人はなぜ「山を走る」のか。
トレイルのシーズンに本格的に入る前に、今一度走る意味を再検討。
よく飛んでくる質問が「マラソンみたいな辛いものは楽しいの?」という問い。後者の素直に質問に答えると「辛いです」。辛いを細分化すると「山を100km超走るレースの時なんて、基本的に体のどこかはおかしくなるし、内臓は言うこと効かない。心理面なんて”いつ辞めて(リタイア)してやろうか”の発散型の無限級数です」ということが適当だと思う。
(200km走ったら、ありとあらゆる筋肉が破壊されて、スネが折れるかと思ったの図@近畿縦断400km超えマラソン)
じゃあ「なんで続けるのか?」問いが飛ぶたびに夢中に走りながら、それとなく自問自答して、いろんな(変態な)トレイルランナーと出会ってきて気づいたこと。
「たまたま、"走る"という"行為"が"成長"する実感があった」だけであったこと。
同じ世界の人でよくある話が「ダイエットで走ってたら〜、会社の○○さんに誘われて〜、なんだか走れるようになって〜」、で「大会をクリアするのが楽しくて〜」、で「気づけば数年でこの世界に入ってた」という話。もしかしたら「プログラミング」だったかもしれないし「料理」や「ガーデニング」であった可能性だってある。そもそも、年齢や国籍、立場に関係なく成長が嫌いな人間なんていないし、結果が出たら嬉しい、出なかったら悔しいそしてまたクリアする目標設定を再設定するのが人間。
もしトレランがより強い部分があるとするのであれば、目標をクリアした直後にゾクゾクくる「もっと違う世界を見てみたい」というエンドレスな"欲"が強いのと、ジャンプしたら届かないけど「背伸びしてギリギリ届くかどうか」という標高やタイムや距離や大会の"多次元的目標設定"がハマっているだけ、と思う。
個人的に幸せなのは、「前述のギリギリの目標がにあること」。「成功も失敗も一見すると"不連続関数"のようだけど、超都合よく"連続関数"として捉えることができること」。そして"走る"という行為を「もっと楽しい世界あるよ」という時代に生まれ、そして異次元の世界を誘惑をし続ける仲間に出会えたことである。
こんな変な世界に出会えたもの何かの縁。新しい世界が待っている2018年のシーズン。新天地への移籍もして、加速度的に成長できるであろう日々に感謝しつつ、この世界にもっとどっぷり使っていき、"走る行為"の成長を通して、将来自分の子供にはこの”選択”、そして出会った"仲間"のことを誇れる人生にしていきたい。
まずは2018年の初戦を頑張ります。