巴里組曲⑥ 2018.03.30 03:40 2人して再び狭いエレベーターに乗り込み、フロント前へと降りる。持ってきたメモと地球の歩き方の地図を使って谷川がエクスペディアから予約したホテル「Bモンマルトル」の場所を確認する。さらに、ミヒャンのモバイルWi-Fiでグーグルナビを使い、さらに「place de clichy」駅はどっちかとフロントのおじさんに聞き、絶対に迷わないように動く。谷川の、無駄に迷いたくない、という性格が表れていた。反面、ミヒャンはどっちに行くのかも聞かずに谷川の後に続く。 時折ポツリと雨が額に当たるが、傘はいらない程度だった。 「日本より寒くないですね。ワタシ、とても寒いと思いました。」 雨のせいか湿気もあり、確かに思っていたほど寒くない。歩いていれば代謝のいい彼は手に汗をかくくらいの気温。 「そうだね。日本よりあったかいようだね。」 初めて歩くパリの街、しかも夜。人通りは少ない。時折、背後を警戒しながら歩く。ミヒャンはチャックの壊れたバッグをコートの下に忍ばせて歩き、彼は小さなスーツケースとリュック。リュックのジッパーにはナンバーチェーン、スーツケースは取っ手と腰のベルトを自転車の鍵で結んである。喧嘩でもして強奪されない限り絶対にスリに取られないようにしてきた。 のんびり5分も歩くと、大通りが視界の先に見えてくる。 地図には噴水広場があると調べてきたが、ドライバーに送ってもらった時に見た銅像がまさにそれであった。Place de clichyの地下鉄駅も確認できる。ドライバーは、元旦は祝日なので多くの店は閉まっている、と言っていたが、大通りに面した噴水広場のロータリー周辺は東京のように明るく、レストランやカフェは賑わい、多くの人が行き交っていた。 噴水広場のロータリーは東西南北へ数本の道路が伸び、またこの駅は3線ほどが交差するターミナル駅でもあるため、その分人通りも多いのかもしれない。 ホテル「Bモンマルトル」は、駅から噴水方向へ歩き、カフェと日本食レストラン「やまと」の間の通りを入った場所にあると調べてきた。冬の夜だというのに、カフェではテラス席にも大勢の人が座り、2人にはまったく聞き取れない言葉で談笑している。 フランス語が溢れるそんな街の中で「やまと」というひらがな看板を発見すると、日本が少し誇らしく感じる。その角を曲がり、30m。ホームページと同じ写真のホテルを発見した。 中に入ると、巨大なエッフェル塔の置物に目が行く。フロントには黒スーツ、黒シャツ、を着た黒人男性スタッフがにこやかな笑顔で立っていた。 「ボンジュール」 スタッフの声がスーツケースを持っている谷川の耳に届く。 チェックインのために彼が名前を名乗りスタッフが予約を調べると、黒人スタッフは「このお部屋はお一人で御予約なさっているようですが・・・」と、彼の後ろに隠れるように立つミヒャンを一瞥した。 「ああ、彼女は友人で、ここの近くのホテルに泊まっているだけです。」 「そうですか。問題ないです。ごゆっくり」 そのスタッフは日本の高級ホテルのような接客雰囲気を醸し出し、谷川が書類にサインをしたり、いくつかのやりとりの中でもその彼はゆっくり分かりやすい英語で話してくれた。ネットで見てホテル選びはずいぶん悩んだけれど、スタッフの良いホテルを選択できたようだ。 「チェックインできましたか?」 ミヒャンが不安気な表情で聞いてきた。先程の質問が何か分からなかったようだ。 「できたよ。君と2人で泊まるのかと思ったみたい。ちゃんと、1人です、と伝えたよ」 「そうですか。ワタシもこちらのホテルがいいです。とてもおしゃれです。」 ルームキーは「カード」ではなく、小さな球体にホテルのキーホルダーが付いたおしゃれな仕様になっていた。