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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 220 (09/11/22) 那覇四町 (2) Wakasa Area 若狭町

2022.11.10 13:58

那覇四町 若狭町 (わかさ)



今年の11月はとにかく雨が多い。例年であれば11月は雨は少ない月なのだが、今年は異常で、例年に比べ那覇では降雨量と日照時間2.5~3倍・70%、宮古では5.3倍・60%となっている。晴れ予報でも一日の内で何度か雨が降っている。今日は曇り時々雨なのだが、明日以降は雨のようなので、思い切って外出とした。案の定、4回ほど大雨に遭遇した。明菜和ではスコールなどはよくあることなので、集落巡りでは雨宿りの場所を確認して、雨が降ってきたらそこに避難するようにしている。今日も4回の大雨も公園の東屋や公民館や図書館で雨宿りとなった。



那覇四町 若狭町 (わかさ)

若狭町は旧藩時代の那覇四町 (東、西、泉崎、若狭町) の一つで、那覇で最も古くから、諸工業の発達した町である。若狭町湾附近には近世まで塗物 (漆器) などの小道具を製造する店が集まっていた。わかさ波の上ビーチ通りには、当時のその様子を説明した案内板が置かれている。波若狭大通りには昭和初期の頃までは電車が首里まで通じ、地元では若狭町電車大通りと言っていた。この若狭大通りが名の如く若桜町の中心地で地方裁判所や中頭郡役所が置かれ、屋根門の旧家が立ち並び、風格のある町だった。

昭和19年10月10日の十・十空襲で那覇市は壊滅的な打撃を受けていた。若狭町は7割方焼け残っていたが、米軍上陸後の地上戦で若狭町を含め那覇の旧市街のほとんどは焼け野原となった。戦後、久茂地川以西の旧那覇市内一帯は、米軍に接収され物資集積所となり、住民は元の住所に戻ることが出来なかった。若狭の人々も疎開先から那覇に戻ってはきたが元の若狭には戻れず、真和志や楚辺あたりに居を構えたりしていた。1949年 (昭和24年)、民政府が玉城村親慶原から上山小学校敷地に移転してきたが、軍政府が使うようになったため、民政府は天妃小学校に移転した。 同年末には軍政府は那覇市を商業地として、できる限り旧所有者に返還し、首都建設に着手している。1950年 (昭和25年) 1月、波の上プールが解放され、同年7月には辻町と若狭町の墓地の整理が始まった。9月には対日平和条約 (サンフランシスコ条約) が調印され1952年 (昭和27年) に発効し、奄美地区を含む琉球列島は日本本土から切り離され米国の統治になった。1952年5月に若狭町の一部が解放、8月には松山町の一部も解放され、11月には美栄橋町の区画整理が始まった。 1953(昭和28)年4月、那覇中学から分離し、 城岳中学を併合した上山中学が上山小学校 元那覇尋常小学校)の敷地に開校した。10月には牧志通り (現国際 通り) の工事が始まり、道路拡幅のため立ち退いた人々が若狭1丁目に割り当てられて引っ越してきた。1955年 (昭和30年) になると、米軍の那覇軍港用地となった垣花から住民120名が泊埋立地区 (旧重民町 現若狭3丁目) に割り当てられて移動してきた。その年の6月には戦後復興第1地区区画整理事業が開始された。1972年の本土復帰前には現在の若狭町の町並みが既に完成している。


若狭町の人口データは1960年以降しか見つからず、それ以前の変遷は不明だ。戦前戦後の推移が最も気になる時期なので、見つかり次第データを入力して更新予定。手持ちのデータを見ると、世帯数では1880年 (明治43年) には799戸、1960年には1520戸と2倍になっている。人口も同じ傾向だったのではと思う。戦前の若狭の人口は2丁目に集中している。戦後一丁目と二丁目に居住区が拡大し、泊地区埋め立てで三丁目に垣花地区住民を中心に移住し増加していった。この三丁目には市営住宅が建設されたことで人口は増加し若狭町の半分近くを占めている。人口のピークは1968年でそれ以降は減少に転じ、現在でも減少傾向になっている。現在の人口は1960年に比べて半分まで減少している。この背景には何があるのだろう?人口が半減はかなりのインパクトがある。


若狭町でかつて行われていた祭祀については資料では見当たらず、現在行われている村拝みのみ記載されていた。この村拝みは旧暦4月1日と10月1日に若狭一丁目と二丁目で行われている。村拝みは、① 雪ヌ崎 (ユーチヌサチ)、② 龍宮/神の産室、③ 苗代五臓御嶽、④ 火ヌ神/シーサー/下ヌ若狭ヌ井戸、⑤ 夷堂、⑥ ユーナヌカー (松山)、⑦ 海蔵院、⑧ 孔子廟 (久米)、⑨ 天尊廟、⑩ 波上宮 の順番で拝まれている。三丁目が含まれていないのには何か理由があるのだろう。三丁目は戦後の埋め立てでできた新興集合団地で那覇軍港として土地を接収された垣花地区の人や他の地域から流入した人たちなので、伝統的は拝みには距離があるのかも知れない。


若狭町訪問ログ



波上宮 (ナンミン)

波上宮の創始年は不詳だが、察度王の時代に護国寺が開山した1368年 (貞治7年) 時期(貞治7年、1368年)に同時期に創建されたと推測されている。地元では「なんみんさん」、「ナンミン」として親しまれてきた。

中国・南方・朝鮮・大和などとの交易基地であった那覇港の出船入船は、その都度、波上宮の鎮座する高い崖と神殿を望み、出船は神に航路の平安を祈り、入船は航海無事の感謝を捧げたという。人々は豊漁、豊穣を祈り、琉球王府の信仰も深く、王みづから毎年正月には列を整え参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど、朝野をあげての崇敬をあつめ、琉球八社の制が設けられると波上宮をその第一に位せしめ、「当国第一の神社」と尊崇された。

その後、一時期には衰微し、紀伊国熊野から補陀落渡海の果てに琉球へ漂着した真言宗の僧侶日秀上人が、熊野三所大権現の本地仏である阿弥陀如来、薬師如来、千手観音を刻して安置し、1522年 (大永2年) に再興している。1633年 (寛永10年) に社殿が焼失したが、1635年 (寛永1年) に再建されている。1803年 (享和3年) にも社殿が大破し、それまでの本地三尊像を3殿に分けて安置していたが、1殿に安置する三戸前として改築されている。

葛飾北斎が琉球八景の錦絵を1832年 (天保3年) に発行し、その一つに「筍崖夕照 (じゅんがいせきしょう) 」(右) でこの波上宮が描かれている。北斎が琉球を訪れた事はなく、1757年 (乾隆22年) の清朝の版本「琉球国志略」の周煌撰筍崖夕照 (左) が元になっている。

1850年来琉した英国艦隊のレイナード号から見た波上宮のスケッチ (右下) がある。それを見ると波上宮がある崖は海に囲まれた岬の地形で、現在は周辺一帯は埋め立てられて当時とは全く変わっている。英国艦隊一行は上陸後この波上宮を訪れ、英国国旗を掲げたそうだ。

明治23年には官幣小社に列格し、沖縄総鎮守になるに至る。下は戦前の波上宮。

先の沖縄戦では一帯が戦地となり焦土となってしまい、鳥居や灯籠だけが残っている。

戦後は、1953年 (昭和28年) に本殿と社務所が、1961年 (昭和36年) には拝殿が再建、平成5年には本殿以下諸社殿再建など諸境内整備が完工した。 


泊大橋からは崖の上の波上宮が一望できる。ペリー達もこのように見えたのだろう。


一の鳥居

一の鳥居から山道を登り波上宮を見学する。1990年 (平成2年) に御大典を記念して改築されたもの。


折口信夫歌碑

参道の途中に民俗学者の折口信夫 (おりぐちしのぶ) の歌碑が置かれていた。折口は民俗学の巨匠の柳田國夫の高弟で柳田の沖縄探求に刺激を受け、沖縄文化を探究。沖縄に古代日本の姿が存在しているという論で柳田より沖縄文化を直感的、情緒的に捉えていた。沖縄学の父と言われた伊波普猷とも深い親交があった。その折口が沖縄を詠んだ歌の一つの碑。


