パートナーは鏡、とは
パートナーが自分の鏡になるっていうのは、相手がしてくる嫌なことを自分もしているとか、こっちが感謝したら向こうもしてくる、みたいなわかりやすい場合もあるけれど、もっとずっと奥深いことなんだなあと思います。お互いの感じたことを全て、反応からではなく真実ベースで語り合うってことを続けているとね。
そしてむしろその、反応しちゃうところ、地雷踏まれてしまう感じのところをみつけるための鏡になってくれているんですよね。自分の全体性が傷つき、ゆがんでいる部分は、鏡無しに自分一人では見えない。
相手が悪意なくナチュラルに振舞っているときに、こちらがなんらか反応的になるとしたら、それは自分の内側に見るべき何かがあるよというサイン。
そこでもし、地雷を爆発させると、相手の地雷を爆発させる確率も高いし、そのエネルギーは破壊的だからお互い萎縮していくし、そんなこんなでお互い、いえないこと、やれないことが増えていく。そうすると一見穏やかな関係になるけれど(生活的には便利)、それ以上深まらず、エネルギー循環も冷えていく。
地雷を爆発させるのではなく、「うわぁ、ここめっちゃ反応しちゃうよ」って反応についてメタコミュニケートして、そこにある自分の傷を癒していくなら、より全体性を回復した状態でお互いさらに深いところ、新しいところで出会い続けることができるわけです。
反応をぶつけないことと、そこにある傷を自分で(サポート借りてももちろんいい)癒す責任を果たすこと。
傷が癒えたらなんともなくなるような場合もあるし、傷が癒えても大切なニーズが残る場合もあるし、後者の場合はお互いのいたわりと思いやりを差し出し受け取る機会にもなる。
そんなこんなで、仕事をしていく同志ならあまり反応しない距離感と性質の人っていうのもとても機能的だけれど、プライベートなパートナーは、ここに書いたような関係を作って行こうね、と握り合える人が豊かだなあと今の僕は思う。
ま、修行の日々にはなるんですけどね。