闇の先へ向かって
2018年3月25日
ルカによる福音書23章44-56節
絶望の日。
何のためにあるのか。
主が十字架にかかった時、周囲の者たちは言った。
「お前がメシアなら自分を救ってみろ」。
「救えるものなら、救ってみろ」。
ここには救いがないと彼らは言う。
救い主イエスは彼らの言葉に応えない。
「救い」との表現には様々な内容がある。
「救い」とは一体何なのか。
「自分を救ってみろ」。
彼らの期待する救いとは苦難からの解放。
その解放は日常への復帰。
自分たちが想定する「幸福」への回帰であろう。
想像できる「幸せ」
知っている「幸せ」。
知っているところに帰ることを「救い」と言っている。
知っている・過去。
「救い」は過去にあるのか。
主の十字架の傍らで同じく刑罰を受けている者が声をかける。
「御国においでになる時、私を思い出してください」。
主が答える。「今日、あなたは私と共にパラダイスにいる」。
十字架上での会話。「あとで」の約束をしている。
「あとで」を前提にしている。
「あとで」・未来。
救いとは何か。
人の知っているところに帰るのが「救い」と私たちは思う。
そこに帰れないことを絶望と言う。
しかし、十字架で語られた言葉には知っているところ、過去へ帰る、の意識はない。
「あとで」、 この先へ、未来へ。
「救い」は過去か未来か。
十字架上で主イエスは息を引き取った。
闇の日。
絶望の日。
絶望の中、主の遺体を引き取りに、アリマタヤのヨセフがやって来る。
新しい墓に主の亡骸を葬る。
福音書はその日は安息日の準備の日である記す。
ガリラヤからやってきた女性たちは、亡骸を処置するための香油を準備する。
「準備」の時。
主が十字架にかかった日。
絶望の日。
未来が閉ざされたと感じる時。
しかし、その日は準備の日だとルカは言う。
準備。
明日がある。
未来がある。
終わっていない。
絶望の日。
それは何のためにあるのか。
準備をするためにある。
この世界にはいつでも明日がある。