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脳の働き方・言葉の生成のメカニズム 言葉の『意味』の生成のしくみ

2018.03.31 09:42

https://www.porsonale.co.jp/semi_c196.htm  より

「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」とは、「言葉」を「記号性の言葉」「概念」「意味」の三つで あると理解することです。「行動」を生成するのは、「意味」としての言葉です

 「脳の働き方」についての説明は、みなさまが書店で手にしてごらんになる写真や図解入りで説明されている「ハードウェアとしての脳のしくみ」にもとづくものが、ごく一般的です。生物学的な説明や分子生物学による記述によって説明されています。

 しかし、本ゼミでは、「ハードウェア」ではなくて、「ソフトウェアとしての脳のメカニズム」を説明しています。

 「脳の働き」を「ソフトウェアのしくみ」として説明するということは、「脳」は、どのようにして「言葉」と「行動」を生み出すのか?というしくみを説明するということです。このことは、これまでの長い本ゼミの話をご一緒に考えてこられて、すでによくお分りのとおりです。

日本人は「言葉の意味」を説明するという教育の仕方をしてこなかったことの弊害

 ここで、少し、「学的な立場」ということに触れておかなければなりません。それは、これからみなさまが、本ゼミでお分りになられたことを活かして、実用的なことに応用するとか、あるいは、「カウンセリング」として活かしてみるということをお考えになるとき、実際に「表現されている言葉」とは異なる『言葉』の扱い方をするという明確な理解が必要になるということがあります。

 たとえば、学校で「教科書」をつかって「書かれていること」について勉強するというときは、「表現されている言葉」そのものを学習します。このように「書かれている言葉」(話されている言葉も)について考えたり、理解するときの「言葉」を「対象言語」といいます。

 この「対象言語」は三つで成り立っています。

記号性としての言葉

「概念」としての言葉

概念を成り立たせる「意味」としての言葉

の、三つです。

 「記号性の言葉」とは何か?といいますと、「本読み」をしているときに「読めない漢字」にぶつかることがあります。読めないけれども「文字」であることは分かります。なんとなく、こう読むのではないかな?と感じてはいても「正しいかどうか?」は、分かりません。このように「読めない漢字」を、学校の先生が「なになにと読む」と伝えます。すると、これを耳で聞いて、伝えられたとおりに「読む」ことをおこないます。このときに「読んだ漢字」は、その人にとっては「記号性の言葉」であるのです。

 意味は分からない。しかし、「読む」という「行動」はおこなった。だから「記号性の言葉」なのです。

 「概念としての言葉」とは何のことでしょうか?「概」(がい)とは、「だいたいのところ」「物を計量するときに、盛り上がった部分を平(たいら)にならす棒」などが、その意味です。

 すると、「概念」という言葉は、「だいたいの意味」とか「おおざっぱなことを言いあらわす表現のための言葉」ととらえている人がいるかもしれません。

 しかし、「言葉」とは、もともと「哲学」(てつがく)という学的な方法によって「しくみ」や「成り立ち」から規定されています。「概」(がい)は「概」として成り立っていて、「概念」(がいねん)は「概念」としての成立の根拠をもっています。すると、どうなっているのか?といいますと「問題となることについての意味内容のことである」という意味をもつのが「概念」(がいねん)なのです。「対象言語」としての「概念」(がいねん)は、「同類のものの表象から共通の部分を取り出すことができた『表象』」というのが正確な意味です。一般的な理解の仕方は、こうです。

 「概念」(がいねん)とは、「対象について、内容がはっきり決められていて、この言葉(つまり「概念」(がいねん))の適用の範囲がしっかり決まっている語(ご)のことである」というのが正しい理解になります。

「行動」は、言葉の「意味」が生成する

 では、「意味」とは何のことでしょうか?

