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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 225 (27/11/22) 那覇四町 (3) Higashi Area 東町

2022.11.28 12:56

那覇四町 東町 (ひがし、アガリ)



まだまだ、沖縄の11月は天候が不安定で、例年になく雨が多い。遠出よりは近場の集落巡りとする。先日、緊急閉園で見れなかった福州園のライトアップを見ることにして、それがスタートする前の時間は旧那覇のスポットを巡る。まず最初は東町から始める。



那覇四町 東町 (ひがし、アガリ)

旧藩時代は上之蔵もふくめて東村と呼ばれ、那覇港の唐船小堀をへだてた渡地村 (ワタンジ) は東村の分村だった。那覇四町 (東、西、泉崎、若狭) の中では経済の中心だった。昔は「ひがし」ではなく「アガリ」と呼んでいたが、いつしか「ひがし」と呼ばれる様になりその呼び方が定着している。東西両村の設立は、明確では無いのだが、秀吉の朝鮮侵攻の慶長の役 (1592-1598) 以後、第二尚氏王統第七代尚寧王 (1589-1620)の時代と考えられている。東村には琉球王統時代から戦前までは最大の市 (マチ) が置かれ、近郊の村から野菜、糸満町からは鮮魚が運ばれ、輸入商品と共に、ごったがえして賑やかさがあった。東村は親見世の前大通りを境して西村と相対しており、この二つは共に那覇四町の手元村で那覇の中心地としてで互いに対抗意識を持っていた。那覇大綱引きでは西と東の盟主的存在で、那覇の他の村、町がそれぞれに加勢として参加していた。

東村は1913年 (大正2年) に東町と通堂に分離され、東町一、二、三丁目と区割りされた。1914年 (大正3年) には上之蔵が西町一部も含み独立行政区となっている。1913年 (大正2年) には東町全体が火災で燃え、それ以降に石垣囲い屋敷を取払い、道幅をひろげ区画整理されて町は大きく変貌した。 戦後、昭和35年の土地区整理で一時期は西と合わせて元町と改名され、東町は元町一丁目となったが、住民の強い反対で東町に戻っている。当時は沖縄電気軌道の路面電車 (1914年~1933年) が首里を起点に大門前から久茂地川の川沿いを通り、旭橋付近で右折して市場大通りを通り親見世から仮屋 (薩摩藩在番奉行所) を経て通堂大道を通り、終点の通堂まで走っていた。この電気軌道による交通の便が向上し、多くの商店や銀行が立ち並び東町は那覇の商業の中心地として大いに栄えていた。また戦前には行政の中心地でもあり、那覇区役所が置かれていた。

戦前は東町全域に商店や市場、民家が立ち並んでいたが、沖縄戦では焼け野原となり、戦後は米軍に接収され、立ち入り禁止地区になっていた。土地が開放された後は、市場通り (現在のサンシャイン通り) の北側に民家が集中している。

東の人口データが1960年以降しか見つからなかったのだが、明治時代から戦前までは、この今以上の人口を抱えていたと思われる。グラフにはかつては東町の一部だった通堂町も追加した。通堂町は大正時代には既に独立していたのだが、戦後は東町よりも人口が多く、東町は1960年代はそれ程人口は多くなかったが、1970年代には人口は増加し、本土復帰以降は増減を繰り返し、ここ数年は横ばい状態となっている。


東町を巡って気づいた事は、御嶽と殿、拝所も皆無だった。これは那覇の他の地域とは異なっている。東町の始まりが16世紀末と考えられ、他の集落よりも比較的遅く、貿易港としての那覇港に近く、ここでの商売のために集まってきた人達で町として発展していったのだろう。自然発生型の街ではなく、各地からの移住者の集まりだったと推測する。血縁集団で村を運営していた伝統的集落ではなく、王府により管理されていた地域で、その理由から信仰による繋がりよりも商業の地としての性格が強かった事が、拝所が存在しない理由では無いだろうか? 御嶽や殿などの拝所が無かったのだが、琉球王統時代には多くの寺が存在していたのも他の集落と異なる。当時仏教は民衆の宗教よりも、王府の特権階級の宗教で、王府の影響が強い地域だった事が表れている。


