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魂の再生の儀式

2022.11.22 13:21

Facebook清水 友邦さん投稿記事

毎年、宮中では11月23日新嘗祭(にいなめさい)前日の11月22日(旧暦11月の2度目の寅の日)に鎮魂祭が行われています。

新天皇は一度だけ大嘗祭(だいじょうさい・おほにへまつり)を行ないます。

天皇は神の依代となって先祖からの言霊を授かる鎮魂祭と大嘗祭という儀礼で霊統を受けついできました。

大嘗祭の霊力は1年ごとに衰えるので毎年、新嘗祭を執り行うことで霊力を復活させていました。

古代の人々は、身体から魂が遊離することが死だと考えていました。

命を復活させるのは魂を呼び戻すことなので、太陽の光が一番弱くなる冬至に、太陽の復活と豊作を祈って、魂の再生の儀式をおこなっていたのです。

生命力が弱くなる冬至に、天皇の蘇生を祈る祭儀が、宮中の鎮魂祭なのです。

鎮魂法は、古代の冬至祭と関係していることがわかります。

7世紀頃までは、大嘗祭と新嘗祭の区別がありませんでした。

その起源は、神武天皇の時代まで遡ります。

神武天皇は、九州から東征して、ニギハヤヒの一族に婿入りすることで、出雲と高千穂は合体し、今の奈良県の大倭で大王(おおきみ)の宣言をしました。

天皇の称号が使われるようになったのは推古天皇の頃の600年代です。

宮中における鎮魂祭と同様の祭儀が奈良県石上神宮(いそのかみじんぐう)で物部の鎮魂法として11月22日におこなわれています。

物部氏の総氏神・石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝わる鎮魂法は、「布留部(ふるべ)の神業」と呼ばれています。

「十種神宝祓詞」と「ひふみの祓詞」を奏上して、「ふるべゆらゆらとふるべ」と奉唱します。

そして祓詞といっしょに十種神宝( とくさのかんだから)を振り動かせば、死人さえ蘇るとされています。

『先代旧事本紀』によると、ニギハヤヒは十種の神宝を携えて天磐船に乗り、河内国河上哮峯(いかるがのみね)に天降り、さらに大和の鳥見(登美)の白庭山に遷ったとされています。

ニギハヤヒを祖する物部氏は十種神宝( とくさのかんだから)を奉献して、神武天皇即位の祭儀を執り行ったとあるところから物部氏の儀式が現在の天皇家の儀式の元となったと見られています。

物部の十種神宝は鏡が二種、剣が一種、玉が四種、ひれが三種から成りました。

『先代旧事本紀』では八握剣(やつかのつるぎ)ですが。『物部文書』では、この剣は「八握剣」ではなく「十握剣」になっています。

スサノオは十握剣でヤマタノオロチを退治しますが、オロチの尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けました。

この草薙剣が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で三種の神器として熱田神宮の御神体となっています。十握剣は、藤原氏の氏神である鹿島神宮の神宝として、国宝に指定されています。

弥生になると出雲でも朝鮮半島から伝わった銅鐸と剣が作られるようになりました。3世紀になるとその銅鐸や銅矛が一斉に破棄されています。

かわりに甕棺(かめかん)・石棺・木棺など埋葬用の棺に入れられて葬られた墳丘墓(ふんきゅうぼ)が形成されました。

北九州では紀元前3~2世紀ごろから墳丘墓(ふんきゅうぼ)に鉄刀や鉄剣が収められるようになったのです。銅鐸が破棄された頃に権力構造が変わったのでしょう。

カタナは人を攻撃するものですが、モロ刃のツルギは戦う意思のないことを表明するもので、和睦の使者はツルギを前に立てて進むのが古い習慣でした。ツルムは和合の意味になっています。

古代出雲から出土した青銅器の銅剣・銅矛は研磨もされておらず武器ではなく祭器でした。

古代の日本は縄文時代から女性原理が強かったのでツルギは呪術的な要素が強かったのです。

十種の神宝には、寿命を延ばす霊力がある生玉(いくたま)、打出の小槌のように欲しいものを授けてくれる足玉(たるたま)、死んだ人を蘇らせる死返玉(まかるかへしのたま)、

旅に出た人が無事に帰れるようにしてくれる道返玉(みちかえしのたま)の四種の玉があります。

そのほかに、災いを払い魔除けの力があるヒレ(比禮)が三種あります。

女性がヒレ(比禮)を振ると霊力が発揮されました。

スセリ姫は古事記でヒレ(比禮)を振ってオオナムチを助けています。

三種の神器は皇位継承の証しでしたが、本来はシャーマニズムと関係して十種あったのです。

物部氏は古代から呪術の祭儀を継承する家系でした。

はるか太古の昔はほぼ全員が神々と霊的交流をしていました。霊的存在と交流する人々を「シャーマン」と呼んでいます。縄文人は、神話的思考をしていました。そして母系の部族社会を築いていました。古代は女性が戸主で部族の長でした。

女性は、別な魂を呼び寄せて体内に宿すことができたので、生命を生み出す力がある女性が巫女となって神の代理人となっていました。

沖縄の久高島で12年に一度おこなわれていた神事イザイホーでは30歳を超えたすべての既婚女性は先祖の霊と交信する神女となっていました。

左脳優位になると自己の本質である「直霊(なおひ)」が自我意識に覆われるようになり、神の声は聞こえなくなりました。

鎮魂とは人間が生きながらにして神となることを意味しています。

禍罪(まがつみ)が直霊(なおひ)を覆っていたので鎮魂の儀式をして禊祓いをしなければ神に帰ることができなくなくなりました。

『古事記』に、仲哀天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(さにわ)になって神功皇后が帰神を行ったという記述が出てきます。

古代は巫女が神を降ろす役割をし、男性の審神者(さにわ)が巫女に降りている神が本物かどうか確かめる役割をしていました。

父権社会になると男性がスメラミコト(天皇)となって祭儀だけでなく政治も兼ねるようになり大王として軍事の指導者にもなっていったのです。

古代は女性が祭祀権を持っていました。

古墳時代の頃は男性と女性が入れかわり祭祀権をもち、室町時代に祭祀権は女性から男性に変わってしまい現在まで続いています。

女人禁制が出てきたのは一万年以上続いた縄文から見れば最近なのです。

これから女性性が表に出てくることで男性性に傾いたバランスが取れてくるでしょう。

大地のエネルギーが螺旋状に上昇する聖地でリラックスして、あるがままに身をまかせていると魂振りが起きて、思考が静かになる鎮魂に入ります。

古代の人々はそうして自我を超えて永遠の神の世界に入ったのです。

鎮魂祭の本来の目的はカミを呼び戻すこと、それは直霊(なおひ)になること、つまり本当の自分に帰ることでした。