布にわたる。
人間による「意味造形」の中心的仕組の一つとなっている。
「立場」……単に文字どおり立っている場所を示すのではない。「あるものごとにたいする考え方のより所」の意味である。「見地」「見方」「観点」に通じる。つまり、漠然と立っているのではなく、特定の場所に立って、ある定まった視覚から対象を眺めているのである。「立場」は、「立つ」と「場」との合成であるという点で空間の(位置づけの)メタファーである。そこに人間の視線を感じさせる。
「共通」……「共に通じる」。「通」に動きを見る。運動のメタファーの一種である。より広くは、空間のメタファーである。「諸学に通じる」の「通」も同じだ。
「基礎」……「基礎におく」の全体がメタファーである。建築のメタファーだ。これも空間のメタファーの一種。基礎を固めてはじめて、その上にものを積むことが可能になる。勉強や研究の意味領域は、しばしばこのメタファーを好む。「基礎が大切」「勉強は積み重ね」というように。
メタファーを英語と比べてみる
clear(明らか)…よく見通しがきいてハッキリと見える様を意味する。「明るい」が原義。明るくなければものはよく見えない。メタファーとしての用法は、日英でパラレルだ。
standpoint(立場)…「立場」を空間的にとらえればpositionと対応している。視覚的に近くとらえればpointofview(viewpoint)と対応する。メタファーとしての用法は日英で一致する。
common(共通)…com(共に)とmon(<、munus分かつ)とから成り立つ。「共に分かつ」とは「共通すること」だ。そのためには、成員間で物的、精神的なやりとりが成立していなければならない。つまり、物事に共に通じ合っていることが前提になる。Communication(コミュニケーション)にもラテン語のmunusが含まれる。
basis(基礎)…日英間でメタファー対応は密である。派生時のbasic(基礎的な)に関しても、また類語のfoundation(基礎)に関しても対応は揺るがない。
考察
日英間でのきわめて親密なメタファーの対応は、これらは全て偶然の一致として捨て去らないかぎり、ある種のメタファーが、日英語間で、高い頻度(ひんど)で一般的に対応するのではないかという予想を生む。さらに、人間の言語のすべてにわたって、ほぼ同様のことが確認されるのではないかというより深い推測を生む。
メタファーの例
1.目玉焼き
2.メロンパン
3.巣立つ
4.旅立つ
5.ポム・ドゥ・テール(フランス語で「じゃがいも」のこと。訳は、「地中のリンゴ」。「ポム」が「リンゴ」)。
「メタファー」は、言葉の「意味」をつくり出します
■「メタファー」とは、「見立て」という意味です。「隠喩」ともいいます。
瀬戸賢一は、次のように解説します。
「見立て」をさらに言い換えれ ば、「を見る」(see)に対する 「と、見る」(see as)という 「ものの見方」のことだといっ てよい。AをBと見るとき、B にメタファーが生まれる。
このことは、Aという対象にい つも都合よくAという文字どお りの名称があるわけではない、 ということをものがたっている。
現実には、対象Aにそれを文字 どおりに言い表す名称Aが欠け ていることがしばしばある。
このとき、対象Aを言い表すメ タファーBは、必須の表現手段 となる。
メタファーは、私たちの「言語」 と「行動」をとおした「認識」 の重要な思考手段である。
言葉とは、「記号性をもつ言葉」と、その「意味」の二つで成り立っています
■瀬戸賢一は、「メタファー」を「名称である」とのべています。「目玉焼き」は「卵料理」の一つです。したがって、「名称」ととらえても不都合はありません。しかし、「ポム・ドゥ・テール」(地中のリンゴ)という表現を見るとき、それは「リンゴは果実(くだもの)の女王である」という意味として独立した表現で言い表していることが分かります。それは、「立場」や「基礎」などのメタファーになると「意味」の表現であることはよりいっそうはっきりしています。
「立場」
1.その人の置かれてい る地位、境遇、条件のこと。
2.ものの見方、考え方のより所、観点。
「基礎」
1.建築物、大きな装置の下にすえて、全重量を支えるもの。土台。
2.それをより所としてものごとを成り立たせるためのおおもと
