【京橋②】野寺町
町名:野寺町
読み方:やてらまち Yateramachi
区分:俗称
起立:江戸期
廃止:江戸期
冠称:なし
後身:武家地等
現町名:中央区八丁堀一~三丁目、日本橋茅場町一~三丁目
概要:『慶長・寛永江戸図』(武州豊嶋郡江戸庄図)に「やてら町」とある。八町堀寺町の古名。詳細は八町堀寺町を参照のこと。
1636(寛永13)年から始まった江戸城拡張工事に伴い、1635(寛永12)年には全ての寺院が他に移転したが、唯一残ったのは玉円寺のみ。その玉円寺、当初は現在地(中央区八丁堀一丁目8番3号)ではなく、京華スクエアの辺りにあったことが判った。正確に書けば、その少し北の、鮨まさや中洲餃子焼肉屋台のある中央区八丁堀三丁目14番6号、秋山三五郎商店の5号とその西隣の藤ビルディングのある4号東側、酒井ビルの15番である(旧町名では京橋区岡崎町二丁目13番地)。幕命である移転に叛いた玉円寺は墓を設置することを禁じられ、「寺あれども、墓なし」と言われて有名になった(八丁堀七不思議)。
しかし困ったのは京華スクエアの前に中央区教育委員会が立てた『八丁堀の与力・同心組屋敷跡』の説明板。そこに「所在地 中央区八丁堀一~二丁目 日本橋茅場町一~三丁目の一帯」とあるのだ。野寺町、その後の八町堀寺町の寺院は幕命によって移転させられ、与力・同心の屋敷となったという説明板であるはずなのだが、京華スクエアは中央区八丁堀三丁目に存在する…。これも八丁堀の七不思議なのか。
なのでこのサイトでは、当時の玉円寺があった現・八丁堀三丁目を野寺町、その後の八町堀寺町のうちとしないのはおかしな話であると判断し、三丁目も町域とした。
撮影場所:野寺町
※参考 現在の玉円寺
旧町名による所在地:京橋区岡崎町一丁目39・40番地