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ローマ人の物語Ⅴ ユリウス・カエサル ルビコン以後

2022.11.27 04:30

  ルビコン川を渡ったカエサル。アドリア海沿いを南下し、一路ローマを目指します。その途上、カエサルは彼を快く迎える沿岸都市を次々に制圧。ローマ半島を南下するカエサルに対しポンペイウスは、自軍を組織する充分な時間がなく、やむなく彼の元老議員支持者と共にローマを脱出。イタリア半島の南部都市、ブリンディシから、ギリシアへ向かいます。ポンペイウスは、かつて自らがローマ軍の総司令官であった時代に、アドレア海に出没する海賊軍退治の他、ギリシア方面で数々の武勇を打ち立てたこともあり、ギリシアは勝手知ったる土地でした。そこで彼は、一旦ギリシアへ退くと見せかけ、自軍を編成しカエサル軍を迎え撃つことにしたのです。一方のカエサルは反対派勢力が脱出した後のガラ空きのローマへ入城を果し、独裁官へ就任。自らを執政官とします。ローマ入城からわずか10日でカエサルは、ポンペイウス一派を追撃するためブリンディシから対岸のギリシアのオリクム港付近へ上陸します。


  遂に、カエサルとポンペイウスが対峙する時がやってきます。まず、ドゥラキウムの海岸線に沿って包囲網を築いて戦ったドゥラキウム攻防戦。この戦いでカエサルはポンペイウス軍に負けるのですが壊滅的な打撃には至らず、次にテッサリア地方のファルサルスの平原で両軍は再度、相まみえます。軍勢では、歩兵、騎兵共に圧倒的に優位だったポンペイウス軍。しかし、ベテラン兵の活躍などもあり結果は、カエサル軍の勝利に終わります。一方自身初の大敗北を喫したポンペイウスは、少数の味方と共にエジプトの首都アレクサンドリアに逃亡します。しかし、当時のエジプトは、共同統治者である姉と弟が対立し内乱状態にありました。(この姉が、史上名高いクレオパトラ7世です。)ポンペイウスはこのクレオパトラの弟(プトレマイオス13世)側に援助を求めます。始めは援助の申し出を快く受けたプトレマイオスですが、ポンペイウスがアレクサンドリア到着してみると事情は一変。ポンペイウスは、プトレマイオス王子側近が送った刺客によって殺されます。


  アレクサンドリア上陸後、カエサルはポンペイウスの死を知ります。そして、プトレマイオス王朝姉弟の政権争いの仲裁にのりだしますが、プトレマイオス13世側から攻撃を受けたカエサルはクレオパトラ側に加担。プトレマイオス13世とその宰相ポティノスを落命させ、クレオパトラと下の弟プトレマイオス14世との共同統治を実現させます。カエサルとクレオパトラの関係は次第に親密になっていき、やがて二人の間に男の子、カエサリオンが生まれます。しかし、ローマへ帰還しなければならないカエサルは約1年のエジプト滞在を終え前47年に帰国し独裁官に就き、凱旋式を挙行します。更に紀元前45年3月には、ヒスパニアへ逃れていたポンペイウスの遺児等が率いる反乱軍との戦いをムンダで勝利。カエサルはここでついにルビコン渡川後のローマ内戦を終結させます。


  元老院保守派を武力により押さえつけ、新法律の制定などで元老院派の弱体化を進めローマ支配を強めるカエサルは、前44年、自ら終身独裁官に就任します。この終身独裁官というのは、それまでの共和制ローマにおいては誰もなったことがない前例のない権力独占的地位でした。カエサルにとっては、これまでの共和制ローマに内在していた問題、つまり元老院派に集中していた権力を薄め、山積する問題の解決の短期化を図ることが、この終身独裁官就任の目的だったのですが、この統治権力を1人に集中させ、命令指示系統を簡素化し、意思決定の実現を短縮するということは、近隣国に領土拡大を進めるローマにおいては、正に必要な改革であったのです。実際、カエサル以後のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)から始まる「ローマ皇帝」とは、このカエサルが始めた終身独裁官という統治形態を元老院派も納得できるより普遍化した統治体制とも言えるのです。