二の鳥居

参道を登ると二の鳥居。


参集殿

二の鳥居の脇には参拝者の休憩所となっている参集殿が建てられている。


沖縄医生教習所記念碑

参集殿の前に沖縄医生教習所記念碑が再建されている。元々の石碑は昭和3年に建てられたが経年劣化で平成11年に元の碑文を刻み建てられた。沖縄に於いて東洋医学中心から西洋医学へ移行は、明治12年の廃藩置県が起点になる。同年に那覇に沖縄県医院が設立され、他府県から医者を招き西洋医学普及が始まる。

西洋医免許を取得した漢方医は56人は那覇近郊で開業していたが、那覇以外の地方には皆無だった。当時は感染病が流行しており、1886年 (明治19年) には天然痘が大流行し、患者数4,712人、死者1,160人の大惨事が発生している。この事で医師養成が急務となり、1885年 (明治18年) に沖縄県病院内 (現在の松山公園内) に医学講習所を併設している。

医学講習所は1889年 (明治22年) に医生教習所と改称され、1912年 (明治45年) の閉所迄200名程の卒業生を輩出している。碑文に医学講習所の歴史が記されていた。

明治十八年二月沖縄県医院に医学講習所を新設す。置県後日なお浅く県民の衛生思想いまだ幼稚の域を脱せず、寒村僻地に至っては殆んど医薬の仁澤に浴せざるを以て汎く子弟を教養し、賑恤救護するの必要を認めたればなり。是年六月校舎を下天妃に移し同二十二年医生教習所と改称し同三十四年地を松下町に卜して病院及教習所を新築し大にその規模を拡張せしが同四十五年医術開業試験法改正の結果閉鎖せらるるに至れり。創立より是に至る歳を閲すること二十八年卒業回数を重ぬること二十三次在籍生徒五百名開業免許状を受くる者実に約二百名に上れり。
惟ふに本教習所の開設は恰も県治草創の時に際し人心の傾向官場の吏僚を貴んで民間の業務を喜ばざる風あり、従って世人の本教習所を視ること甚だ重からず、是以て諸生の来り学ぶ者自ら褒貶の外に立ち螢雪三十年孜孜として養生の学術を研鑽し営営として方薬の天職に没頭せり。それ大政維新の皇化遠く南陲に迨んで悉く旧来の陋習を破り開明今日の盛を效すもの本教習所の微力また与らずとせんや。況や本所出身中本職の余力を以て或は政治界に或は経済界に県治の発展県民の向上に貢献せし者多士洵に儕儕たるや。
顧れば滄桑幾変遷同窓の士にして既に鬼籍に入りし者約五十名母黌の遺址また草莽の裡に埋没せんとせり。乃ち同人胥謀りこれを金石に録して以て後毘に胎さんとす。波上の晴嵐永くその芳を伝へ笋崖の潮音長へにその功を頌へよ
昭和三年季秋 登極の大礼挙行の日 文学士東恩納寛惇撰 医師山城正心書


手水舎

境内に入ると手水舎がある。沖縄らしく、琉球赤瓦に屋根に龍頭から水が噴き出している。


明治大帝聖像

手水舎の奥には明治百年を記念して明治天皇像が建立されている。その後方の壁面には明治天皇の2首「わが国は神のすゑなり神まつる昔の手ぶりわするなよゆめ」「たらちねの親に仕へてまめなるが人のまことの始なりけり」が銅像台座には、明治元年の新政府設立時の「五箇条の御誓文」が刻まれている。

またその隣には昭和天皇の沖縄の訪問が未だ叶わない心中を表した歌碑があり、台座には健康回後に沖縄を訪れたいとの天皇の言葉が記されている。この二つのモニュメントは大正時代に設立された右翼政治結社の日本皇道会によって建てられている。明治以降、国家神道により沖縄の日本化を強引に進め、そのピークが第二次世界大戦の時代、皇室、神道が政府、軍部により利用された時代だった。沖縄住民にとっては苦しい時代だった。明治百年記念碑なのだが、沖縄県人にとっての明治百年とはどの様な意味を持っていたのだろう? 明治百年は琉球国滅亡百年とも読み替えられるのだが。


拝殿

境内の奥に1961年 (昭和36年) に再建された拝殿がある。多くの参拝者が列をなしていた。沖縄では珍しく色鮮やかな拝殿で、那覇市中心にもあり観光地となっている。沖縄らしく狛犬ではなくシーサーが拝殿を守っている。御祭神は伊弉冉尊 (いざなみのみこと)、速玉男尊 (はやたまをのみこと)、事解男尊 (ことさかをのみこと)、別鎮斎 (相殿神) は火神 (ヒヌカン)、産土神 (うぶすなのかみ)、少彦名神 (すくなひこなのかみ)(薬祖神)を祀っている。


本殿、花城 (ハナグスク)、苗代五臓御嶽

拝殿の奥に本殿があるのだが、拝殿から奥は立ち入りが出来きないのだが、本殿の姿は海岸側の泊大橋から見る事ができる。本殿は元々は御嶽があった場所とされ、波上宮が創建される前はこの波上山の崖端に苗代の五臓御嶽があり、花城 (ハナグスク) と呼ばれていた。この鳥居がその御嶽なのだろうか?

ここを聖地として住民達が祈りを捧げていたと思われる。崖上に鳥居が柵越しに見えているのだが、そこがかつての御嶽だろうか?この鳥居が何なのかは分からず仕舞い。社務所の人に聞けばよかったのだが忘れてしまった。聖地の始まりについての波上宮鎮座伝説が伝わっている。

往昔、南風原に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、彼は海浜で不思議な「ものを言う石」を得た。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来た。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていた。このことを知った諸神がこの霊石を奪わんとしたが里主は逃れて波上山に至った時に神託があった。即ち、「吾は熊野権現也、この地に社を建てまつれ、然らば国家を鎮護すべし」と。そこで里主はこのことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀った。
熊野権現の神託とあるが、これは御嶽の伝説が熊野権現にすり替わったものでは無いだろうか?

後日、インターネットで他の集落を調べていると偶然、本殿の立ち入り禁止地区を訪れた人が写真をアップしていた。本殿の裏にも鳥居が置かれている。海の向こうのニライカナイへの遙拝所だろうか? (写真左上)  先日、柵の外から見えた鳥居は、花城 (ハナグスク)、苗代五臓御嶽への入り口だった。この入り口から崖の上の石垣へ道があり、その石垣の二か所に香炉が置かれ拝所となっている。これが花城 (ハナグスク)、苗代五臓御嶽になる。


浮島神社、世持神社

境内には二つの境内社の祠が並んで置かれている。浮島神社と世持神社で両社とも仮宮となっている。浮島神社は元々は天久に長寿宮という名で琉球で最初に建立された神道神社で、戦前に、社名を浮島神社に改められた。1988年 (昭和63年) に借地立ち退き問題で、波上宮に仮宮を構えて移転し現在に至っている。世持神社は、沖縄を繁栄させた三恩人として、中国から芋をもたらした野国総管、イモ作を普及させた儀間眞常、農業政策を進めた大政治家の蔡温を祀り、昭和12年に国場川にかつてあった中州島 (現在の奥武山) の森に創建されている。この創建は野国の子孫が儀間子孫を巻き込んで創建を陳情し、一度は身分の低さで却下されたが、祭神に蔡温を加えてようやく許可が降りたという経緯がある。沖縄戦で破壊され、神体は行方不明だったが、神体と称するものが現れたが、その所有者一族に不幸が続き、神体を昭和47年に波上宮の境内地に仮宮を設けて祀られることになったという経緯がある。少し異質なのは、世持神社の境内は奥武山にあり、神体は波上宮に分かれており例祭は神体を運び、奥武山の境内で行われている。