「立場」という言葉は、「ものの見方」という意味のことだ、ということが分かります。また「基礎」とは「ものごとを成り立たせるための大元(おおもと)」という意味のことだということが分かります。
ここでご理解していただきたいことは、「言葉」とは、「立場」や「基礎」のように具体的な「記号性」をもつ言葉と、その「意味」との二つで成り立っているということです。「記号性から派生して聴覚化された言葉」を「概念」といいます。
この「概念」は、「メタファー」についての説明によく示されているように独立した表現の「意味」をセットにして成り立っているのです。この「意味」もまた「言葉」であれこれと説明されています。
「意味」は、「メタファー」として説明されていることからもよくお分りのとおり「視覚的なイメージ」として成り立っています。「脳の働き方」のメカニズムから見ると、「概念」とその「意味」は、次のような構造として成り立っています。
概念……もともとは「記号性の 言葉」から成り立っている。視覚の「認知」と「認識」の記憶のソースモニタリングがつくり出す。「パラパラマンガ」のような動きをともなう記憶をくりかえして、「触覚」による「認知」と「認識」に変わったものが「概念」である。
「意味」(言葉の「意味」も)……概念の指示する「対象」についての「認知」と「認識」の「記号性の言葉」から派生してつくられる。「概念」と「意味」は別々に独立している表現だが、両者をつなぐ共通性は「触覚」による「認知」と「認識」である。
「記号性の言葉」とは、「象形文字」に典型的なように、具体的な事物の特徴性をシンボルふうに強調して特定化した「目印」のような表現のことだ。
これが「概念」の土台になる。「記号性の言葉」と「概念」とを分けるのは「意味」(メタファー)にリンケージしているか、どうか?による。
■このような「言葉」の成り立ちのしくみについて、
無藤隆は『赤ん坊から見た世界』(講談社現代新書)
で次のように記述しています。
乳児期の発達における一つの重要な飛躍は、子どもが、目の前の対象、それが物であれ、人間であれ、そのものだけに関わるということから、その関係をベースにして、次の第三の対象に関わることができるようになる、ということだ。
つまり、三つのものの間の関係がそこから生まれる。自分(乳児)と、相手との関係の中で、第三の物についての「共同の了解」が成立する。
「共同の了解」とは、相手が何を見ているか?を理解して、それと同じ物を見るということだ。
「共同性の成立」の始まりのことだ。
このことを最も顕著に示すのが「指さし」という現象である。
一歳前後になると、対象を「人さし指」で指(さ)す。相手の注意を求める。
相手が、それに注意を向けて、何らかの反応をすると、乳児は満足する。「共同注意」ということが成り立つ。
この「指さし」について、奈良女子大学の麻生武は、こうのべる。
「指さしは、自己と他者が共に知覚して、認識を分かち合うことだ。共同化された対象世界の構成の成立を示すものだ」。
(ポルソナーレ注・「共同化された対象世界」とは、何人かの人間がともに生活している日常の空間のこと。これを自分自身の現実として分かることが「対象世界」ということです。「構成の成立」とは、乳児の脳の記憶の中に、記憶のソースモニタリングのときの「表象される素材」として記憶される、ということです)。
「指さし」という現象は、0歳1ヵ月から0歳2ヵ月の乳児もおこなう。
だが、0歳8ヵ月から0歳9ヵ月になると、乳児の「指さし」は、コミュニケーションとしての動きをもつようになる。
「指さし」とは、「人さし指」を一本だけ伸ばすことだけではなく、「手の全体を伸ばすこと」も含む。満1歳になると、「人さし指」を伸ばして「指さし」をおこなう。
乳児が「指さし」をおこなうと、まわりの大人は、その対象の「名前」を言ったり「問いかけ」をすることが多い。
ウェルナーとカプランというアメリカでこの分野を開拓した研究者は、「指さし」は、「人さし指」を伸ばしてさまざまな物を触ったりいじったりすることから始まっていると指摘している。
「0歳9ヵ月以降の乳児が人差し指で触れるというのは、その対象を操作したり、動かしたり、手に入れる、というよりは、目で見る、認識するための働きかけである」。
乳児の「指さし」は、手で物に触ったという「認知」と「認識」を土台にしています