 「脳の働き方のソフトウェアのメカニズム」からいいますと、脳は、「言葉」と「行動」を生成します。「行動」には「言葉」が必要であることは、すでによくお分りのとおりです。「行動」とは、何のことでしたでしょうか?「自分に楽しいことがもたらされる」か、「自分に得することがもたらされる」かのどちらか価値を実現する、ということでした。「価値」とは、物でも、動物でも、人間でもいいのですが、「もともと、そのものがそこに在るとか、在りつづけることにふさわしい在り方」のことをいいます。

 だから、「楽しいこと」も「価値」なのです。人間は、一般的に「楽しくない状態」では、「正常にものを考えられない」という特質をもっています。これは、「脳の働き方」が「快感原則」によって働いていることにもとづいていることは、みなさまにはよくお分りのとおりです。「快感原則」は、脳内に「快感ホルモン」のドーパミンが分泌することをいいます。

 すると『意味』と『概念』とは初めから区別されて、別個に成り立っていることがよくお分りでしょう。どこでどのように区別されるのでしょうか。

 「行動には、言葉が必要である」ということが判断の基準になります。一般的に、という限定の範囲で考えてみて、『概念』(がいねん)という言葉を学習し、憶えたとして、この学習と記憶は「行動」を成り立たせるか?どうか?と問いかけてみます。『概念』(がいねん)とは、自分なら自分が関わりをもつ「対象の範囲」を明確に示すだけの言葉です。「山」という言葉は概念(がいねん)です。「山に行く」というように「行動」とむすびつけたとき、「どこの山か?」はまだ分かりません。「海ではなく、川でもない」という範囲がしっかり定まっているだけです。「うさぎ山に行く」という表現ならばどうでしょうか。「亀の山」ではないので、一応、限定の範囲はしぼられます。しかし、「うさぎ山」というと南北に長い山脈がつらなっているので、「行く」という表現の具体性はまだ不明確です。「行く」という「行動」を成り立たせるための「言葉」の表現は、「うさぎ山。うさぎ県のうさぎ村にあるうさぎ野の登山口から登る」というように、「意図」「動機」「行動そのものの価値」などがあらわされなければなりません。とくに重要であるのは「行動そのものの価値」です。

 「価値」といっても、それは、必ずしも「金銭的な価値」だけのことではありません。

 「そのものが、そこにずっと在って、そのまま在りつづけること」が「価値」ということの普遍的な意味です。

 「山に登る」という「行動」の価値は、「高い山の頂(いただき)に向かって足で、歩きつづける」という「行動」が事実として成立することが「価値」なのです。

 すると、「言葉」の『意味』とは、「行動を成立させることを可能にする言葉の表現」ということになります。

 「山」「山に登る」の二つの言葉は『概念』です。「登る」という行動の対象の範囲が限定されて言いあらわされているだけです。したがって、この「言葉」を伝えたり指示した人が「うさぎ山に登ってほしいんだけどな」という「動機」や「意図」をもっていたとすれば、この表現の段階では「行動は成立しない」ことがお分りでしょう。「山に行く」もしくは「山に登る」という「行動」の『価値』は実現できません。

 「言葉」の『意味』とは、必ず「行動」にむすびつく言葉の表現のことである、ということをよくお分りいただけていることと思います。そして、「言葉」の『意味』とは、『概念』(がいねん)と一義的にむすびついて成り立つものであることも、よくご理解いただけていると思います。そして、「言葉」の『意味』とは、『概念』(がいねん)とは別に、独自に、独立して学習されるものであることもよくお分りいただけていることと思います。

「言葉の実体や仕組み」を説明するときの言葉が『メタ言語』である

 このように、『概念』(がいねん)とは何か?「言葉」の『意味』とは何か?というように、その「しくみ」や「成立のメカニズム」を説明するときの「言葉」のことを「メタ言語」といいます。

 なぜ「メタ言語」であるのか?といいますと「言葉」の『意味』を説明するときは、『概念』(がいねん)を用いてでなければ分かりやすく説明できないからです。「言葉の意味と、概念とは区別されるといいながらも、しかし、やっぱり概念によって語られているではないか?」と疑問をもつ人もいるのです。この疑問に答えられなければ、『概念』(がいねん)とは?とか「言葉」の『意味』とは?についての説明そのものが破綻します。そこで、「言葉」の「しくみ」や「成り立ち」「存在の仕方」を説明するときの言葉のことが「メタ言語」と規定されています。「メタ言語」とは、『超言語』といったほどの意味です。

 このように「メタ言語」というように「言葉」について考える立場をもつと、どういう意義があるのでしょうか?