社務所

社務所も琉球赤瓦で立派な建物になっている。


波の上ビーチ

社務所横側から海岸へ降りる道がある。途中に広場があり、相撲広場と呼ばれている。なんみん祭ではここで沖縄角力と江戸相撲の大会が行われ、ビーチでは綱引き大会が行われている。海岸は波の上ビーチになっており、今日は11月だが、まだ海水浴客がいる。夏は大勢の海水浴客で賑わっている。

この波の上ビーチの昔の写真が残っている。今よりもずっと賑やかだった様だ。戦前、1931年 (昭和6年) に那覇市営波上プール (写真右下) がオープンしている。戦後、この地域は米軍に接収されていたが1950年 (昭和25年) に返還されている。1963年 (昭和38年) ごろから、波上海岸にはバラックが立ち並んだ水上店舗が現れている。1980年 (昭和55年) に火災でボート小屋8棟が全焼。那覇市は水上店舗の再建築を認めず、跡地を公園として整備している。その後、1991年 (平成3年) に波の上人工ビーチが完成したのが現在の姿だ。


龍宮、神の産室

ビーチは波上宮の岸壁を挟んで東と西にある。東側の方が人気がある様だ。崖には数ヶ所洞窟がある。洞窟内では人骨が見つかっており、大昔は墓だったと推測され、それが御嶽として聖域になったという説もある。いくつかの香炉が置かれており、ここでは海の彼方の龍宮と神の産室とされる洞窟を拝んでいる。更に崖上にある苗代五臓御嶽への遥拝も行われる。

岸壁西側にも香炉が置かれている。


イビヌ前 (メー)

波の上ビーチ東側の旭ヶ丘の崖下にはイビヌ前 (メー) と呼ばれる拝所がある。波上宮の本殿の場所にあった御嶽のイビ (威部) と関係があるのだろうか? 墓の様に思え、ここに葬られた祖先を拝んでいるのだろう。

この他にも、崖の斜面には幾つかの古墓があった。


護国寺

波の上神社の一の鳥居の所には護国寺が再建されている。琉球の真言宗総本山である高野山真言宗の寺院で山号は波上山、院号は三光院で、本尊は聖観世音菩薩。現存する沖縄の寺院では、最も古い寺院で、中山王察度の時代 (1350~1395)、1368年 (貞治7年) に波上宮の神宮寺 (別当寺) として薩摩より来琉した頼重法印 (日秀との説もある) が創建したと伝わっている。創建以来、鎮護国家、五穀豊穣を祈願する王家の勅願寺でもあった。察度の次の王である武寧から琉球国最後の王の尚泰までの歴代国王が即位する際には、数百人の家臣を引き連れて参詣し、本堂にて「君臣の縁結びの盃」が取り交わされた。護国寺を写した古写真があった。左の航空写真では波の上宮への参道の右側に護国寺がある。写真右はかつての山門。

1945年 (昭和20年) の沖縄戦では、波上宮と共に、艦砲射撃により破壊され、山門を残して、戦前の建物や仏像、資料等のすべてを焼失している。沖縄戦で壊滅的な損害を被った円覚寺や崇元寺などの寺院のほとんどは廃寺となったが、護国寺だけは1947年 (昭和22年) に沖縄刑務所官舎跡 (楚辺の旧沖縄刑務所) にバラック造りで再建され、1952年には、元のこの場所に復興している。

新しく建て替えられた山門を入ると、コンクリート造りの本堂がある。

1849年にハロランが率いる英国艦隊マリナー号が那覇に寄港した際にこの護国寺に来ている。その時に随行の絵師が描いた山門の様子が残っている。山門には巨大な仁王像が描かれている。かなり大きい。勿論、現存しておらず、現在は写真右の仁王像が門を守っている。

山門を入ったところには鐘楼があり、鐘が吊るされている。琉球王統時代末期の1853年、ペリー提督が琉球を訪れた際に、ベッテルハイムの口利きで、護国寺の鐘は贈られた。 (持ち去られた) 戦後、1987年 (昭和62年) に沖縄へ返還され、県立博物館美術館に収蔵展示 (写真右) されている。

その他、境内には護摩堂 (写真左) や水子地蔵尊があった。


ベッテルハイム博士居住之趾、牛痘種痘始祖 仲地紀仁顕彰碑

護国寺境内には幾つかの記念碑が立っている。ベッテルハイム博士居住之趾と牛痘種痘始祖 仲地紀仁顕彰碑。ベッテルハイムの碑は1926年、島民をはじめとする有志がベッテルハイム来島80年を記念して建立されたもので、土台にはベッテルハイムが滞在していた9カ国の石、碑石は米国から寄贈された石が使われている。渋沢栄一も米宣教師アール・ブルの依頼で多額の寄付を行い、栄一が贈呈した記念樹がその碑の背後に植え付けられたとある。

琉球王統時代には英国聖公会の宣教師として1946年に来琉したベッテルハイム (漢字名は伯徳令) が護国寺の敷地内の家に家族と共に住んでいた。当時はキリスト教は禁教であることから、首里王府の厳しい監視下に置かれ、8年間身柄を当寺に軟禁されていた。ベッテルハイムは変わり者だったそうで、その奇行には王府は困っており、1849年にハロランが来琉した際には、ベッテルハイムを連れ帰って欲しいと書簡まで送っている。ベッテルハイムはそんな事は意に返さず、軟禁ながらも、結構自由に動き回っていたと言う。住民からは「ナンミンヌガンチョー(波之上の眼鏡)」と呼ばれていた。滞在中には、布教の他、英語講師、聖書の琉球語訳「流訳聖書」の発行、無料診療所などを行なっていた。沖縄には英国聖公会の教会が多く目についた。浦添の前田には聖公会教会は大きく、ベッテルハイムホールがあった。ベッテルハイムについては前田集落訪問レポートで触れている。1853年にペリー艦隊が那覇に滞在していた際にハイネがベッテルハイム邸を描いている。写真右の家の軒先に鐘が吊るされている。これがペリーに贈られた護国寺の鐘だ。1854年にペリーが琉球を離れる際にベッテルハイムは8年間の滞在を終え、ペリーと共にアメリカに渡って行った。子供達の教育、琉球語訳聖書に発行準備、本人の健康問題が琉球を去る決断となったそうだ。

ベッテルハイムの碑の隣には牛痘種痘始祖 仲地紀仁顕彰碑がある。仲地紀仁 (写真右) は、1789年 (寛政元年) に医学者の長男として生まれ、26歳の時には中国に留学し内科、眼科を学び、薩摩で外科を学ぶなど、琉球王朝から表彰されるほどの医術を身につけていた。1839年と1841年には泊と那覇に天然痘が流行した際には人痘種痘を行っている。ベッテルハイムは、この仲地紀仁を見込み、当時、薩摩藩により西洋人と琉球人の交流は禁じられていたため、波の上の洞窟の中でこの仲地紀仁に牛痘種痘を伝授した。1848年に実際に牛痘種痘を人に施し成功させている。「琉球種痘の父」と称されている。日本本土の公式の牛痘法導入に先駆けて導入したことになる。日本本土では1849年 (嘉永2年) に佐賀藩医師楢林宗建 (写真左) がオランダ商船の医官モーニックの協力を得て長崎で成功し、緒方洪庵 (写真中) が中心となり全国に牛痘法が伝わったというのが公式な記録で、緒方洪庵が「種痘の祖」となっている。確かに誰が最初に施術したかよりも普及を進めた最大功労者は緒方洪庵なので、彼が種痘の祖と呼ばれるのは妥当と思うが、日本本土では仲地紀仁は注目されないが、匹敵する功績だろう。


