焦がれる
東の空が白んできた。
嵐は一睡もできないまま、眠ることを諦めてため息を一つ。
隣で無邪気に自分に擦り寄って寝息を立てる友人に目をやる。
全く、こっちの気も知らないで。
昨夜のあのことが無ければこんなただのいつもの平和な光景に心を焦らすこともなかったのに、と嵐は思った。
キスをしたのは嵐からだった。
酔って寝入った友人に、どうしてもキスしたい衝動を抑え切れなくて。
意を決して頬にそっとキスをした時、寝ぼけた友人はふと目覚めて、焦る嵐のシャツを掴むと唇にキスをしてきた。
驚いて固まる嵐に、友人はその時はっきりとその名前を言ったのだ。
『拓也さん』
嵐の知らない名前。酔って嵐とそいつを間違えてキスしてきたことは明らかだった。
「…誰なんだよ。そいつ」
友人を起こさないように小さく憎々しくつぶやくと、嵐はため息をついて起き上がった。
カーテンを開けて窓を少し開け、外の空気を取り込む。
ずっとずっと我慢してきたのに、抑えられなくてキスなんかした自分が悪い。あんなことしなければよかったと、嵐は軽い二日酔いの頭で自責した。
考えても仕方ない。でもまさか、友人の口から出た言葉が男の名前だなんて、思ってもいなかったから。
自分にはまるで望みなんかないと思っていた嵐の心の中はざわついた。
知らなかったから諦めていられたのだ。
でも、そうだ、俺だってもしかしたら…
ううん、と友人が寝返りを打って軽く目を開けたのはその時だった。
嵐は気持ちがバレるかと思って心臓が飛び跳ねたが、冷静を装ってタバコに火をつけた。
「嵐、おはよー」
友人は気だるそうに銀髪をかき上げて布団に抱きついたりまだ起き上がりそうもなくゴロゴロしている。
朝日が、銀髪を照らしている。
「おはよ、悠斗」
嵐は煙を吐きながら頬杖をついて、微笑んだ。
悠斗はその顔を見てにっこりと笑う。
「ふふ。俺また嵐んちに来ちゃったんだね。ごめん。昨日ぜーんぜん覚えてない」
昨夜はバンド「バロッカ」のメンバーの悠斗と嵐と睦月で久しぶりに渋谷の「天」で飲んだのだ。
睦月は彼女恋しさでまっすぐ帰宅。悠斗はベロベロに酔っ払って、そんな日によくやるように嵐の家に泊めてもらっていた。
「まったく、お前寝ちゃったから、すげえ重かったんだぜ。背負って二階に上げるの。ついたと思えばまっすぐベッドで寝ちまうし。おかげで俺は今日もソファだよ。」
本当は夜の間中隣にいたけど、嵐は嘘をついた。
「ごめんごめん!こんどトンカツ奢るからさぁ。ふふ、でも嵐の部屋のベッドって寝心地よくて好きなんだよねぇ。このマットレスちょうど良くて最高。もう少し寝るわ〜」
そういうと悠斗はまた呑気に二度寝に入って行った。
一睡も出来なかったこっちの身にもなれ!と嵐は心の中で悪態をついたが、結局いつも悠斗のわがままも何もかも許してしまうのだった。
人懐っこくて付き合いも良くて、誰にでも好かれる魅力があるけど、本当は怖がりで気まぐれで、人に心を開くのが苦手なやつ。
嵐は長く一緒にいて悠斗のそんなところを見抜いていた。
そんな悠斗をそばで守ってやれたらと、いつの頃からか友情とも愛情とも分からない感情が芽生えた。
でも、気持ちを打ち明けて届くことなんてないと思っていたから、押し殺していたのに。嵐は一筋の希望を見たような気がした。
拓也、というのが誰なのか、これから探っていけばいいだろう。
今までの関係を壊したくない。でも、もしも万に一つでも自分にも可能性があるなら。
嵐は無邪気に爆睡する悠斗を見ながら思った。
お前にこんなに焦がれていること、お前は知らないんだな。
嵐はミネラルウォーターを飲み干した。
もしも、もしも。届くなら。
少しくらいそんな希望を持ってみてもいいだろう。誰にも渡したくないくらい、お前のことが好きなんだから。
嵐は思って笑った。
何はともあれ、今は誰よりも一番近くにいる悠斗の寝顔を見れることに、二日酔いが緩く残る頭でもささやかな幸福感を感じるのだった。