脳の中に「言葉が実在するのではない」から、『メタ言語』によって解析する

 まず、「言いあらわされている言葉」や「書きあらわされている言葉」が「健康な脳の働き方」をおこなっているか、どうか?が理解されるでしょう。

 その最もわかりやすい例が『概念』(がいねん)と、その『意味』が一致しているか、どうか?です。『概念』(がいねん)とその『意味』は、必ずしも一致するとはかぎりません。なぜかというと『概念』(がいねん)と『意味』は、一義的にむすびつくものではあっても、正確に対応するとは限らないからです。それは、それぞれ、別々に、独立して「学習」したのちに、「一義的にむすびつける」ということをあらためておこなわなければならないものであるからです。

 「一義的」とは、何のことでしょうか。

 「義」とは、「義理、人情」といわれるように、「そのものの本質や意味ではないもの」が、「そのものの本質や意味をもつもの」と関係をとりきめること、という意味です。「義理の父」や「義理の母」などの表現を思い浮べてみましょう。「もともとの父」や「もともとの母」になり変った、「理」というルールや決まりにのっとった「父」や「母」ということです。実体がなくなったか、実体として成立しようがないので「形式だけ」で成立する、という意味です。すると「一義」というのは、「そのものの意味や事実、行動の成り立ちを限定する」ということです。

「意味」の認知と認識の起源は「メタファー」である

 『概念』(がいねん)には、いくつかの『意味』が並立して対応している場合があります。なぜこのようなことが起こるのか?というと、『意味』は、もともと「メタファー」として生成して、つくり出されたものであるからです。「メタファー」とは、「見立て」とか「隠喩」ということです。これは、「ものごとの成り立ち」は、「近づいて見る」という距離や角度、方向などの「位置」によって、姿や形、色、大きさなどがいろいろに変化することに由来しています。「乳児」にとって母親の「顔」は、母親の動きによってさまざまに変化して見えることはすでにお話しています。この「乳児」から見て、角度や距離、方向のどれでもいいのですが、その一つ一つの「母親の顔」の全部は同一ではありません。そこで、「乳児」から見た「母親の顔」の「角度」「距離」「方向」の一つずつに共通する「あらわされ方」というものがあることが記憶されるでしょう。「乳児」には基本感情というものがありました。

 「喜び」「悲しみ」「恐れ」「嫌悪」「怒り」の五つでした。「乳児」にとってこの基本感情は、「自分の存在」を永続させるという価値をもつものです。すると、「母親の表情」は、「乳児」にとっての五つの価値の「メタファー」という認知が成り立つのです。

 『概念』(がいねん)は、原則として「一つの意味をもつ」ということをお話しています。辞書に載っている「意味」のいくつかは、「角度」か「距離」が変わった場合の「メタファー」であることが多いのです。

《例》

「見る」…

(1) 目に止めて内容を知る

(2) 判断する

(3) ものごとを調べ、行う

(4) 自ら経験する

(1) が基本的な意味。

(2) (3) (4) は、①から転じたメタファーである。「見る」ことが「知る」、「世話をする」「経験する」などのメタファーになっている。

(『メタファー思考』瀬戸賢一より)

 この瀬戸賢一の説明する「メタファー」の事例からは、「見る」という『概念』(がいねん)について(1) (2) (3) (4) の四通りの「意味」が並立していることを見て取ることができます。このことは、「メタファー」という装いをとると、さらに『意味』が拡大していく可能性もあるということです。ここに、「病理としての言葉」の成立する土壌があるのです。