臺灣遭害者之墓

護国寺境内には、ベッテルハイムと仲地紀仁の碑の奥に臺灣害者之墓がある。1871年 (明治4年) 10月に宮古島の貢納船が首里王府へ年貢を納めた帰りに遭難し、台湾へ漂着したが、乗組員69人の内54人が山地の原住民族に殺害された。(台湾遭害事件)  明治政府は清朝国に琉球が日本の領土であると認めさせるため、この事件を利用し、1874年 (明治7年) に台湾出兵を行い、その後、1894年の日清戦争へと発展して行った。明治政府軍の台湾出兵時に遭害者54名の内44名分の遺骨が収拾され若狭町上之毛の墓地に収められた。日清戦争後の台湾領有を終えた1898年 (明治31年) に護国寺に移され墓碑が立てられた。 政治的な意味合いが感じられ国策であったのだろう。


天尊廟、天妃宮

護国寺の手前には久米村 (クミンダ) の閩人三十六姓の子孫達が祀っている道教の天尊廟があり、別の場所の天妃町にあった天妃宮も合祀されている。福建の閩人末裔の久米三十六姓が14世紀初頭に現世の邪悪を絶滅して民を助ける道教の神の九天応元雷声普化天尊を祀る天尊廟をこの場所に創建した。航海安全の守護神の媽祖を祀る天妃宮は琉球国の貿易船の航海安全を祈願し、外交を担当する施設だった。道教は福建から移住して来た久米三十六姓が、元々の一族の信仰を持ち込んだのだが、沖縄で広まる事はなかった。至聖門を入ると広い敷地奥に廟が建っている。

この場所には2年前にも来ている。以前と少し変わっていた。2年前には建物が三つあったのだが、ひとつだけになっている。以前はここには孔子廟、明倫堂も移設されていたのだが、現在では、この孔子廟と明倫堂は松山公園内に移されている。以前孔子廟となっていた正面の建物が現在では、別の二つの建物にあった天尊廟 (写真左下手前)、天妃宮 (写真上の右側の建物) が移って来て、二つの建物は撤去されていた。元々は天尊廟だったので、本来は正面の堂が天尊廟であるはずなのだが、戦後ここが再建された際に、天尊廟、天妃宮、孔子廟、明倫堂をここにまとめた。正面が孔子廟になった事から久米村では儒教が最も重要は信仰だったのだろう。

現在の廟は本来の道教の天尊廟が廟内正面に祀られ、移設合祀された天妃宮で祀られていた天上聖母の媽祖と龍王が両脇に祀られている。

現在の建物には、国を守り、民を助ける道教の神の天尊を祀る天尊廟、三国志で知られる関羽を祀る関帝廟、水や風雨を治める龍王を祀った龍王殿、千里眼と順風耳の天上聖母の媽祖を祀る天妃宮が合祀されている。

元々は独立して今の天妃小学校の場所に上天妃宮、東町郵便局の場所に下天妃宮と二か所あった。沖縄戦で焼失し、ようやく1795年 (昭和50年) にこの地に再建されている。


程順則頌徳碑、蔡温頌徳碑

天尊廟と天妃宮がある廟の奥に久米村 (クニンダ) 出身で首里王府で三司官 (総理大臣級に相当) を務めた蔡温と程順則の頌徳碑が置かれている。蔡温 (具志頭文若 1682年~1761年) は琉球国の最も優れた政治家と言われ、農業、林業、治水、科学、思想、学問など様々な分野でその行政手腕を発揮し業績をあげている。ました。程順則 (名護寵文 1663年~1735年) は教訓書「六諭衍義」を1708年に清国から持ち帰り、1718年には琉球初の公立学校である明倫堂を創設した文学者、教育者。


旭ヶ丘公園

波上宮、護国寺の東側は那覇三大ヶ丘公園の一つの旭ヶ丘公園が広がっている。昔は済広寺山 (セーコージヤマ) と呼ばれた丘だった。波上海岸の水上店舗が1980年 (昭和55年) に火災で全焼した跡地を造成して旭ヶ丘公園として整備された。この公園の中には幾つもの慰霊碑、顕彰碑が置かれている。史跡ではないのだが、公園内をさんさくしながら一つ一つの碑の背景を見ていく。


小桜の塔

旭ヶ丘公園を入ると、その道の先に小桜の塔が建立されている。この塔は沖縄戦での対馬丸犠牲者の慰霊碑になる。先程訪れた護国寺の住職が旅先で知り合った愛知県すずしろ子供会の会長から、沖縄に子供のための慰霊塔をつくりたいと申し出を受けたことから、一般市民からの募金や、愛知県知事などの協力、献金を得て、住職が中心となり1954年に護国寺境内に沖縄戦没学童の慰霊塔を建立した。年々慰霊祭への参列が対馬丸関係者に限られてきたことから、1956年に開催日が対馬丸受難日の8月22日に改められて学童疎開船「対馬丸」の慰霊碑として1958年に対馬丸遺族会の管理するところとなり、1959年に旭ヶ丘公園内のこの場所に移転改修されている。対馬丸は1944年 (昭和19年) 8月21日、米軍潜水艦の魚雷攻撃で鹿児島県の悪石島沖に沈没。乗り合わせた学童約800名をふくむ約1,700名の乗客のうち約1,500人が死亡したといわれる。この後、公園内にある対馬丸記念館を訪れるので、対馬丸の悲劇はそのおりに触れる事にする。

小桜の塔への階段の下に、対馬丸撃沈の犠牲になった学童の霊を慰める地蔵尊が1970年 (昭和45年) に置かれている。小桜地蔵尊と呼ばれ、その台座に「弔泣幼魂」「わらべ唄 口ずさみて 手を合わし あゝ去がたき 小桜の塔」とある。階段を登った所には観音菩薩像が置かれ、その横には対馬丸に乗船し犠牲になった学童の名が刻まれている。小桜の塔の敷石は、対馬丸が魚雷で撃沈された近くの悪石島の海岸に石を持ってきて敷き詰められている。


戦没新聞人の碑

1945年の沖縄戦では新聞は政府、軍部の圧力に屈して、国民世論を煽り戦争推進の一翼を担っていた。この激戦下でも一部の新聞社の社員たちは1945年5月25日まで2ヵ月にわたり首里城の第32軍司令部近くの留魂壕で新聞の発行を続け、任務を果たし、その後様々な所や形で戦死していった14人 (沖縄新報10人、同盟通信のオペレーター2人、朝日新聞1人、毎日新聞1人) がいた。最後まで新聞を守ろうとした人たちだった。戦後、1961年に共同通信の朝日新聞、毎日新聞、琉球新報などが合同で、この地に戦死した14人の新聞人の慰霊碑を建立した。これは単なる哀悼の意味だけではなく、戦時下とはいえ本来は権力を監視し国民を守る立場に立つ新聞の役割を見失ない戦争協力を行った事への深い自責と反省と凄惨な戦火の中で新聞を守ろうとした人達への敬意を表わしている。 慰霊碑はヤンバルの石を使い、その中央に新聞活字の明朝体で「戦没新聞人の碑」と刻まれ、右側に戦死した14人の名、左側に碑文が書かれている。


