保々西城つくってみた!①現地調査
2018.03.24 01:36
保々西城
◆ところ 三重県四日市市西村町字城下
◆規模 250×310m、標高60m、比高20m
◆城主 朝倉氏
◆参考図書 日本城郭体系、再発見・北伊勢国の城、三重の中世城館
保々西城は東、西、南を崖に囲まれた半島状台地の先端部にあり、弱点となる北側に空堀・土塁を設置し守りを固めている。また、北側の大手口から、主郭に至る間には、高さ1m前後の低い土塁で区画された一辺が30から40mの方形の家臣らの屋敷と思われる遺構が並ぶ。
私がこの保々西城の気に入ったところは、家臣の屋敷と思われる区画が主郭の周りに配置されており、その遺構が今もきれいの残っているところです。また主郭も思ったよりも大きな堀と土塁に囲まれ、2か所の虎口も、東虎口は内桝形を形成しながら虎口に至る土橋には主郭の張り出した土塁から横矢がかけられるように工夫がされ、北虎口は土橋から入ったところで食い違い虎口となっているなどなかなか興味がわくつくりとなっています。
朝倉4代の城といわれたいますが、永禄11年(1568年)織田信長の北伊勢侵攻により、滝川一益の攻撃を受け落城し朝倉氏は滅亡しました。
戦いでは北側の堀と土塁、家臣屋敷はあっという間に破られて、主郭での攻防になったのでしょうか?いろいろと縄張り図を見て想像して楽しんでいます。
保々西城跡にあった看板。お城のつくりと特徴がわかりやすく表示されています。
南東からの城跡の様子です。昔は、川や田、沼地でこちらからは攻めにくかったのでしょう。
主郭の空堀と土塁です。想像したよりも大きく立派でした。