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粋なカエサル

「ナポレオン失脚の原因」⑥

2018.03.24 13:08

 1814年9月から、ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を話し合うためにウィーン会議が開かれた。主催したのは、オーストリア外相メッテルニヒ。かれは、1818年「カールスバート議定書」を出し、言論弾圧を強化。1820年には、警視総監がベートーヴェンの逮捕を上申するに至った。皇帝の弟ルドルフ大公が、ベートーヴェンの弟子でありパトロンであったため、ベートーヴェンの政治批判は奇人・変人のたわごととして不問に付されたが、ウィーンだけでもスパイが1万という息苦しい密告社会になる。明るく軽快なワルツ、ポルカや華麗なイタリアオペラがウィーン音楽界の流行となって、ベートーヴェンは疎外感、孤独感を味わうことになった。こんな警察政治をもたらしたメッテルニヒとナポレオンは1813年6月末に会談。こんなやり取りをしている。

(ナポレオン)

「余は、オーストリア皇女を妻にするという途方もない愚行を犯した。・・・・この過ちは  おそらく、余の玉座を失わせるであろう」

(メッテルニヒ)

「オーストリア皇帝は、自国の幸福だけを考えております。皇帝は何よりもまず君主であって、自分の娘を犠牲にするとしても躊躇しないでしょう」

 跡継ぎをもうけるとともに、政治的安定を求めてオーストリア皇帝の娘マリー・ルイーズと再婚し、ハプスブルク家と姻戚関係を築いたナポレオンだったが、その目論見は見事に外れた。有能な外交官タレーランを切り、敵にしてしまったこともあるが、世襲にこだわり、専制国家の君主をリアルに認識、把握できなかったために、ジョゼフィーヌ離婚後のナポレオンは没落の道を進むことになる。それにしても、歴史を見渡せば権力者の世襲へのこだわりが身を滅ぼさせた例は枚挙にいとまがないが、なぜ同じことが繰り返されるのだろう。権力者が、血縁にこだわらずに有能な後継者選びをすることがなぜそれほど困難なんだろうか。今日、3回シリーズの「名画でたどるナポレオンの生涯 ―今求められるリーダー像―」(毎日文化センター)を終えて、この思いが消えない。血縁、地縁、党派から自由なリーダーはどのようにして育成されるのか。大きな課題である。

(プリュードン「ローマ王」 ルーヴル美術館)

(セント・ヘレナ島のナポレオン)

(メッテルニヒ)

(オーストリア皇帝フランツ1世)

(カフェで政治談議をするベートーヴェン)