琉球音楽野村流始祖先師顕彰碑

戦没新聞人の碑の隣には琉球音楽野村流始祖先師顕彰碑があり、碑の台座には野村流の要人の写真が置かれていた。野村流は琉球古典音楽の三流派 (野村流、湛水流、安冨祖流) の一つで、野村安趙 (1805〜1871) を始祖としている。1869年に琉球国最後の国王尚泰の命により工工四 (くんくんしー) を作成したことが流派成立のきっかけとなり、このにより、一般民衆の間に三線音楽が普及した。先日訪れた泊旅客ターミナルの北の泊緑地に「琉球音樂聲楽譜附工工四発祥の地」石碑が建っていたのを思い出した。

工工四はギターのタブ楽譜や本土の三味線

18世紀の琉球古典音楽の演奏家の屋嘉比朝寄が、当時の中国で使われていた工尺譜、唐伝日本十三弦箏譜、潮州の二四譜、明清楽譜の記譜法を参考に考案したのが始まりで、これが改良され知念工工四となり、更に改良を加えたものが野村工工四で、現在の三線の楽譜はこの野村工工四がベースとなっている。


沖縄芝居顕彰碑

旭ヶ丘公園から住宅街に抜ける公園内の道脇に沖縄芝居顕彰碑が建っている。沖縄芝居の振興に尽くした先人の功績をたたえ2012年に建立されている。色々と紆余曲折もあり会長に衆議院議員の國場幸之助の選挙 (10月の選挙では比例区で復活当選) に利用されているなど揶揄されたが建立までこぎつけている。戦前戦後の約200人の芝居関係者の名前が刻まれています。200人という数を見てもその選定には色々あった事が想像できる。とはいえ、純粋に沖縄芝居を愛する人たちにとっては大切な記念碑となっている。毎年4月8日を「芝居の日」とし、沖縄芝居先達奉慰顕彰祭が催されているそうだ。


謝名親方利山顕彰碑

旭ヶ丘公園の丘の上には久米三十六世の末裔である謝花親方 (ジャナウェーカタ) 利山鄭迵の顕彰碑が置かれている。琉球王統時代の人物で気に入っている一人。NHK大河ドラマの琉球の風で登場するのだが、江守徹が演じていた謝花親方の印象が強く残っている。謝名利山は1549年、久米村で久米三十六姓の子孫として生まれている。第七代国王尚寧の時代1606年に57才で三仕官に任命され、外交を全権委譲されていた。当時は豊臣秀吉が朝鮮出兵 (慶長の役) が起こり、薩摩の島津藩から琉朝鮮出兵のための資金や物資など様々な無理難題が要求されていた。これに利山は日本の要求を飲まない毅然とした外交姿勢をとっていた。遂には1609年に薩摩が琉球国に侵略し、利山は三千人の兵力で山に立てこもり薩摩に抵抗したが、武力で劣る琉球は薩摩に占領され降伏。尚寧王や重臣たちは捕らえられ、薩摩に連行され、尚寧王や他の三仕官は起請文に署名させられた。利山は最後まで署名を拒否し、1611年に薩摩により処刑されている。この生き様には感銘を受ける。


海鳴りの像

沖縄戦では学童疎開、本土の軍需工場に向かった若者、女子挺身隊、少年航空兵になるために乗船、召集令状で郷里から出征した兵士、満州開拓団から帰郷、南洋方面から軍命で強制送還されたり、様々な目的で沖縄県民が乗っていた船が米軍に撃沈されている。撃沈された船舶がどれぐらいあったのかは軍事機密事項とされていたため正確なものは不明だが、調査では遭難船舶は先に慰霊碑があった対馬丸を含め少なくとも26隻とされている。県民1927人の霊を祀っている。この海鳴りの像は戦時遭難船舶遺族会によって、1987年に建立されている。像の両脇には赤城丸 (406人)、嘉義丸 (368人)、開城丸 (10人)、湘南丸 (577人)、台中丸 (186人)など5隻の犠牲者 (1547人) の刻銘板が置かれ、その後の調査で現在では1900人以上の刻銘に増えている。ここには対馬丸の犠牲者は慰霊されていない。小桜の塔に以前から慰霊されているからだ。遭難船舶の慰霊碑が二つあるのには背景がある。対馬丸での本土疎開は軍部からの要請で行われたことで、戦後は日本政府から補償金が支給されている。マスコミなどで取り上げられ、多くの団体組織の協力で慰霊が建てられられた対馬丸とは異なり、それ以外の遭難船舶犠牲者には目が向けられず、任意の疎開という名目で補償金も出ていない。遺族は対馬丸で亡くなった人もその他の船に乗船し亡くなった人と何が異なるのかという葛藤の中、自分達も慰霊碑を建立する事にしたという。政府や船舶会社は機密事項という理由で調査では難航し何年もかかり、戦後40年近くになってようやく実現している。この背景を知った上でこの像を見ると、母親の亡くなった子供への想い、無念さが伝わる。


琉球箏曲先師顕彰碑

海鳴りの像の前の広場にもう一つ石碑がある。琉球箏曲先師顕彰碑とある。沖縄で琴が伝統音楽のひとつとは知らなかった。三線と同じく箏も中国から琉球を経由して大和の国へ伝わったと考えられているが、箏は琉球の地に根付かず、18世紀初め頃に今度は薩摩から琉球へ伝えられた言われている。当時は琉球王統の宮廷内において専門の役人によって演奏されていた。箏が一般の人々に広まり始めたのは明治以降になる。それまで琉球王統で古い時代の形の伝統的な箏曲が受け継がれている。本土では箏曲が独自に発展して既に失われてしまったいにしえの大和の国の曲も琉球箏曲の楽曲として残り、当時の形のまま演奏されている。本土の琴の様な煌びやかさはなく、低い音でしっとりとした感じだ。沖縄箏曲はソロ楽器としては演奏されず、三線を弾きながら歌う時の伴奏がメインだった。現在では箏を弾きながら歌う形もある。


殉職警察職員慰霊之碑

1879年 (明治12年) に沖縄県警が創設されて以来、犯罪捜査や暴力団抗争に巻き込まれるなどして亡くなった警察官140人の殉職警察官の名前が刻まれて慰霊碑が1954年に建立されている。この内102人は沖縄戦で米軍による空襲で殉職している。


新沖縄観光名所波の上碑

旭ヶ丘公園は小高い丘に作られており海外側の斜面に琉球新報社が1964年に設置した新沖縄観光名所波の上碑が置かれている。どの様な経緯で設置されたのかはわからなかったが、当時は海が眼下に広がって見えただろう。


和光地蔵尊

新沖縄観光名所波の上碑の近くに和光地蔵尊が建てられている。この地蔵尊の事は浦添グスクを訪問した際に、同じ地蔵尊が建てられていた。戦火で失われた児童の鎮魂の為、大阪四天王寺が信徒の浄財によって三和村 (現糸満市) 魂魄の塔入口、浦添城跡、那覇市のこの場所に和光地蔵三体を1952年に寄贈している。大阪四天王寺管長は戦死した島田知事と三高の同窓生で島田知事を含めた戦没者慰霊と伝道の目的で沖縄を訪れた事から発願したそうだ。


わかさ波の上ビーチ通り

波の上通りから波の上ビーチへはわかさ波の上ビーチ通りが通っている。以前は海岸にプールがあったのでプール通りと呼ばれていた。平成21年に若狭一丁目自治会50周年記念でこの通りが整備された際に、通りの入り口に月と魚をイメージしたモニュメントが置かれている。当時はこの道に観光客目当ての店がいくつもあった様だが、今は数軒だけで、かつての賑わいは無くなっている様だ。