東町訪問ログ


東町巡りを久米大門 (クミンダウフジョウ) 跡から始める。東町は沖縄戦で焼け野原となり、戦後は米軍により那覇中心部は接収整地されて、現在の東町の街並みは全く変わってしまっている。昔からの史跡は残っていない。昔の街並みがどの様なものであったかに興味が湧き、色々と資料を探してみたが、はっきりとその変遷がわかるものは見つからなかったので、複数の資料からわかる範囲で琉球王統時代と戦前の街並みを現在の地図にプロットしてみた。結果、現在の街並みが大きく変わっていることが分かる。これによって、以前の姿を想像しながら東町を巡ることにした。


大門 (ウフジョウ) 大通り

久米大門 (クミンダウフジョウ) から天使館へは大門 (ウフジョウ) 大通りが通っていた。この大通りはかつては川幅が広かった久茂地川沿いを通り、琉球王統時代にはメインストリートだった。

現在はこの大通りは消滅している。写真左のビル街の中を大門大通りが走っていたようだ。戦前に久茂地川が埋め立てられて、戦後道路幅が拡大され軍道1号となった現在の久茂地川沿いの国道58号線 (写真右) が大通りに変わっていた。


旧那覇役所跡

大門から国道58号線を渡り、久茂地川沿いに旧那覇役所跡の案内板があった。ここは久茂地にあたるのだが、この後、ここの役所跡の戦後に役所が置かれたところを巡るので訪れた。琉球王国時代、港町として発展した那覇は、那覇四町とも呼ばれ、東村、西村、若狭町村、泉崎村の4つの村からなり、各村に役場が置かれたが、那覇全体を統括する役所として親見世があった。1879年 (明治12年) の沖縄県設置により、旧那覇里主所 (この後、訪問) に親見世役所が設置され、那覇四町の他に、久米村、泊村の行政も併せて管轄した。翌年1880年 (明治13年) に親見世役所は那覇役所と改称された。那覇役所及び7ヵ村の役場は、「里主所前御余地」と呼ばれた。久茂地川沿いの材木等の荷物置き場 (敷場) があったこの場所に建てられた長屋に置かれ、西・東・泉崎・若狭町・久茂地・久米・泊村の順に、一室ずつ割り当てられた。1893年 (明治26年) 頃、那覇役所は、東村の旧天使館跡 (この後、訪問) に移転し、1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲に至るまで、同地にあった。那覇役所が移転した後の長屋は、沖縄で初の新聞の琉球新報の印刷工場として、1903年 (明治36年) から1937年 (昭和12年) まで使用された。終戦後、同地一帯は米軍により敷きならされ、軍道1号線 (現国道58号) として整備された。


丸山号跡

久米大門から戦前の大門大通りに入ると道沿いには百貨店だった丸山号が建っていた。現在は跡地に琉球サンロイヤルホテルが建っている。(写真上が現在のホテルで、丸山号当時はホテル前の道は存在せずホテルの裏側に大門大通りが走っていた。帰り道にこの道を通るとホテルはクリスマスイルミネーションで飾られていた。) 露天商人から雑貨卸問屋を営んでいた尾花仲次が昭和10年にビルを建て百貨店に拡大させた。当時は大門大通りと東町大通りの交差点に山形屋があり、沖縄では二番目の百科で、民間の建物では沖縄一だった。1944年 (昭和19年) の10月10日の空襲により半壊している。戦後、1949年 (昭和24年) に米軍政府沖縄民政府が知念村から移転してきて補修し事務所と使っていた。1951年(昭和26年) に12月琉球政府立法院、1954年 (昭和29年) 8月には琉球政府社会局が置かれていた。1966年 (昭和41年) 9月に取り壊され、駐車場敷地となり、その後、ホテルが建てられた。