「メタファー」は『意味』を多義化する。この多義性を利用して「病気の意味のコトバ」がつくられる

 「角度を変えれば、こういう見方も成り立つではないか」「距離をどこまでも縮めれば、こういう感じ方もありうるではないか」「方向性を、未来ではなくて過去にシフトすると、こういう表現もありうるではないか」などというように、「メタファー」は、さまざまな『意味』を成り立たせます。

 なぜ、このようなことが成り立つのでしょうか?具体的にいうと「そうじをする」(概念)、「お金持ちになる」(意味)、「そうじをする」(概念)、「心がきれいになる」(意味)、といったようなものです。

 これは、『概念』(がいねん)とは無関係に、つまり「一義性」を無視して、『意味』だけを表象(ひょうしょう)するということによって成り立っています。

 「乳児」にとって「母親の顔」という『概念』(がいねん)があると設定してみます。このときの『概念』の『意味』は、角度を変えても、距離を変えても、方向を違えても、「母親の顔」は、共通性をもって表象されます。この「表象」(ひょうしょう)は、「乳児」が母親に接触して知覚した「五官覚の認知」にもとづく「知覚の記憶」が「右脳のブローカー言語野」にイメージとして思い浮べられる「視覚のクローズ・アップ」のことです。

 「対象として特定化される」ということです。これが『概念』(がいねん)の成り立ち方です。

 『意味』とは、「乳児」がいずれ手足を動かして近づいていくときに、自分の身体の動きの変化にともなって「母親の顔」もいろいろに形を変え、姿を変え、様子が変化するということが起こります。「乳児」が自分で動いたときの対象の変化を「三次元の変化」といいます。「乳児」が、独力では動けず、対象が動いて変化して見えることを「二・五次元の変化」といいます。この「二・五次元の変化」と「三次元の変化」として見えるときの「対象の内容」が『意味』です。

 「自分が動いて対象に近づかない」(三次元の変化がない)、「対象は動かず変化しない」(三次元の変化がない)という場合に、それでもなおかつ「意味のメタファー」が成立しているという時、このケースの『意味』は「病気としての言葉の意味」というのです。「一義性が無い」という「メタ言語」の立場からの判断が成り立ちます。

 「ナイスバディになれば、男がわんさかと集まって、幸せな恋愛ができる」(佐藤富雄『愛されてお金持ちになる魔法のカラダ』より・全日出版)といったものが一義性のない『意味』の好例です。これは、「恋愛関係」とか「男性と女性の性関係」という現実に即した、対象が限定された範囲の『概念』(がいねん)は、「やせた女性の生理的身体」を『意味』として含んでいないからです。また、「脳の働き方」という仕組みの『概念』(がいねん)には、「性の快感」はどこまでも「二義的な意味」しかなくて、「女性を主体」とする男性の「言葉のパターンの認知と認識」と「行動のパターンの認知と認識」を『意味』の「第一義」にしているからです。

「病気の言葉」とは、『不正確な言葉の意味』のことである

 ここまでのご説明でお分りのとおり、「脳」は、「病気の言葉」と「病気の行動」も、「左脳」と「右脳」の相互的な働きによって生成しつづけます。もし、万が一、誤解している方がいらっしゃるならば、あらためてご確認いただきたいと思います。

 「左脳」は、「認識」をつかさどります。つまり、「左脳」にとっての「病気の言葉」とは、『概念』(がいねん)を学習して記憶はしているのだけれども、しかしその記憶は、正しい意味の『概念』(がいねん)として記憶していないことをいいます。『概念』(がいねん)には、万人に共通して学習されるべき『意味』がともなっています。