■乳児の「指さし」は、まず「共同注意」を成り立たせる、と解析されています。この「共同注意」が、次に「共同指示」へと進行していくことは、すでに、前回の本ゼミでご説明しているとおりです。
「指さし」が「共同注意」の段階では、まわりの大人は、「指さし」の視線の延長にある対象について「名称」を言ったり、「問いかけ」をおこなう、とのべています。これは、0歳9ヵ月以前の乳児の「指さし」は、「手」「指」の触覚の認知を「右脳系のウェルニッケ言語野とブローカー言語野の3分の1のゾーン」に「記憶していて、保持」している段階にあることが分かります。この段階での「認知」と「認識」が「聴覚」を介在して「プレ記号」と「プレ概念」の道のりをたどるというように高次化しているのです。
乳児の「気持ちの世界」は「母親の表情」が共同化します
「共同注意」が成り立つということは、同時に「共同指示」も成り立つということでもあります。
この「共同指示」と「共同注意」とは何が違うのか?というと、すでにみなさまにはよくお分りのとおり、「感情」や「欲求」が動機をつくっているか、どうか?が内容を違えています。したがって、「共同指示」をつくるのは「母親」にしかできないというのは、基本感情といわれる「喜び」と「嫌悪」「怒り」「悲しみ」「恐れ」の5つの感情は、「母親」にしか「認知」と「認識」の記憶をおこなえないという理由によります。
この、5つの基本感情は、「言葉」や「行動」の表現の動機になります。
「動機」は、人間の一人、一人の全てに共通してあるものです。この「共通性」というものが「現実の何ごとか」とむすびつくと「共通の感情の対象になる」ということはよくお分りでしょう。「行動」の本質は、「自分にとって楽しいこと」か「得すること」がもたらされるということにありました。すると基本感情のうち「喜び」だけが「未来性」をもつのです。
「未来性」とは、奈良女子大学の麻生武のいう「共同化された対象世界」ということと同義です。この「共同化された対象世界」とは、「記号性の言葉」と「概念」によって名称化されています。そして「概念」の「意味」も「共同化された対象世界」です。ただの「共同世界の対象」ではなくて「共同世界の対象の内容」になるのです。
「母親の喜びの表情」は、このような中身を構成する「コトバの意味」をつくるメタファーです。
母親の「共同指示」を記憶していない人は、「負の言葉の意味」を記憶する脳の働き方をつくります
このような「言葉」のメカニズムを正しく理解することの意義についてお話します。
「言葉」(概念)の「意味」は、それ自体、独自に、独立して成り立っているものです。それは「メタファー」についての説明でもよくお分りのとおりです。もし、「意味」(メタファー)を学習して記憶していないとすれば、ここでは、「負の意味」というものがむすびついています。これが「恣意的な解釈」(思いこみ、思いつき、自分だけの適当な理解のことです)をくっつけることは避けられません。
「概念」には、必ず「意味」が対応するものであるからです。
「そうじ」という概念に、「お金持ちになる」「心がキレイになる」「人から好かれる」などの恣意的な解釈による「負の意味」が与えられることと同じです。
すると、この「お金持ちになる」「心がキレイになる」なども独立した「意味のコトバ」ですから、「触覚」の認知をベースにして「クローズアップされた視覚のイメージ」として成り立っています。「そうじ」ということと「お金持ちになる」こととのそれぞれの「触覚の認知」は無関係に離れて、別々の現実に立脚しています。この別々のものを「同じである」と強引にむすびつけることを「乖離」(かいり)といいます。「スキ間」や「隔たり(へだたり)」があるということです。このように現実にたいして乖離(かいり)した目(視覚)を向けると、「認知」も「認識」も成り立たなくなることがよくお分りでしょう。これが「離人症」(りじんしょう)です。「見ているのに見ていない」「聞いているのに、しかし聞いていない」という「もうろう状態」の意識に変わるのです。ここからは「自分にとって、即、快感が得られること」に関わるしか「安心」が得られなくなります。これが「負の意味」を学習して認知し、認識して「記憶」している人の「記憶のソースモニタリング」の仕方になるのです。