仲毛芝居跡

国道58号線沿いの西武門 (ニシンジョウ) 病院が建っている場所には沖縄で最初の常設芝居小屋の仲毛芝居 (仲毛演芸場 ナカモーエンジバ) があった。1879年 (明治12年) の沖縄県設置により、首里王府の冠船踊 (組踊) 者は職を失い、その一部は、那覇の思案橋のたもとや久米孔子廟前の空地に、藁筵で囲っただけの小屋で踊りを見せ (カマジー芝居)、木戸賃を取って生活の糧にしていた。この仲毛芝居も当初は三間四方の板敷き舞台カマジー小屋だった。首里王府最後の冠船踊奉行を務めた小禄按司朝睦の子の朝亮がカマジー小屋や冠船踊出演者の現状を憂い、1891年 (明治24年) 頃、県の認可を取り、仲毛芝居小屋を瓦葺きの本建築に改め、仲毛演芸場を始め、玉城盛重、渡嘉敷守良、新垣松含という三大役者を生んだ演芸場だった。この演芸場がいつまで存在していたのかははっきりしないのだが明治時代後半には既に無くなっていたようだ。案内板にある琉球王統時代の地図ではここは久茂地川の中洲で仲毛だった。明治初期には既に埋め立てられていた事が分かる。


帝国館跡

仲毛芝居跡から東町内側へ少し入った所、那覇大市があった近くに、大正3年東町に開館した沖縄最初の映画館の帝国館があった。当時は大変なにぎわいをみせたが、大正12年の大火で消失している。


下天妃宮 (シムヌティンピ)、沖縄県電信電話発祥の地、那覇里主所 (ナハサトヌシジョ)、那覇郵便局

上天妃宮の南側、現在の東町には下天妃宮、那覇里主所があった。東町のこの辺りは昔は久米村の一部だった。下天妃宮は航海安全の守護神の天妃 (媽祖) を祀った廟で、上天妃宮より先の永楽年間 (1403年~1424年) の創建とされる。中国から渡来した閩人三十六姓の請来と考えられている。現在は那覇郵便局となっておりその前には沖縄県電信電話発祥の地の石碑が置かれていた。沖縄県では、電信が明治29年10月、電話が明治43年2月に開始されている。

下天妃宮の隣には那覇里主所が置かれていた。1638年に創設され、琉球王国の対外窓口として機能した機関で、那覇四町 (ユマチ) の行政および薩摩藩在番奉行所との接渉、唐船、櫂船、旅役などの事務を管掌した首里王府の役所になる。長官は那覇里主、下役には那覇大筆者、脇筆者がいた。那覇里主は、古琉球期、親見世の長たる御物城職とともに王国の対外窓口たる那覇の港、町の管理にあたっていた。近世期においても基本的役割は変わらなかったが、任職者は首里の上級士族に限定され、王府中枢役人の出世コースの一職となった。

1879年 (明治12年) の沖縄県設置により、この那覇里主所に親見世役所が設置され、那覇四町の他に、久米村、泊村の行政も併せて管轄していた。翌年1880年 (明治13年) に親見世役所は那覇役所と改称され、那覇役所と及他のびヵ村の役場は、里主所前御余地と呼ばれた。1896年 (明治29年) に、那覇役所は、旧天使館跡に移転している。この場所も郵便局になっており、琉球時代の風物を描いた郵便ポストがあった。

廃藩後の1880年 (明治13年) には、下天妃宮と那覇里主所跡地には沖縄小学師範学校 (後の沖縄県立師範学校) が設置され、廟内の神像はすべて上天妃宮に移された。1886年 (明治19年) に師範学校が首里に移って後、那覇郵便局となった。


天使館跡 (テンシカン、那覇区役所跡)

