偉人『正岡子規』
生徒さんの中に俳句にはまっている子がおり、突如クリスマスの俳句を作ってと言われ正岡子規の俳句を伝えてしまった。子供相手の毎日だと突如色々なお願いをされるものだが俳句をお願いされるのは初めてであり、お粗末な自作の句ではなく日本を代表する歌人の正岡子規の句を伝えることができ安堵した。今回はこのことをきっかけに正岡子規の人生を幼少期から考えてみようと思う。
子規は1867年9月17日松山藩士の父常尚の長男として誕生するが、5歳の頃父を亡くし母方の大原家の祖父母の援助を受け育つ。子供の頃は祖母に溺愛され幼い頃は大変気弱な子供でいじめられっ子であった。そのような様子に祖父の大原観山は、ところてんのような掴みどころのない弱々しい名前であるから弱いのだと理由をつけ、処之助という名前から升(のぼる)に改名させた。名は体を表すというがそのお陰か人の前で演説をするほどの積極性でリーダー的頭角を表した。
彼は結核のため長い闘病の末34歳という若さで亡くなるのだが、当時は死を意味する結核を患っているにも関わらず、常に彼の周りには人が集い彼との時間を楽しんだ。これは彼の人となりを表していると思うのだが、夏目漱石とも親交を結び、高浜虚子は正岡子規の残した道を守り、河東碧梧桐などのちの俳句会を背をう弟子も多くいた。
以下の彼のクリスマスの俳句からも見てとれるのだが、新聞記者として活躍していた頃の新聞社の社長の子供が、病床の彼にお見舞いの花を届けたり、仲間からクリスマスのプレゼントをもらい、その中には病床から世界を見据えた彼のために地球儀が送られたという。そして当時としては大変高価な外国製の板ガラスを高浜虚子が病床の彼の部屋に取り付け、横たわる彼が庭を見ることができるようにしたいう。いずれどこかで夏目漱石との友好についても記す機会があればと思うのだが、子規の周りには彼を慕う人が大勢いたということだ。
臘八の あとにかしまし くりすます 25歳
八人の 子どもむつまし クリスマス 29歳
クリスマスに 小さき会堂の あはれなる 歳
贈り物の 数を尽くして クリスマス 32歳
正岡子規は古歌の収集や分類、評価を徹底的に行う研究家であり、その基本的学びが写実性を重んじた情景を句の中に閉じ込めた俳人である。しかしその一方で野心があり一時期は政治家になることも夢見ていた。しかし21歳という若さで結核を発症しその夢は実現しなかったが、彼自身「こんなにも野心があるのに死ななければならないのか」と運命を受け入れつつも苦悩していた言葉を残している。しかし彼の強さというのは凡人の私の想像を遥かに超えていた。死を意味する病魔に犯されながら美味しいものを食べることに貪欲であり、最後の最後まで生きることを諦めなかった。晩年はモルヒネで痛みを抑えることなくしては罵詈雑言を吐き捨てて大の男が大声で泣いたということを曝け出してもいる。なんと強い人物であろう。また痛みを抑えたられた束の間を時間を草花を愛で、美味しいものを食し、多くの人との会話を楽しみ新しい息吹を吹き込んでくれる客人に対しては心の底からその時間を楽しんだという。
病魔に犯されながらしに直面している日常でありながらも常に新しいことを求めている正岡子規の生き様が神々しく感じる。なぜ彼はそんなにしなやかな強さを持っているのであろうか。実はその結論を私はまだ見出すことができないでいる。しかしわかることといえば、彼の病人であるまじき旺盛な食欲は生きるための最後の頼みだったのではないだろうか。そう考えると日々口にするものを厳選し丁寧に作り食し、家族の健康を何よりも重視しなければならないのだと学べたように思う。まもなく訪れるクリスマスやお正月を家族の健康を願いながら過ごすためにどう献立を考えようかと考えてほしいものだ。
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
枝豆や 三寸飛んで 口に入る
一匙の アイスクリームや 蘇る