ジャン・コクトー監督『美女と野獣』
その美女の
何が美女なのか?
447時限目◎映画
堀間ロクなな
野獣「私が嫌いか? 醜いと思っているのだな」
美女「嘘はつけませんわ」
野獣「私の心は誠実だが、このとおり姿は野獣だ」
美女「あなたよりずっと醜い心を持った人間だっています」
野獣「私は醜いうえに知性もない」
美女「それがわかる知性をお持ちでしょう」
野獣「この城のすべてはあなたのもの。もうひとつだけ質問しよう」
美女「どのような?」
野獣「ベル、私の妻になってほしい」
フランス発祥のファンタジーを詩人ジャン・コクトーが監督となって映画化した『美女と野獣』(1946年)で、主役のふたりが最初の夜に食事をしながら交わす会話だ。
物語はこんなふうにはじまる。森深くの野獣(ジャン・マレー)が住む城で薔薇を摘んだことから殺されかけた父親を救うために、三人姉妹の末娘ベル(ジョゼット・デイ)が身代わりとなって城へ出かけていく――。ここで留意したいポイントは、ふだん姉たちにこき使われているベルにとって、この行動はたんに父親を愛するあまりの自己犠牲だけでなく、みじめな日常から脱してみずからの人生を転進させるチャンスも意味したことだ。だから、城に到着するなり、そこに用意されていた豪華なドレスを身にまとうと、やはり豪華ないでたちで現れた野獣にひるむことなく、上記のような受け答えが行われたわけだ。
さすが詩人が選りすぐったセリフと言うべきだろう。このわずかなやりとりによって、初めて出会ったふたりがまずおたがいの外見に関心を向け、ついで内面の洞察から性的な独占欲へと移ろっていく、そんな心理の機構がものの見事に掬い取られているように思う。野獣のプロポーズに対して、ベルはいったん拒絶の回答をしたものの、その後もずっと城にとどまって、最後には魔法が消え去って野獣が若々しい王子の外見を取り戻すと、このときを待っていたとばかり抱擁しあうのだから、実質的にはハナから野獣の意向を受け入れていたと見なして差し支えないのではないか。
かくして、この物語の重大なポイントが浮かびあがってくる。野獣の城主が、どうして金持ちの醜い男性でなければならず、そのもとへ嫁ぐのが、どうして貧しくて美しい女性でなければならないのか。もはや明らかだろう。このファンタジーの前提には、生物学上の種の違いを跳び越すほど男性と女性のセクシュアリティが優先されて、あまつさえ、男性=醜、女性=美といった美意識の基準までも組み込まれているのだ。ばかばかしい? まさか。世間で行われているたいていの結婚披露宴だってこうしたコンセプトに則っているではないか。そこで、たとえばつぎのようなタイトルの物語を考えてみたらどうだろう?
『醜女と野獣』
『老嬢と野獣』
『美男と野獣』
『性的マイノリティと野獣』……
いや、冗談ではないのだ。人間の外見にまつわる美醜の基準などすでになく、LGBTQをはじめ多様な性のあり方が認知されつつある現下の状況のもとでは、ここに並べたタイトルだって十分成り立つはずだ。その美女の何が美女なのか? そんな問いかけから再出発する物語のほうが、むしろずっとアクチュアルな問題提起を発信するに違いない。ジャン・コクトー監督の絢爛たる映像詩は、いまだ男性と女性のセクシュアリティが盤石の安定を誇り、女性たちは安心して美を謳歌できた時代の掉尾を飾ったもので、以後、美女と野獣はシンデレラやミッキー・マウスと同じくディズニーランドの住人となり果てたのである。