琉球王国時代、下天妃宮の西隣には中国が派遣した冊封使 (天使) のための施設宿舎の天使館跡 (テンシカン) が置かれ、一般に館屋 (クヮンヤ) と呼ばれていた。天使館の創建年代は不明だが16世紀前半には存在していた。琉球国への冊封使は三山時代から1866年まで都合23回来琉している。正副使以下400~500人が、夏から冬の約半年から8ヶ月程滞在し、崇元寺で故国王を弔い (諭祭)、首里城で新国王の冊封を行った。冊封使は国王の就任時のみ来琉するので、国王一代で一回で、殆どの期間は空いており、その冊封使の滞在が無い期間には、天使館の一部が砂糖座として用いられ、砂糖の収納、薩摩藩への送り出し、砂糖樽の製造が行われていた。1879年 (明治12年) の沖縄県設置後、1896年 (明治29年) には、北側には公会堂 (右上)、南側は那覇区役所が置かれた。1917年 (大正6年) には那覇区役所の新庁舎が建設されたが、1944年 (昭和19年) 10月10日の10・10空襲で破壊されている。

天使館跡地の北側は戦前は公会堂となり、現在は那覇医師会館、南側は戦前は那覇区役所、現在は駐車場となっている。

案内板に琉球王統時代の天使館の見取り絵が紹介されている。中国風の屋敷で、外柵がめぐらされ、外柵大門の両側には2本の旗竿には冊封の黄旗がかかげられている。その大門を入った所に八角の鼓楼が左右に2棟建てられている。柵の内には更に二つの門があり、それぞれに六楹の役房が東西に建てられていた。儀門は天沢門 (天使の恩沢の意) と呼ばれていた。門 を入っていくと大堂になり、その前庭で陪臣が礼を行っていた。天使館の側には、経理事務所が置かれ、七つの司が入っていた。館務司 (宿当) は庶務担当、承応所 (用聞) は施設管理および調度の担当、掌牲所 (平等) は羊、豚、鶏、家鴨の供給などの担当、供応所 (百次) は酒、米、野菜の供給などの担当、理宴司 (振舞) は王府が冊封使をもてなす7回の宴会である七宴の担当、書簡司 (墨当) は諸帖のやりとりなどの担当、評価司 (評価) は唐人持渡品の価格を評定し、それに応じて買い上げ支払いなどを担当し、それぞれに役人、要員が配置されていたそうだ。


親見世跡 (ウェーミシ、旧那覇警察署、山形屋)

天使館の南側には琉球王国時代には首里王府が海外貿易で得た貨物を販売する王府直轄の御店 (おみせ) だった親見世 (ウェーミシ) が置かれていた。1609年の島津侵攻の際に、降伏会議はここで開かれた。楼門造りの門前の通りは、港に続く東と西の両村を分ける道であり、門前の横には大市 (ウフマチ、市場) が広がる那覇の中心地だった。1638年に上位機関の那覇里主所が設置されると、もっぱら那覇四町 (東村、西村、泉崎村、若狭町村) の民政を担当していた。

その後、1876年 (明治9年) に熊本鎮台沖縄分遣隊営所となり、1884年 (明治17年) から1915年 (大正4年) までは那覇警察署、その後、1930年 (昭和5年) には沖縄最初の百貨店の山形屋が建てられていた。


見世の前停留所、並川金物店

戦前までは、親見世跡にあった山形屋の斜向かいには並川金物店 (写真左上) があり、路線電車の沖縄電気軌道の停留所の見世の前になっていた。店の上に停留所と書かれている。この場所は大門大通り、東町大通り、市場通りが交わる場所で東町の中心地で大いに賑わっていた。

大門前の大通りには何軒も商店が立ち並んでいた。現在の那覇の中心地は国際通りに移っているが、旧那覇ではここが中心地だった。資料にはここで商売をしていた幾つかの商店の写真があった。県内有数の書店の青山本店、メガネや雑貨を商う明視堂、家庭薬の生盛堂薬房、この地域では数少ないウチナンチュウー (沖縄出身者) が経営していた仲村呉服店。


