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第16回神戸大学芸術学研究会「タイム・マシンとしての写真--Photography as Machine-of-Time--」

2022.11.21 23:52

概要

日時:12月11日(日)13:00〜18:30

場所:神戸大学文学部B132教室【会場案内

登壇者:渡邊大樹(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

    瀬古知世(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

    江本紫織(京都芸術大学通信教育部専任講師)

    甲斐義明(新潟大学人文学部准教授)

コメンテータ:大橋完太郎(神戸大学文学部教授)

司会:西橋卓也(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

主催:神戸大学人文学研究科芸術学研究室

共催:科学研究費補助金(基盤研究(C))

「「動き」がデザインの評価に与える影響についての実証的研究」

お問い合わせ:arttheory.kobe(at)gmail.com(atを@に変えてください。)


趣旨

 カメラが標準搭載されたスマホを持ち歩き、撮影した写真に加工を施したり、InstagramやTwitterをはじめとする各種プラットフォームにアップロードしたりコメントしたり・・・このような現状を鑑みるに、わたしたちはかつてないほど写真に取り囲まれている。これまで図として存在していた写真は現在では地としてわたしたちの周りの風景を形作っている。言いかえれば、私たちの日常の風景には必ず写真が含まれている。つまりデジタル化が加速度的に進行しつつある現代において、写真をめぐる行為とそれに付随する事象は多様化または複雑化を極めている、そういって間違いないだろう。現代におけるこうした複雑さ極まる写真という媒体を考えるにあたり、その時間上の身分に注目することはひとつの切り口となりうるかもしれない。

 長時間にわたる露光によってしかその像を顕わにすることのなかった初期の時代から、ネット上にアップロードされ高速で流通・循環し、絶え間なくユーザによって閲覧され続け、写真が風景化した現代のデジタル環境にいたるまで、写真とそれに伴う行為をめぐる時間なるものは、常に劇的に変化を被ってきた。撮影、現像、流通といった実際上の時間にかぎらず、フォトグラムやスナップ写真や長時間露光による写真や自動的に撮影された写真など写真制作ないしそれに用いられる媒体の差異によっても生起する時間は異なってくるだろう。あるいは過去の痕跡としての写真が内包する時間、さらには、そうした写真が喚起する人間の情動の次元までをも視野に収め写真の時間性にアプローチする視座を探ること、それが本研究会の趣旨である。そこで本研究会では、写真とそれに伴う経験や行為や時間、そしてその関係性について新たな視座から研究をおこなっている江本紫織氏と、近著『ありのままのイメージ: スナップ美学と日本写真史』において「スナップ」という語を軸に写真史を再構築し、「スナップ写真」を新たに定義した甲斐義明氏をお呼びし、このように重層的な時間を含みもつ写真を「タイム・マシン」として枠付けつつ照射することで議論を深めたい。


プログラム

13:00- 開会の挨拶

13:10-13:50 発表①(渡邊大樹)

13:50-14:00質疑応答

14:10-14:50 発表②(瀬古知世)

14:50-15:00 質疑応答

休憩

15:30-16:10 発表③(江本紫織)

16:15-16:55 発表④(甲斐義明)

休憩

17:10- 共同討議(登壇者:渡邊、瀬古、江本、甲斐、コメンテータ:大橋完太郎、司会:西橋卓也)

18:30終了予定

(研究会終了後、懇親会の予定)


発表要旨

「フィリップ・デュボワにおける「行為」」

渡邊大樹(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

 本発表ではフランスの映像研究者であるフィリップ・デュボワ(1952-)の著書『写真的行為〔l’acte photographique〕』(1983年)において、「行為」という語がどのように使用されているかを分析し、その概念を考察する。デュボワは本書において、写真を固定されたイメージとしてではなく、写真それ自体を「イメージアクト〔image-acte〕 」として捉えることが、写真を議論する上で必要であると主張している。「行為」と写真、「行為」とイメージとの関係性から、デュボワが提示する「行為」という語がもつ独自性を明らかにする。そうすることで、写真というものを包括的に議論することができると発表者は主張する。