漆器のまち 若狭町の碑とチンマーサー

若狭大通りには、かつて若狭住民の休憩場所だったチンマーサー跡 (写真上) があり、昔のチンマーサーを模して、デイゴの木の根元を丸く囲んだベンチが置かれている。この場所には若狭町がかつては漆器の町として繁栄した説明板が設置されている。同類の説明板がわかさ波の上ビーチ通りにもあった。(写真下)

琉球王朝時代には、貝刷奉行という役職があり、 若狭町では王朝の庇護のもとに漆器の製造が盛んに行われ、螺鈿や沈金、堆錦などの漆器がつくられていた。ここで作られた漆器は国王の江戸上りや中国からの冊封使への重要な献上品でもあった。廃藩置県後、王府の庇護を失った若狭の漆器業は大正から昭和のはじめにかけて衰えたが、県が富山県の工業試験場の職人を招聘招し指導に当たらせ、沖縄県工業指導所が開設されてからは漆器業界も活況を見せはじめ、沖縄漆工芸組合もでき、技術や資材を改良が進み、若狭の漆器業は再び盛業となった。わかさ波の上ビーチ通りの辺りには漆器工場が建設され、周辺にも漆器や木地づくりの挽き物細工が大勢住んでおり、1929年 (昭和4年) には、若狭町木地組合が組織されていた。その後、従来の手挽き、足挽きから動力に切替え、木地生産の能率化と設備の近代化を図り、生産量も大きく伸びた。



対馬丸記念館

わかさ波の上ビーチ通りを海岸に向けて進むと旭ヶ丘公園の中に対馬丸の悲劇についての資料を展示している対馬丸記念館が建てられている。これは2004年に日本政府の慰藉事業の一つとして建てられたもの。館内では当時の背景から始まり、学童疎開状況、対馬丸撃沈、その後の日本軍の対応、生存者の苦悩について展示されている。ビデオや生存者の戦争証言なども用意されており、時間をかけて見学した。


館内の展示と館が用意しているワークブックに従って対馬丸事件を見ていく。


1941年 (昭和16年) 12月8日、日本軍がハワイの真珠湾アメリカ軍港やマレー半島のイギリス軍を攻撃したことに始まった太平洋戦争では、日本は当初勝利していたが、アメリカ軍の反撃により、翌年の夏頃から次第に敗戦を重ねるようになった。当時は軍国主義が沖縄にも強制され、学校の教育も軍国主義に従ったものに変わっていった。

1944年 (昭和19年) 年7月、サイパン島日本軍が全滅し、戦場は沖縄になる危険が大きいと判断した政府は、7月19日に、沖縄県や奄美大島、徳之島のお年寄り、子ども、女性を県外へ船で疎開させる沖縄県学童集団疎開準備要項が出された。沖縄からは 8万人を日本本土へ、2万人を台湾へ移す計画だが、すでに沖縄・鹿児島間の海域にはアメリカ軍の潜水艦が出没し、日本の船が攻撃を受け沈没していた。学校では日本軍からの圧力もあり、親たちに子どもの疎開を強く求めたが、親たちは疎開船の撃沈の危険性を感じていたので、疎開はなかなか進まなかった。しかし一方で、沖縄にとどまれば、アメリカ軍の攻撃を受ける危険もあり、親は、子どもの疎開には悩み、苦しい決断となった。子どもたちも、九州へ行けると遠足気分だったが、家族と離れることには不安な気持ちだった。

対馬丸での集団疎開は1944年 (昭和19年) 8月21日に行われたのだが、その後、親たちが心配していた米軍による那覇空襲攻撃が10月10日に行われている。当時の学校の生徒数の推移グラフがあるのだが、学童疎開は学校によりばらつきはあるが進んでいた。

1944年 (昭和19年) 8月21日の疎開へ出発する日には、早朝から那覇港の船乗り場に集められた子どもたちは、大人たちの不安をよそに「ヤマトへ行ける!」と遠足気分ではしゃぎ、真夏の太陽の下で乗船を待ち、夕方になってようやく乗船となった。小船で沖まで行き対馬丸の甲板までつりはしごで上がっていった。子供にとっては不安定な釣りはしごは恐怖だったそうだ。甲板に上がると安心感もあって、またはしゃいでいた。午後6時35分、疎開者1661 名を乗せ、親たちの見送る中、対馬丸、暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛を受けて長崎へ向けて那覇を長崎へ向け出発した。対馬丸は建造から30年もたった古い貨物船で、速度が遅く他の船に追いつくのがやっとだった。元々は軍に対しては軍艦での疎開を依頼していたが、それは認められず対馬丸となった経緯があった。

疎開者が船蔵にすし詰め状態で、換気も悪く、蒸し風呂状態だった。

対馬丸は出航した次の日、1944年 (昭和19年) 8月22日、夜10時ごろ、鹿児島県トカラ列島の悪石島、北西約 10km地点で、アメリカ軍の潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、10分足らずで沈没した。ボーフィン号は、対馬丸が中国の上海から日本兵を乗せて出航し、那覇港に到着する直前から攻撃しようとねらっており、この日も早朝から攻撃の機会をまっていた。速度の遅い対馬丸は、他の4隻の船についていくのがやっとで、一番の攻撃目標にされた。攻撃は、子どもたちなど乗船者の多くが寝静まった夜中の出来事であり、わずか10分足らずで沈んだため、ほとんどの人が船中から逃げ出せず取り残され、海の底へと沈んでいった。また、船から脱出できた人も、接近中だった台風の高波にのまれて、その多くが犠牲となっている。他の4船は米軍からの攻撃を避けるため、救助活動はを行わず去っていった。

最終的に乗員、乗客合わせて1,484名が死亡している。生き残った児童はわずかに7% の59名だった。対馬丸が撃沈された事件については緘口令が布かれていた。そのころ沖縄では親たちが半狂乱に陥っていたという。沈没のうわさはあったが、疎開計画を推し進めていた旧日本軍は批判を恐れ、沈没の事実を隠し続けた。生存者たちは病院などに収容され、憲兵の監視の下、家族との連絡も遮られた。たが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなったが、公式に沈没の事実が公になったのは戦後しばらく経ってからだった。



若狭一丁目自治会事務所

若狭一丁目の自治会は本土復帰の1972年に発足している。事務所は何度か移転し、この場所は海蔵院から土地を借りている。手狭なので集会などは若狭公民館で行っている。


海蔵院 (ケージイン、鏡の寺 カガンヌティラ)、花の代

若狭1丁目自治会事務所の隣に海蔵院 (ケージイン) がある。戦後、この民家に移され管理されているのだが、戦前は済広寺山 (セーコージヤマ) と呼ばれた旭ヶ丘に続く丘の上にあり、「向う寺」 と呼ばれ、海蔵院路 (ケージョーインスージ) が通っていた。海からの目印になり、海に出る人がお参りに来ていた。戦時中は出征する人も拝んでいた。八月十五夜の日に、鏡に十五夜の月を映し、月と鏡を一体にする 「八十八夜」の行事が行われていた。済広寺山 (セーコージヤマ) からこの界隈一帯が寺の広大な敷地だった。境内には井戸が置かれ、近隣住民が使用していた。現在、若狭1丁目と若狭2丁目の自治会が行っている若狭町村拝みでも御願されている。民家の一室の祭壇は二つに仕切られており、向かって左側には「花の代」の祭壇がある。これは辻の開祖とされる三人の王女 真加登之前 (マカトガニヌメー)、思鶴之前 (ウミチルヌメー)、音樽之前 (ウトゥダルヌメー) の位牌 (トートーメー) が置かれ祀られている。旧歴1月20日に行われる辻の「じゅり馬行列」は、ここでの拝みから行事が始まる。右側には、もともとここにあった真言宗の私寺の海蔵院 (ケージョーイン) の祭壇となっている。海蔵院は鏡寺 (カガンヌウティラ) とも呼ばれている。日秀上人が彫った阿弥陀如来像を安置されていたそうだ。民家敷地の中には、石碑が立っている。琉球王府の記録では海蔵院を建てた3人の親雲上がこの碑文を建てたと記されている。1673年 (尚貞5年) と碑文にはあるので、この年に海蔵院が建てられたか、それ以前から存在していたことになる。石碑隣には井戸拝所がある。かつての花の代敷地にあった井戸を形式保存 (作り井戸) して祀っている。