東恩納寛惇生家跡

親見世跡のすぐ南側には伊波普猷とともに、沖縄学の確立に大きな役割を果たした東恩納寛惇の生家跡がある。東恩納寛惇は1881年にこの地で那覇士族慎氏 (シンウジ) の家に生まれた。東恩納は、沖縄尋常中学校を経て、熊本の第五高等学校 (現熊本大学)、ついで東京帝国大学史学科に進み、1908年卒業している。その後、東京に留まり、1919年東京府立第一中学校の教諭、1929年には東京府立高等学校の教授をしていた。1933年には東京府から派遣されて東南アジア・インドを歴訪、タイでは、日本人町の調査を行った。戦後は、1949年に拓殖大学の教授となった。1963年に東京で死去、享年83才。東恩納の沖縄研究は大学在学中から行って、琉球新報や各種雑誌等へ論文を発表している。主な著書に尚泰侯実録 (1924)、黎明期の海外交通史 (1941)、泰ビルマ印度 (1941)、南島風土記 (1950)、校注羽地仕置 (1952) がある。生家跡は、王国時代は薩摩藩在藩奉行所の脇仮屋 (ワチカイヤ) で、1900年から沖縄戦にかけては、並川金物店 (写真左下) となっていた。


大市 (ウフマチ)、那覇市跡(ナーファヌマチ)

琉球王統時代、15世紀以降と思われるが、親見世や天使館の前は大門前の通りは広場になっており、そこには市場 (マチ) が置かれていた。広場に筵を敷いて列んで座って、油、野菜、豆腐、芋、雑貨を売っていた。この市場は公設民営で東市場、また、大市 (ウフマチ) とも呼ばれた。沖縄県下最大の市場だった。ペリーが来琉した際に随行していたハイネが描いた大市 (ウフマチ) の様子が残っている。ちょうど大門前の通りを下天妃宮の前から大市を描いている。天妃宮の石垣が右側にあり、市場の奥には手前の建物が天使館でその奥に親見世が見える。当時の風景が垣間見る事ができる貴重な資料だ。ハイネ日本遠征記には、広さは2500坪程の広場に人でごった返し、あらゆる物が売られていた。ハイネ一行を見つけると市場は半狂乱になり、住民は一斉に逃げ出したとある。

明治時代の写真もあるが、大いに賑わっている。現在、跡地には駐車場、公園、民家が立ち並び、昔の面影は無くなっている。

当時はこの大道前は久茂地川沿いに走っていたが、その後埋め立てられて、1782年には東村の海岸沿いに新たに道路が造られ、「東下い (ひがしさがい)」 と称し、魚市場ができた。

1879年 (明治12年) の琉球処分後は、東村・西村には、特に大道前の通りに集中していたが、他府県からの移入品や米穀、金物、呉服などを専門に扱う本土からの寄留商人の店が軒を連ねたが、野菜などの日常品は、旧天使館前に野菜市、布市、雑貨を販売する据笥市があり、売り手は大きな傘を広げ、その下に品物を並べて販売していた。旧天使館の北側には、壺屋市・肉市があった。東町の名物は火事といわれ、1913年 (大正2年) の東町の大火による焼跡を整理後、1918年 (大正7年) に魚市があった東下いに、新たに敷地を確保し、布市を除く各市場を移設し、小間ごとに使用料を徴収した。これが那覇市跡 (ナーファヌマチ) で、魚・肉・米・乾物等を販売する区域と、野菜・芋・雑貨を販売する区域に分かれていた。案内板に区割り図とそれぞれの区域の写真が載っていた。右上から時計回りに、野菜市 (ヤーセーマチ)、魚市 (イユマチ)、肉市 (シシマチ)、据笥市 (イシゲーマチ、雑貨)、壷屋市 (チブヤマチ)、甘藷市 (ンムマチ)、布市 (ヌヌマチ)、米市 (クミマチ)