   「ローマ人の物語Ⅲ 勝者の混迷」でも書きましたが、カルタゴとの戦い以降拡大した社会格差の問題は、根本には元老院保守派への権力や利権の集中にあったのですが、その是正に起ちあがろうとしたグラックス兄弟は、結局は保守派の逆鱗に触れ、彼らの改革は頓挫してしまったのですが、カエサルの目指す改革も、保守派にとっては共和制を崩壊させるものでしかなく、カエサルは共和制を崩壊させる反乱者であったのです。このため、共和制死守を大義とした反カエサル一派は、ついにカエサルの暗殺を決行します。


  紀元前44年3月15日、ポンペイウス劇場で行われる元老院の議会開会前、14人ほどの保守派の一派によりカエサルは取り囲まれ、短剣で突き刺されます。カエサルの体には23に及ぶ刺し傷があり、そのうちの2つ目の刺し傷が致命傷となりました。一方、カエサルを抹殺したことで、市民から「ローマの共和制の救世主」と歓迎されると考えた暗殺実行グループのメンバー。しかし、実は市民の反応は全く逆で、彼らの行動に対しローマ庶民は非難の声を挙げます。実行犯たちはこれ以後、カエサル側の人間や庶民からの攻撃をおそれ、心理的に徐々に追い詰められていき、結局は国外へ逃亡したり、国外へ逃亡するという憂き目にあうのです。


  このカエサルの死から14年後の前30年、カエサルが養子にしたオクタヴィアヌス(のちの初代皇帝アウグストゥス)がカエサルの終身独裁官という統治制度をより洗練させ、これまでの共和制からの統治変革を行い「帝政」を実現させます。このように政治体制の移行を首尾よく行ったローマは、アウグストゥス以降の皇帝たちによってその版図拡大をおこなって行くのです。


  では、ローマ共和制を終焉に導いたカエサルの功績とは何であったのでしょうか。。まず何より、共和制ローマと帝政ローマをつなぐ中興の祖(*)であったことが挙げられるでしょう。成長を続ける都市国家ローマにとって、元老院を中心とする政治体系は、この共和制ローマの終焉を迎える頃にはすでに機能不全に陥っていました。そのため、平民との軋轢が政治体制の全体の軋みとなっていたのですが、その共和制ローマの政治体制を変革させることで、領土拡大を継続させ、成長を続けるローマにとって、より適した政治・統治体制を確立したのです。


  また、カエサルは、自分のやり方に従わない者を決して咎めだてしませんでした。ガリア戦役終了後、ルビコン川を渡ったカエサルは、ローマの元老院派から謀反者として国家反逆者にされた時、元老院派か送ってきたローマ軍と闘い、これに勝利しますが、敗北した兵士でも自分に従う意志のない者は、決して刑罰や処刑することはせず、武器を取り上げ、その場から立ち去ることを許したのです。同様に、ローマ近隣で国境を脅かす蛮族への対処も例えば、敵として戦ったガリア部族もローマに従う恭順を示せば、決して処罰することなく、同盟者として快く迎え入れたのです。このような寛容の精神がカエサルにはありました。カエサルに続くローマ皇帝たちは、ゲルマン民族などの辺境の蛮族への対処にはこのカエサルのやり方を手本にして、ローマの同盟国拡張に成功したのです。


  さらに、前のブログでも書きましたが、「アレシアの戦い」に見られるように、敵と戦う戦術においても、独特の才能を発揮。祖国から離れた敵地において、敵側兵士数より少ない自軍兵士数でも、絶えず戦術・戦略を練り、常に勝利を呼び込む術を身に付けていました。また同時に、政治家としても将来の都市国家ローマを見据えた統治形態を考え、その実現のために終身独裁官に就任し、その実現に尽くしました。彼が目指したその統治形態は、その後何百年にも渡りローマ帝国で継承されていった、という歴史的観点から見ても、彼の統治判断には、実に的確なものがあったのです。カエサルは、後継者選びにも才能を発揮。養子として向かい入れたオクタヴィアヌスは、暗殺されたカエサルが成し遂げられなかった統治形態構築、という偉業をより確かなものにしローマ帝国の初代皇帝として約40年にも及ぶ統治を行ったのです。更には、ノーベル文学賞を受賞したイギリスのW.S.チャーチルのように文人としても活躍。「ガリア戦記」を始め優れた史料を後世に残しました。


(*)中興の祖 (ちゅうこうのそ):一般に「 名君 」と称される 君主 または統治者のうち、長期 王朝 、長期 政権 の中途、かつ危機的状況後に 政権を担当して危機からの回復を達成し、政権の安定化や維持に多大な功績があった者をいう 。