なぐやけの碑

波の上ビーチの東側は若狭海浜公園が続き、その中の波の上ビーチ広場にはなぐやけの碑という慰霊碑が置かれている。「なぐやけ」とは沖縄の古い言葉で「穏やか」とか「和やか」という意味。この慰霊碑は終戦50周年で恒久平和のモニュメントとして1996年に建立され、那覇市出身の戦没者2万9千余名の名簿が奉納されている。1944年、那覇市が米軍の空襲で9割が消失した10・10空襲の日にあたる毎年10月10日に慰霊祭が執り行われていたが、ここ数年はコロナ禍で規模を縮小し今年も10月22日に行われた。


龍柱

旭ヶ丘公園の東側入り口に巨大な龍柱が大通りの両側に置かれている。この龍柱は那覇市と中国福州市が、1981年 (昭和56年) の友好都市締結から30周年を記念して2011年 (平成23年) に建立されたもの。中国福建省産の花崗岩で作られて、高さ15m、幅3mになる。ここは港からすぐそばのところにあり、港には大型クルーズ船が寄港し、乗客はまずこの龍柱が目に入る。この龍柱は多くの論議を巻き起こした。この龍の爪が4本であり、5本爪は宗国の歴代中国王朝しか使えなかった経緯から、今だに中国を敬うのかと批判。これはちょっと言いがかり的なものだが、もう一つは少し深刻な問題。総工費2億6千万円。原資は一括交付金と那覇市民の税金。工事は福建省の業者に一括発注で3億円を超えた。これには那覇市民は頭にきて、建設反対運動が起こり、工期がどんどん遅れた。那覇市は中断すると交付金返還義務が生じる為、続行を決めた。こちらの観光パンフレットにも載っていない穴場? 那覇市としては観光案内に載せられ無い事情がある様だ。建設当時はシンガポールのマーライオンの様に観光名所を目論んだが、やり方がお粗末で、結局観光の目玉にはならなかった。市民をなめた結果となった。


火ヌ神、シーサー、下ヌ若狭ヌ井戸

旭ヶ丘公園の南は住宅地なのだがその中に幾つものラブホテルが建っている。

その中に火ヌ神とシーサーが祀られた拝所がある。ここにあるシーサーは新しく造られたものだが、元々は石獅子だっただろう。那覇垣花にあるガジャンビラ (蚊坂、筆架山) の火山 (ヒーサン) からの厄いから村を守っていたそうだ。この拝所の中に形式保存された井戸拝所もある。下ヌ若狭ヌ井戸と呼ばれた若狭住民の生活用水井として使われた井戸がこの付近にあった。若狭の井戸はほとんどが塩分を含んでおり飲料水には適していなかった。飲料水は雨水を溜めて使用していた。この下ヌ若狭ヌ井戸と海蔵院の井戸のみが真水で住民にとっては貴重な水源だった。雨水を溜めて飲料水にしていたため、若狭ではたびたびマラリアなど伝染病が発生していた。このことで、若狭地区には比較的早く水道が敷設されている。昭和8年に敷設されており、他の沖縄地方が昭和30年だったことから見るとかなり早く整備されている。


雪ヌ崎 (ユーチヌサチ)

龍柱がある大通りを渡った東側に若狭海浜公園が続き、公園の一画に雪ヌ崎 (ユーチヌサチ)という拝所がある。名のごとく、かつては岬だった。上ヌ毛 (ウィーヌモー) という高さ20m程の岩礁台地の突端にあった。若狭海浜公園は戦後埋め立てでできた公園で戦前は海のだった。中国からの冊封使節の記録には雪崎山 (せっきざん) と記されている。岩礁下部が波の浸食により削られ斧を意味するユーチ (ウーン) の形に似ていることから、ユーチヌサチと呼ばれ、「雪」の字が充てられた。上の毛は古くから拝所になっており、崖下には大きな洞穴があった。沖縄戦後、1951年 (昭和26年) に米軍による区画整理事業や泊港南岸地域埋立 (現在の前島3丁目、若狭3丁目一帯) でこの上ヌ毛の岩礁は埋立工事に使用する為岩が削り取られてしまった。1959年 (昭和34年) には残っていた雪の崎の岩礁も、ダイナマイト爆破 (写真左下は爆破直前のもの) により取り除かれた。上の毛跡地は若狭小学校 (1957年開校) になり、周辺は住宅地や公園が整備された。この後、訪れた若狭公民館にこの雪の崎を描いた絵画 (右下) が展示されていた。


現在の雪の崎は、爆破により残った岩の一部に拝所が置かれ、地域住民に拝まれている。


若狭土帝君

雪ヌ崎の岩の前には若狭土帝君が置かれている。祠や香炉 (数年前の写真には香炉があったが撤去されていた) は置かれておらず、美女留 (ビジュル)、弥勒神 (ミルクシン) 、土帝君 (トゥーティークン) と書かれた石板が置かれていた。ここに移設されたものだろう。


不屈館

雪ヌ崎 (ユーチヌサチ) の南側住宅街の中に、壁に大きく「不屈」と彫り込まれた建物があった。不屈館という。瀬長亀次郎の活動を集めた展示を行っている。沖縄の人ならだれでも知っている人物。瀬長は1907年、豊見城村我那覇に生まれ、二中 (現那覇高等学校)、東京順天中学 (現 順天中学校・高等学校) を経て旧制第七高等学校 (現 鹿児島大学) に進んでいる。在学中に社会主義運動に加わったことで放校処分とり、2年間の兵役を務めた後、労働運動の組織化を進めるが、1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征している。戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報 (現 琉球新報) 社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営しながら、組織活動を指導し、沖縄人民党書記長となる。1950年、沖縄群島知事選挙に出馬し落選するが、次の1952年第1回立法院議員総選挙では最高得票数で当選を果し、同選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否し、米国民政府は公に好ましからざる人物として対応する。(写真左中で全員が起立宣誓の中最後列で座ったまま宣誓拒否している)

1954年10月、米国民政府は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕、懲役2年の刑の判決により再び投獄された。1956年4月の出獄後 (写真中下 瀬長の出所を祝う支援者)、同年12月に行われた那覇市長選に出馬し当選。瀬長が公然と反米を掲げる人民党の幹部であることを危惧した米国民政府は、管理する琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置を行い市政運営の危機に見舞われるが、多くの市民が、瀬長の市政を支えるために「自主的な」納税によって財源を確保しようとの瀬長側の呼びかけに応じ、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後の納税率は86%、最高で97%になった。これにより当座の市政運営ができるようになり瀬長は市政運営の危機を脱する。これに対し米国民政府と琉球民主党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。、1954年の投獄を理由に、1957年に瀬長を追放し被選挙権を剥奪した。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米国民政府との攻防は、当時沖縄県民の強い支持を受け、現在でも同県内では祖国復帰運動に身を捧げた市民活動家であるとの評価が高い。