「『ドライブ・マイ・カー』における往還する行為」

瀬古知世(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

『ドライブ・マイ・カー』(2021)は 濱口竜介(1978-)が監督をつとめ、脚本は大江崇允(1981-)と共同で執筆した映画作品である。村上春樹(1949-) が著した『女のいない男たち』(2014)に収録された短篇を基にしている。しかし単なるアダプテーションではなく映画オリジナルの要素が加えられ、映画独自の解釈がなされていることがこの映画を「村上春樹作品」であると感じさせる要因となっていると発表者は考える。そこで本発表では、まず『ドライブ・マイ・カー』において原作となった短篇小説との共通点を概観する。さらに映画独自の要素の一つであり、村上の作品に頻繁に登場する「往還する」行為をキーワードとして取り上げる。そして村上春樹の作品のなかで「往還する」行為をすることは何を表しているのかを具体的な作品を取り上げて分析し、そうした「往還する」行為が映画のなかでどのように表現されているかを北海道への旅路などの具体的なシーンやイメージを通じて考えてみたい。


「写真経験における時間軸——接続と無効化によって形成される「現実」と「自己」」

江本 紫織(京都芸術大学通信教育部専任講師)

 写真は「今-ここ」を超えた時間・空間の経験を可能にする。たとえば、写真を見ることによって、過去の現実や空間的に離れた現在がありありと思い起こされることがある。また、撮影時には写真が見られる未来が意識されることもあるだろう。ただし、そこで意識されるのは実際の現実そのものであるとは限らない。これについて本発表では、写真を撮ること、見ることに複数の時間軸が関わることに注目し、このことが写真を通して意識される「現実」にどのように作用するのかを示す。また、セルフィを対象に、スマートフォンによって撮影され、ソーシャルメディアで共有される写真の時間性および形成される「自己」の性質についても検討する。新旧の写真における時間性とそれらが形づくるものを比較することで、現代の写真が可能にする経験の性質の一端を明らかにすることを試みたい。


「アルフレッド・スティーグリッツによる過去(作品)の再編集」

甲斐義明(新潟大学人文学部准教授)

 本発表ではアメリカの写真家、アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)がその晩年に自身の代表作を組み換えていった過程の分析を通して、芸術写真特有の時間性について考察する。1913年から1934年のあいだに、スティーグリッツは自身が運営するギャラリーで自作の展覧会を数回開いており、そのうちいくつかは回顧展であった。回顧展における展示作品のセレクションが、自身の写真家像を大きく左右することについて、スティーグリッツは自覚的であった。1934年の回顧展でおよそ30年ぶりに展示され、その後、彼の代表作のひとつとして扱われることになった写真に《ヴェネツィアの少年》(別名《ヴェネツィアの浮浪児》)(1894年)がある。みすぼらしい身なりの少年がカメラを強い眼差しで見つめる《ヴェネツィアの少年》は1920年代のモダニズム写真を連想させるだけではなく、孤独を恐れず、独立心に満ちた写真家の自己イメージもそこには投影されている。晩年のスティーグリッツによる、過去作品の新たな文脈づけは、写真の時間性を攪乱する。すなわち、それは撮影された30年以上経った「古い」写真であるにもかかわらず、スティーグリッツ作品としての《ヴェネツィアの少年》に「古さ」を示すものはほとんどない。むしろ、1920年代以降の成熟期のスティーグリッツ作品との類似性が強調されることで、《ヴェネツィアの少年》は特定の時間の制約から超越したイメージとして示されている。言い方を変えれば、スティーグリッツにとって、芸術写真とは常に「いま」に関するものであった。写真というメディウムの本性に抗うかのようにも見える、こうした自作の扱い方が、スティーグリッツが写真をモダン・アートの一分野として提示するうえでの戦略のひとつであった可能性について本発表では指摘したい。