市場の前の道は市場通りと呼ばれていた。市場は、朝8時頃から準備と仕入れが行われ、一般の人々の買物は、午後4時頃が一番賑わったといい、夕方には、松明が焚かれ、午後8時頃に店仕舞いとなった。生鮮品以外は、売り台として使った箱に収め、市場近くの屋敷にお金を払って預けた。売れ残った生鮮品は、持ち帰り水炊きして、近所に安くで売られたという。また、肉市を除き、売り手も買い手もほとんどが女性で、男性が市場に出入りするのを嫌ったという。

またこの那覇市場の南側には糸満部落があった。那覇市場は魚の販売には魅力的だった事で部落ができたのだろう。当時は漁業はそのほとんどが糸満漁師によって営まれて、沖縄各地に糸満漁師の出先部落があった。今まで巡った所では、港川、安謝港などには漁を行う漁師の宿泊所が置かれてていた。この那覇港の糸満部落はその中でも最も大きなものだった。昭和初期の地図では、多分この辺りにあったと思われる。

1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲や、その後の地上戦により市場は開かれなくなった。これが那覇市 (ナーファヌマチ) の終焉となった。終戦後、市場があった東町や那覇の中心地は、米軍により立入禁止区域となっていた。1945年 (昭和20年) 11月10日、那覇復興は壺屋から始まり、日用雑器の生産を始めた。これ以降、壺屋、牧志一帯を中心に戦後那覇の復興が展開する。1947年 (昭和22年)、開南から牧志に至る坂道に、米軍の横流し物資を中心としたヤミ市が発生し、那覇市はこれを取り締るため、市役所庁舎があったガーブ川沿いに公設市場 (牧志公設市場) を開設した。


薬師堂跡

那覇市 (ナーファヌマチ) の南側には琉球王統時代、尚泰久王代に薬師堂があったそうだ。薬師堂はその昔、漁師が海中から引き揚げられた石像の薬師如来を祀り、薬師堂を本尊として渡地 (ワタンジ) 先の海中の小島に東光寺が建立された。1672 年に那覇の若狭に移し、1682年には、泊の頂峰寺に移ったと伝えられている。別の伝承では、天順年間 (1457-1464年) に、那覇の東南の海中に夜照り輝く12の霊光があった。先王である尚泰久が城の中からこの光を見て、奇異に思い占いをさせると、薬師如来の霊光だったという。この薬師堂は早い時期に移設されたとなっているのだが、昭和初期の地図では、この薬師堂が記載されていた。東光寺は移ったのだが、薬師堂の祠だけは残っていたのだろうか? 今は跡形も無いのだが、資料の地図だとこの辺りの様に思える。この場所は当時は海の中だった。

この薬師堂の伝承を題材にした沖縄五大歌劇の一つの「薬師堂」が作られている。白川白露という若者が旧暦3月3日の浜下り (ハマウリ) の際、友とともに薬師堂の浜に出かけて、美しい娘の鶴 (チルー) を見染める。その後、毎夜のように彼女の屋敷に忍んで行き、逢っていたが、親に見つかり鶴は勘当されてしまい乳母とともに身を隠す。白露は鶴の居所を訪ね、乳母に面会を懇願するが鶴は既に他界したと聞かされて自殺しようとするが鶴の遺書を渡されて、そこには立派に学問を修めて欲しいと書いており、その後遺言通り、立派に学問を修め科挙に合格を果たす。

鶴の霊前にそのことを報告しようとやってくると、既に他界していたはずの鶴は死んでは居なかった。全部乳母が考えた事だった。やがて親の許しを受け二人は目出度く結ばれる

という物語。



東町巡りは終わったが、東町は以前はもっと広い地域だった。この後、かつては東町の一部だった通堂に移動する。訪問レポートは別立てとする。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)