1967年12月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年の沖縄初の国政参加選挙では、沖縄人民党公認で当選、1972年の第33回衆議院議員総選挙でも人民党公認で2期目の当選を果たす。1973年に人民党は日本共産党と合流、以後は日本共産党公認として1986年の第38回衆議院議員総選挙まで通算7期連続して衆議院議員に当選した。その間、日本共産党副委員長であった。1990年、政治活動を引退。2001年10月5日、肺炎で死去。享年94。

この瀬長亀次郎を描いた「米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」が2019年に公開されている。今でもインターネットで有料だが見ることができる。当時の佐藤栄作首相との痛烈な論戦は見ごたえがある。佐藤栄作の功績といわれる沖縄復帰に対しても、「基地存続のための返還」と鋭い指摘をしている。近年明らかになった佐藤栄作と米国政府との密約から見ると瀬長の指摘は当たっているだろう。「米軍のいない、基地のない台地となって初めて平和と言えるのだ」と力強く言い放った瀬長の言葉は沖縄の多くの人の気持ちを表している。人は瀬長を「不屈の人」という。瀬長は沖縄の人こそ「不屈の人々」と言っていた。この様な関係が現在の社会では見られないのは残念だ、

政府は世界地図を上から眺め、中国からの脅威に対しては地政学上沖縄が重要であるという。確かにそうだろう。沖縄の人の地図の見方は自分たちのすんでいる場所から見る。だから、政府と人民は意見が合わない。第二次世界大戦では軍部はやはり沖縄を地政学的にみて、本土決戦の防波堤、米軍は本土進攻への橋頭堡と見ていた。それが悲惨な沖縄戦となり当時の59万の県民のうち12万人が犠牲になっている。現在の日本政府と米軍にとっての沖縄は、第二次世界大戦の時と何ら変わっていない。中国が台湾に侵攻し、米軍が沖縄から参加すれば沖縄の基地は攻撃目標になり、同じことが繰り返される。多くの人は日本の為というが、面と向かって沖縄で苦しんだ人にそんなことが言えるだろうか? 


若狭公民館

若狭の住宅街の中心地に若狭公民館がある。図書館も兼ねており、二階は集会場になっており、若狭の1丁目から三丁目で使っている。

先に紹介したが、ここに雪の崎の絵がある。画家の野津唯市さんが寄贈したもの。「懐かしい未来 沖縄」画集を発表している。図書館で借りて眺めてみた。昔の沖縄はこのようなものだったのだ。形は変わっていくのだろうが、こんな未来があれば人は幸せになるのにという想いがあるのだろう。


夷堂、若狭町村学校所/役所跡

若狭の南側、松山公園の北の住宅街の中に、琉球王府時代の役場、学校跡がある。この場所では琉球と諸外国との交渉や条約締結が行われたという。創建年は不明だが、1830~40年頃にせっちされてと考えられている。村学校所は、士族子弟の初~中級の教育機関で、首里、那覇等の各村毎に建てられ、首里に14ヶ所、那覇に6ヶ所、泊に1ヶ所 (泊村学校所) の計21校となっていた。士族の子弟は7~8才で入学し、14~15才までの間、この学校所で勉強した。教科は三字経の読み書きから、二十四孝、小学、四書へと進んだ。廃藩時の同校には教師1人、生徒82名がいた。各村学校は役所も兼ねており、中取1人、筆者2人がいた。王府末期、異国船渡来に際しては、異国人に対し、泊村や若狭町村の学校所が、泊公館、那覇公館として応対窓口となった。特に那覇公館 (若狭町村学校所) はペリー等と王府高官との諸交渉が行われた現場で、琉米条約、琉仏条約、琉蘭条約が締結されている。この場所には夷堂の拝所が置かれている、戦後の区画整理で近くから移したものだそうだ。


夫婦瀬 (ミートゥージ) 公園

若狭三丁目に移動する。若狭三丁目は戦後、海の埋立でできた新しい街。その中に夫婦瀬公園がある。公園内には大小複数の大岩がいくつもある。岩の下の部分は波出浸食されてくびれている。この地が海岸だった名残だ。これら大岩は夫婦岩 (ミートゥージ) と呼ばれている。夫婦岩は、元々は海に浮かぶ4つの島だった。本土の夫婦岩は大小の二つの岩を夫婦に見立てているのだが、ここの夫婦岩はそうでない。この岩が夫婦岩と言われるようになった逸話がある。同じような話が沖縄各地に残っているそうだ。

昔、仲の悪い夫婦がいた。毎晩喧嘩ばかりして、夫は妻を顧みず、妻は夫に嫌気がさしていた。そのため、この夫婦を元に戻らせたいと願う人々が、ある夜二人を呼び出して、船に乗せてこの岩の上まで連れて行った。二人はいきなり何もない岩の上に連れて行かれた上に、波が激しく打ち寄せ、危険なことこの上ない状況に置かれてしまった。そこで岩の上でいがみあっていても埒があかないと感じた二人は、お互いに優しさを発揮して、朝になって迎えが来る頃には、すっかり仲よくなっていた。

明津浦 (アカチラ)

夫婦瀬 (ミートゥージ) 公園はかつては旧若狭町村の北東部の海岸砂汀地で、明津浦 (あかつうら)、アカツラと呼ばれ、更にアカチラとなった。この辺りの海岸付近はアカチラバルとよばれていた。東の那覇潟原 (塩田: 現潮渡橋一帯) から北の 雪の崎 (ユーチヌサチ) までは砂汀地が続き、歩いて渡れたという。この道をアカチラ道と称していた。 琉球王国時代 には、首里の士族が人目をはばかり、ここを歩いて辻の遊郭に通ったという。戦後の都市計画により、 1950年代に潟原を含む海岸一帯の埋立工事が行われ、 住宅地 に変わっている。


若狭市営住宅

夫婦瀬公園の海岸側は集合住宅になっている。住宅地ガ建設された当時の写真がある。左の写真の左に夫婦岩が写っている。

現在の集合住宅は建て替えられて、敷地の一部は若狭公園となって、以前より住環境は改善されているようだ。


重民 (じゅうみん) の拝所

夫婦瀬公園の奥に、重民町 (じゅうみんちょう) 住民が、戦後間もなく建立し崇拝してきた三拝所が経年により老朽化した事から、地域住民、垣花親和会及び近隣企業等から寄付金により、ここに合祀し拝所を改築している。戦前、この地域は重民町だった。重民町は現在の若狭3丁目、前島3丁目にまたがっていた。1951〜53年頃米軍援助で泊港を浚渫した際に埋め立てられた地域で、町名は当時の市長当間重民にちなみ付けられた。住民は戦後軍用地に接収された垣花町の出身者が多く住んでいた。拝所の側面に垣花親和会の寄付と書かれていたので、なぜ、かなり離れた地域の垣花?と疑問を持ったのだが、このような経緯があったのだ。

以前に建てられていた拝所の写真が残っていた。


弁天負久知姫神

公園の中にある夫婦岩のひとつを登ると、頂上には弁天負久知姫神の御嶽があった。これで20ある龍神の拝所の内、やっと13番目だ。

弁天負久知姫神 は、琉球神道の龍神である天風龍大御神と表臣幸乙女王の次女で、巳の干支の龍宮神にあたり、天水龍大御神と底臣幸乙女王の長男の来天皇久能知大神の妻とされている。


若狭めおと自治会 (若狭集会所)

若狭三丁目の中に自治会館があった。夫婦瀬公園の近くにあるからか、若狭めおと自治会ともいう。旧重民地域の公民館なのだろう。


若狭には多くの拝所や石碑、名勝があり、二日間に渡って見学をした。一つ一つを調べながら巡ったので、一日では無理だった。また、レポート編集にもかなり時間を使い、アップロードがおくれてしまった。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
  • 若狭1丁目自治会50周年記念誌 50年のあゆみ (2014 若狭1丁目自治会)