 「普遍性のある意味」と定義することができます。「普遍性のある意味」を別途、独自に学習するということがなく、「この言葉(『概念』がいねん)は、たぶん、こういう意味であるだろう」と考えて、その考えたとおりに『意味』を憶えてしまうときに、その瞬間から「病気の言葉」になるのです。「この言葉(『概念』がいねん)は、たぶん、こういう意味であるだろう」と「考えること」が「左脳」による「認識」です。「認識」とは、「目の視覚の働き」の「X経路」によっておこなわれることは、すでによくご存知のとおりです。「X経路」は、「焦点を合わせて知覚する」「色や、こまかいいりくみや形象性の違いを知覚する」という「記憶の仕方」をすることは、よくご存知のとおりです。おもに「右目」「右耳」がになっています。本ゼミでは「健康な言葉」と「病気の言葉」の違いは、『概念』(がいねん)の『意味』に普遍性があるか、どうか?に拠(よ)っているとお話しています。そこで、「X経路」(認識)と「Y経路」(認知)の内容を判断の価値基準としてもういちどまとめてみます。

『脳のしくみとはたらき』

(クリスティーヌ・テンプル、朝倉哲彦訳、講談社BLUEBACKSより)

光が目に入るとまず網膜に進む。

ここには、異なった型の神経細胞がある。「外側膝状体」(がいそくしつじょうたい)の背側核に投射する「アルファ細胞」がある。

大きな細胞を含む層をつくっているので「大細胞層」という。

この「大細胞」をとおって進む経路を「Y経路」という。

もう一つの特殊化した経路は「ベーター細胞」をとおるものだ。外側膝状体(がいそくしつじょうたい)の背後核の「小細胞層」に線維結合する。「大細胞」よりも小さいニューロンで成り立っている。

これが「X経路」である。

ベーター細胞と「X細胞」は同義である。反応のスピードは遅く、受容野は小さい。

「Y経路」(アルファ細胞)は、反応のスピードが速い。物体の動きにたいして感受性がある。

人間の「視野」に、ある何ものが入ってきたとする。ここでまず反応するのが「Y経路」である(認知する)。あらわれた何ものかが何であるか?をたしかめる(弁別する……見分けること。識別ともいう)のが「X経路」である。

「メタ言語」から見た「脳」は、「人間の脳」と「動物の脳」とを区別する

 脳は「交叉支配」になっていることはすでにご存知のとおりです。「右目」は「左脳」につながっている、「左目」は「右脳」につながっている、という「視覚の経路」が「交叉支配」です。しかし、これは、「視覚の経路」の基本型を説明する記述の仕方です。

 「右目」は「X経路」が中心になっています。この「X経路」は「右目の外側」に位置しています。「右目の内側」(鼻の側)は、「Y経路」が配置されています。「左目」についても同様です。したがって、このことは、「右目」(X経路)でも「認知」が先立ち、次に、「認識」がなり立つというハードウェアのメカニズムになっています。「左目」(Y経路)の場合も同様です。

 このような「視覚の多重構造」は、「なんのためにこういう二重かさねのようなメカニズムになっているのか?」と考えてみると、目で見る「対象」は、つねに「二・五次元」の変化を見せるからだという理解に行きつきます。

 このような理解の仕方を成り立たせるのが「メタ言語」という考え方をもつ立場です。

 「メタ言語」として「二・五次元」を想定すると、ここでは、人間だけではなく、動物一般にも共通する「視覚」による「知覚」の「認知」と「認識」のメカニズムが理解されます。

 動物の一般にとっての対象とは「食べ物」となる「生き物」のことでしょう。それは、いつも「主体」にたいして「真正面」にあらわれて姿を見せるとは限りません。鳥は、草の中を走り回る生き物を高い位置から見て識別します。また、逃げる動物をとらえて生きる糧(かて)とする動物は、疾走する生き物の走る方向、速度の中の位置関係をたえまなく「認知」しつづけ、共時的に「認識」しつづけることが必要です。「変化する角度」「変化する方向」「変化する距離」のひとつひとつが、「百分の一秒」単位でとらえらえます。

 このことは、脳の「ハードウェアのメカニズム」は、「百分の一秒」を上回る速度で対象を「認知」するし、同時に「認識」もおこなうということの論理的な実証になるのです。このような理解を「人間」の「脳の働き方」に置き換えるときは、「メタ言語」の理解の立場に立つ、ということが必要です。分かりやすい例をあげてご説明いたします。

