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琉大事件を考える(仮称)

「奄美の奇跡」と「原爆展と琉大事件 米軍統治下の平和運動」

2018.03.27 12:59

【奄美大島】

奄美の奇跡…

私が、奄美でお会いしたのはMさん。

でね、安陵会(大島高校同窓会)の総会の席でMさんの隣に座っていたのが、和田さんだった(*^▽^*)

という流れで、私はMさんと和田さんと同時に会うことも出来た!

Mさんも、1953年の沖縄での事を初めて知り驚いていた❗


※和田さんは、私の伯父と同期・大島高校2回卒



8月6日広島でのシンポジウムの交流誌が、まもなく出来上がります。


私自身、伯父の人生をも辿るにあたり、まだまだ初めて知る事も多く、心の動揺も隠せず、自分の不甲斐なさも感じています。


「奄美の奇跡」の著者でもある永田浩三さんは分科会からの参加でしたので、高良鉄美先生の講演は聴けてないと思います。

交流誌が完成したら、是非ともご覧になって頂きたいと思います。



※私の伯父は、大島高校卒・2期生。

中村学校には入ってなかったそうです。

1951年、大島高校を卒業後すぐに、私の伯父は沖縄の米軍基地に就職しています。

1952年、琉球大学へ入学。そして…

琉大事件で処分された学生4人のうち、2人は奄美人です。

そのうちの1人は、中村学校に入っていたそうです。







――永田さんはテレビ番組では、今は亡きドキュメンタリストの片島紀男さんらと、NHKスペシャルなどで素晴らしい作品を作りつづけてきたわけですが、今度は舞台をペンの世界に代えて、このドキュメンタリー作品に取り組もうとしたきっかけは?

永田 わたしは、6年前までNHKに勤務していました。ディレクターやプロデューサーとして『クローズアップ現代』や『NHKスペシャル』など、たくさんの番組をつくりました。2009年からは東京・練馬区にある武蔵大学で教員をしていますが、教員になったころ、神戸で、NHK問題を考える会が開かれ、わたしが関わったETV2001番組改変事件のことをお話しました。そこに来ておられたのが、奄美大島で本土復帰運動に関わった井上邦子さんでした。『その時歴史が動いた』という番組で、復帰運動が取り上げられたが、あれは事実ではない、ほんとうの歴史を本にしてほしいとおっしゃったのです。わたしは、沖縄のことなら少しは調べたことがあるが、奄美についてはなにも知りません。いっしょに勉強させてくださいとお願いしました。その時以来、井上さんから膨大な資料が送られてきました。去年10月から、本気で奄美に通うようになり、今回の本にまとめることができました。



――最後の証言になるかもしれないご高齢の方々をはじめ、たくさんの方々からお話を聞いていますが、取材はどのような形で進められたんですか?

永田 復帰運動のリーダーである、中村安太郎・泉芳朗・村山家國の3人はすでに故人です。しかし、その教えを受けた、当時の10代・20代の若者たちはいまもお元気でした。奄美大島、鹿児島、大阪、神戸、首都圏にたくさん住んでおられます。大学の仕事の合間に、なんとか時間をつくって会いに行きました。みなさん、当時の記憶は、まるで昨日の出来事のように鮮明でした。話をされるときは、みな青年の顔に戻っていました。復帰運動に関する文献や写真は、先人の努力のおかげで、散逸することなく残っていました。わたし自身が生まれたのは、復帰の翌年の1954年ですが、膨大な資料のおかげで生々しい時代の雰囲気がよみがえってきました。資料とたくさんの方々の貴重な証言がなかったら、一歩も前に進めませんでした。


――その証言者を一人だけ上げることはできないでしょうが、印象に残る方々を何人かご紹介いただけますか?

永田 どのかたも素晴らしい話をしてくださいました。復帰運動の精神的支柱だった中村安太郎の大島中学時代の教え子である、「中村学校」の崎田実芳さんは、おからだを壊しておられましたが、何度も会っていただきました。運動の大きな盛り上がりをつくった署名活動や断食という作戦を考え、雑誌「新青年」を発行したすごいひとです。同じく中村学校の徳田豊己さんは、軍政府に追われて逃走し、本土に渡ります。その一部始終を語って下さいました。逃亡を助けてくれたひとたちの恩情を思い出すたびに、涙をこぼされました。保守的な風土の奄美にあって、タブーを恐れず突き進んだ当時の青年たち。その熱い体験聞き漏らすまいと、事前の準備を必死におこないましたが、付け焼刃でまだまだ不十分だったと反省しています。



――奄美大島の復帰運動は、この本を読んでくださいとしか言いようなないかもしれませんが、どういうものでしたか?

永田 沖縄の復帰運動に比べて有名ではありませんが、熱気やエネルギーにおいてひけをとらないどころか、沖縄基地闘争の原型が奄美の復帰運動です。沖縄の瀬長亀次郎は中村安太郎に学ぶところが大きかったのです。アメリカの軍政下にあって、奄美には日本国憲法はありませんでした。言論の自由。集会結社の自由はなかったのです。そんななか、若者たちは、さまざまな知恵を編み出して、デモを行い、「新青年」のような当時の日本全体をみても特筆すべき雑誌をみんなで盛り立てました。当時、本は貴重品。一冊の本を手分けして書き写し、コピーを作りました。またゴーリキーの小説などは軍政に有害だとして禁止図書となりました。そんななか、若者たちは言葉を欲し、隠れてむさぼるように読んだといいます。不自由だったのは確かですが、健気さをうらやましくも思いました。奄美の復帰運動は、弾圧をはね返した「無血革命」。これは、日本の民主主義のなかでも、特筆すべき成功例だと思います。ひとびとをつなげたのは、言葉でした。いまの安倍政権は、言葉への敬意を失う文化の破壊者ですが、当時の奄美の人たちはまさに言葉によって革命をもたらしたのだと思います。



――この運動が世界に与えた影響は多大なものがあったと聞きます。そのいくつかを教えてください?

永田 ナセルをリーダーにしたエジプトの独立運動は、奄美をモデルにしました。奄美はガンジーの無抵抗主義とハンガーストライキをまねました。歴史は、国境を越えて引き継がれていく。奄美の復帰運動は、その後、沖縄の基地闘争にも引き継がれ、辺野古の新基地闘争反対の運動にもつながっていきます。こうした運動が、いまの安全保障関連法案反対のうねりにもつながっていくと素晴らしいと思います。