エレベーターで三階へ行き、一番奥の部屋のドアにそのキーを当てる。中に入ると、ミヒャンのホテルの部屋とは比べ物にならないほどオシャレなインテリアであり、それらを見たミヒャンは再び、「ワタシもここで寝たいです」と言い出しては、セミダブルのベッドにぴょんとダイブした。 「はあ、とてもヤワラカイです。」 「ほら、もう夕飯に行くよ。見て、7時だ。日本だったら夜中の3時だよ。」 「タニガワさん、ここはパリですよ。日本は忘れましょう。」 「それよりこの部屋、見て、ドライヤーあるよ。」 洗面所からそれを持ってミヒャンに見せると、ガバッと起き出し、 「わあ、これでワタシも髪が乾かせマス」 と新しいおもちゃを手にした子供のように目を輝かせた。 初日の夕飯にありつくために、出会ったばかりの2人はホテルから出て、地下鉄place de clichy周辺を恋人のようにはしゃいで歩いた。雑誌で見ていたようなパリの石畳の美しい街並みがあった。テラスのテーブルに所狭しと座るパリジャンやパリジェンヌたちがニューイヤー初日を彩っていた。 パリに来たんだ。その高揚感が、2人を笑顔にさせる。本来ならば、谷川は1人でここを歩いていたはずだった。パリ行きを決めてから様々なことを調べ、考え、計画し、ここに立っていることの達成感や充実感を1人静かに噛み締めているはずだった。一人で訪れる東南アジアの旅では味わうことのなかった、旅の感動を共有できる気持ちも悪くないと彼は考えていた。 大通りにはいくつものカフェ、レストランがあったが、入り口に置いてあるメニューを見て二人は困惑する。フランス語ばかりで何がなんだか分からない。ミヒャンが韓国語の「フランス語会話」みたいな本を準備良く持っていて、その食事のページとメニューを見比べながら、 「あ〜、これは牛肉のことですネ。ステーキかな。こっちはなんだろう。」 などなど解読を始めた。行動はノープランなミヒャンも食べ物にはしっかり女子力を発揮して食べ物のフランス語チェックをしてきたようだ。 来たばかりで、しかも夜ということもあり、あまり遠くまで歩くのも不用心という判断をし、人々が行き交うplace de clichy駅の地下入り口すぐ目の前にあるカフェレストランで食べることにした。 店員にフランス語で、「何人?」というようなことを聞かれ、「ドゥ(2人)」と伝えてみる。案内された壁側の席に座るとミヒャンが、再びフランス語会話本を取り出し、フランス語だけのメニューの解読にあたった。彼は、判別出来たフランス語の「ピザ マルゲリータ」で即決。レストラン内の客の顔を見渡すと、周囲のテーブルは全て欧米人。しかしよくよく見ると、フランス語が読めずに四苦八苦している客もいる。どうやらフランス人ばかりってこともなさそうだ。 ミヒャンは持ってきたフランス語会話本をよほど活用したいのか、メニューの解読をクイズのように楽しみ、さらにはパスタとワインの注文までカトコトのフランス語で済ませ、フフフと満足気な表情を浮かべてみせた。 ミヒャンは運ばれてきたパスタを口にして「日本の味と同じですネ。」とちょっと期待はずれな顔をしてみながらも「ワイン、おいしいデス」と言って、パリへ来て初めての食事を平らげた。 食事をしながらしばしば谷川は彼女の表情をじっと見た。観察と言ったほうがいいかもしれない。それは現実を確認する作業でもあった。異国へ来て、ドタバタと物事を進ませて夕食へとありついたけれど、パリへ到着し、出会ったミヒャンとはまだ3時間足らず。パリにやって来た実感もままならないのに、目の前に座っている女性の存在を肯定できずにいた。ふっと気を抜けばミヒャンの姿が消えてしまうのではないか、やはり自分はひとりでここにいるのではないかと思えるほど、谷川にとってそれは信じるに至らない希薄な現実であった。 つづく。