平成20年3月28日と1月25日付の日本経済新聞に、次のような記事が報道されていました。

米マサチューセッツ工科大学(MIT)の「利根川進教授」は、2009年4月に「理化学研究所・脳科学総合研究所センター長」に就任する。

「利根川進教授」は、「脳の機能を細胞単位だけでなく、システムとして明らかにして、認識や行動と結びつけて総合的に研究する必要がある」と話す。

脳科学総合研究センターでは、約300人の研究者が「心と知性」「回路機能」「疾患メカニズム」などのテーマに取り組んでいる。

「利根川進教授」は「ノーベル生理学・医学賞受賞者」だ。

「マウスの脳」で「信号伝達」を遮断したり、回復する技術を開発した。

この新技術で「脳の海馬」の領域で、「新しい経験」をすばやく記憶するのに必要な「神経回路」を発見した。

「さまざまな神経回路に応用すれば、老化による記憶障害のメカニズムの解明に役立つ」と話す。

「海馬」は、いくつかの重要な領域に分けられる。目や耳から入った情報は、こうした領域をさまざまな経路をとおって記憶に蓄えられる、と説明する。

 「メタ言語」とは、表現された「言語」(言葉)、そして、表現されない「言語」(言葉)を説明するための「方法としての言語」のことです。

 「表現された言語」(言葉)は、必ず「左脳で認識されて、左脳系の海馬」で記憶された人間的な意識のことです。「表現されない言語」とは、「右脳」の「ブローカー言語野」で「視覚的なイメージ」として思い浮べられる「知覚の記憶の表象」のことです。

 「利根川進」は、「マウスの脳」と「人間の脳」は、どこが同じで、どこが違うのか?の前提を明らかにする必要があります。

 「マウスの実験」によって「認識」や「行動」というものが、なぜ、成り立つのか?の理論的な前提も説明する必要があります。

 このことは「脳のハードウェア」と「脳のソフトウェア」という同じ「脳」なのに全く異なる対象は、同じテーブルに乗せられないということを、よく分かっているのか?どうか?という批判が、どこまでも「利根川進」につきまとって離れることはない、ということを意味しています。

『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』は「メタ言語」の対象である

 ポルソナーレは、「メタ言語」(超言語)によって「脳の働き方のメカニズム」を解明しています。考察の対象は「マウス」ではなくて「人間の脳」です。「乳児」「乳幼児」の「行動」と「言葉」の表現を観察の対象にしています。

 「人間」の「行動」には「言葉」が必要です。この「行動」は「病気の言葉」であるか、どうかは問いません。「病気の言葉」でも人間は「行動」します。「言葉」が「病気」かそうでないか?を分けるのは、何でしたでしょうか。

 「言葉」の『意味』に「一義性があるか、どうか?」が診断の基準でした。「言葉」の『意味』に「一義性がある」という場合を『概念』(がいねん)といいます。

《例》

●『そうじ』を「する」(概念)

◎「汚れなどをとりのぞいてきれ いにする」(意味)

●「そうじ」を「する」(記号と しての言葉)

◎「お金持ちになる」「心がキレイになる」「好運が舞い込む」「仕事に成功する」(病気としての言葉。記号としての言葉の「意味」)。

 比べてみるとよくお分りになっていただけますが、「記号としての言葉」の成立の条件は、『概念』として不成立であるということです。『概念』として成り立たないということは、考えられたり、憶えられない、説明されている「意味」に相当する「言葉」が「そうじ」(をする)という現実の対象を「認知」していない、だから当然、「認識」も無い、ということです。

 では、なぜ、「そうじをする」という「行動」が成り立つのでしょうか。

 その理由は、「言葉」が『概念』(がいねん)でありうるか、どうかは「一義性のある意味」を、同時に、並行して学習して記憶しているかどうかにある、ということを思い出していただく必要があります。『意味』を構成する言葉とは、「対象」に関わりをもつ「二・五次元」か「三次元」の「認知」の内容です。「角度」「距離」「方向」のそれぞれの「認知」が「認識」されたときが『意味』です。

