【下谷②】屏風坂下車坂町
町名:屏風坂下車坂町
読み方:びょうぶざかしたくるまざかちょう Byōbuzakashita-Kurumazakachō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1869(明治2)年
冠称:「屏風坂下」
後身:下谷車坂町
現町名:台東区上野七丁目
概要:1626(寛永3)年、下谷村の下谷坂本町通り東側の上野台麓に開かれた寛永寺門前町。はじめ「新坂本下町」、「新坂本町」と称した。その後、上野台上と坂本町通り(現在の上野七丁目付近の昭和通り)を結ぶ車坂に因んで、「車坂下町家」、「下谷車坂町」と呼ばれた。一説に寛永寺の車坂門に因むともいわれる。一~三丁目に分かれていた。年貢の負担はなく、上野御本坊用人足・上野山内掃除人足役を出した代官支配地であったが、1632(寛永9)年から寺社奉行支配地となり、1698(元禄11)年に西半部が御用地になり、同年の勅額火事による類焼を機に、中堂建設のため全町域が収公された。代地は元誓願寺前(須田町)に2ヶ所、柳原佐久間町裏通りに1ヶ所、芝西久保に2ヶ所、下谷に4ヶ所、合わせて9ヶ所。給された下谷の4ヶ所は寺町通り・屏風坂下・浅草新寺町辺と長者町続で、それぞれ「寺町通車坂町」、「屏風坂下車坂町」、「浅草新寺町通車坂町」、「長者町続車坂町」と呼ばれた。旧地の車坂町は寛永寺子院御用地となって消滅、名称は代地で継承された。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、寺町通車坂町と屏風坂下車坂町が合併して起立した下谷車坂町に編入となり消滅。1872(明治5)年に下谷車坂町から下谷上車坂町、下谷下車坂町が独立。また同年、浅草新寺町通車坂町は浅草清島町、長者町続車坂町も下谷坂町を起立し消滅。
撮影場所:屏風坂下車坂町