 「ゲシュタルトの認知の法則」では、「イスに座っている人物」(イスに座る)が『概念』に相当します。ここに「乳児」の視点を「メタ言語」として想定します。すると「イスに座っている人物」が、イスとともに、前後、左右に「動いてみせる」という「見え方」をするときが「二・五次元の認知」です。「乳児」が、「一歳半」くらいに成長すると自分の足で動いて「イスに座っている人物」に近づいていき、ぐるっと周囲を動いてまわって見ることができます。

 さまざまに角度が変わって見えるでしょう。遠い、近い、という距離による知覚の変化も見えます。「昨日も見たね。今日も、同じようにイスに座っているよ」という「記憶のソース・モニタリング」による「記憶の表象」があれば、「時間の経過」という「方向性」も「認知」に加わるでしょう。

 これらの「二・五次元」と「三次元」による「行動」の「認知」と「認識」が『意味』です。共通する「認識」は「休んでいる」「リラックスしている」「動かずに、落ちついている」「立ち止まって考えごとをしている」などの『メタファー』が生まれて、この「メタファー」の示すとおりの「行動」が生成されるでしょう。

 もし、これらのような「二・五次元」も「三次元」の関わりもない場合は、「イスに座って静止している人物」だけが「認知」されます。この「認知」がなんどか反復したら「認識」の記憶になります。これが「パラパラマンガ」のメカニズムでした。

『概念』に一義性をもたない『意味』を語る人は、触覚に同化する一体化を求める病気の「行動」を起こす

 「イスに座って静止している人物」とは、目でじっと見詰めている「視覚による認知」です。「見詰めつづける」ことを持続させると、「クローズアップ」という視覚のイメージになります。

 これは、「テーブルの上に乗せているリンゴ」を、じっと見詰めづける、という実験をご紹介しているとおり、「自分の身体にぴったりとくっつく」という「右脳・ウェルニッケ言語野」の「触覚の認知」に変わります。内容が変化するので「変容」といいます。「私だけを見て」とか「私をふり向いてください」などというのは、「私の生理的身体と同化してください」という「メタファー」のことでもあります。

 「そうじをする」という「記号性の言葉」が「行動を成り立たせる」のは、「テーブルの上に乗せているリンゴ」をじっと見詰めつづける「脳の働き方のしくみ」と同じように、一直線に「ストレート」に突進していくような「行動」を成立させるのです。「そうじ」の対象と、「そうじをする人の身体」が、さながら「血縁関係」でも成立したかのように「同化」し、「一体化」していく、という病的な「行動」が成り立つのです。

 なぜこのような「猪突猛進」(ちょとつもうしん)型の「行動」を、「脳」は生成させるのでしょうか。

 それは、「0歳9ヵ月」から「1歳半」にかけての「乳児期」に、「母親による共同指示と、喜びの表情」という『意味』の「メタファー」を「左脳系の海馬」に記憶していないからです。「意味」の「メタファー」は「右脳系のブローカー言語野の3分の2のゾーン」に「認知」して記憶されます。そして必ず、ドーパミンを分泌するという「快感報酬」を完成させます。「記号性の言葉」を憶えて「行動する人」は、「号令」や「命令」によって動き出します。

 ここでもやはり「脳の快感報酬」のメカニズムはあります。「右脳系のウェルニッケ言語野」の「触覚の認知」とネットワークしている「中隔核」(トカゲの脳・幸福のボタン押し)や「右脳系の扁桃核」が記憶している「指しゃぶり」「ハンカチしゃぶり」「バスタオルしゃぶり」のイメージが表象されます。「右脳系のブローカー言語野の3分の1のゾーン」に同化し一体化した「そうじ」の対象が「クローズアップ」されて、「自我」を喪失した「依存」(甘え)の「滅びのドーパミン」が分泌されるのです。