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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 225 (27/11/22) 那覇四町 (4) Tudo Area 通堂町

2022.11.29 12:51

那覇四町 通堂町 (つうどう、トンドウ)



那覇四町 通堂町 (つうどう、トンドウ)

東町と西町の南側に通堂町がある。昔は通堂と渡地 (ワタンジ) の小島を埋め立てた地域で、明治時代迄は東町に属し、那覇港桟橋一帯の港町になる。更に奥武山の島も通堂町三丁目だった。昔はこの一帯を通堂崎と呼ばれていた。那覇港の北岸の三重城の東側の突堤に冊封使歓迎用として建てられた迎恩亭 (コウオンティ) という小さな堂の小樓があり、人々は「トンドウ」と呼んでいた。この「トンドウ」が通堂の名の由来となった。迎恩亭 (通堂) の創建時期は定かではないが、当時の文献などから、尚巴志時代 (1430年頃) ではないかとも言われている。那覇港における。通堂は沖縄の玄関であり、那覇の顔で、那覇港の代名詞でもあった。外地からの文化はこの通堂を通して琉球に入って来ていた。

通堂町は大正2年に、東村から離れ独立行政区となっている。当時は各種商社が建ちならび、旅館や商店も多くあった。大正の末期になって首里からの沖縄電気軌道の終点が通堂に延びてきて、首里からの船の送り迎えは非常に便利になった。戦前の通堂町は那覇港を抱え、町に砂糖依託倉庫や船会社があった。通堂には通堂日傭 (とんどうびょう) と呼ばれた那覇港の荷役作業員が多く働いており、出入船の時は祭りの様に賑わったが、浅橋に船舶が一隻もない時はひっそりとしていたという。戦後、那覇港は北側は商業港、対岸の北側は米軍軍港として開発が進んだ。

通堂町の人口を調べると、見つかったデータでは1960年から1972年までは約60世帯、300人の人が住んでいたが、1973年には半減、1974年にはわずか5世帯30人迄激減し、それ以降はデータでは住民はいなくなっている。これがどのような背景なのかは書かれていなかった。1972年は本土復帰の年に当たるのが、何か関係しているように思える。1972年以前は米軍基地周辺には、そこでの仕事を求めて多くの人が住んでいたが、本土復帰以降その基地での仕事は激減し、沖縄各地で基地周辺の人口は激減している。那覇港の対岸は米軍の軍港が存在し、戦後はこの周辺の住民は基地建設やそれ以降の関連業務を仕事としていた。この通堂町も、同じような状況で、仕事が激減し、他の地域に仕事を求めて去っていった住民が多くいたのではないだろうか?とはいえ、現在ではこの地域の人口がゼロになっていることはそれだけの理由ではないと思える。米軍統治から解放されて沖縄県として都市計画が自由に進められることになり通堂は那覇港関連産業地域として開発対象になり住民に対して移住を沖縄県として求めたのではないかとも思える。これはあくまでも個人的推測なので、機会があればもう少し深く調べてみたい。

通堂町を見て回ると、確かに民家はほとんどない。通堂町はほとんどが那覇港埠頭で東町、西との境には沖縄製粉工場、太平洋セメントや金城キク商会のセメント関連工場、琉球海運が建っている。


通堂町訪問ログ




思案橋

先に訪れた東町の親見世から那覇港に向かって、見世ヌ前大道が通っている。琉球王統時代には、この道沿いには薩摩藩在番奉行所や昆布座が置かれていた。この道の海岸側には渡地の小島へ渡る思案橋が架かっていた。渡地の小島の中には渡地遊廓があり、遊郭へ向かうかを思案したため名付けられた石橋だった。屏風絵をみると陸地 (通堂) から渡地村へは橋が三つ架かっている。中央の橋は1690年頃に造営されている。

明治初年には渡地小島は埋め立てられて、ここが島だったとは想像できない。この辺りに思案橋が架けられていた。


渡地村 (ワタンジ)

思案橋を渡った島が渡地村 (ワタンジ) だった。現在は那覇港埠頭の一部になっている。屏風絵でも描かれているように、渡地村は通堂から橋でつながる小島だった。

幕末に来琉した西欧人が那覇港を描がいている。

明治以降は埋め立てが進められ大正後期の地図では完全に埋め立てられている。

渡地村だった小島は現在では那覇港埠頭となっている。

2006年には那覇港埠頭の一部で発掘調査が行われている。渡地遊郭があったあたりを発掘調査を行なったが遊廓遺構は確認されなかったが、 スラ所 (造船所) を思わせる鍛冶関連遺構群と、近代以前の渡地村跡の北岸にあたる護岸遺構などが確認されている。中国産、タイ産、ベ トナム産、本土産等の陶磁器が出土している。

思案橋を渡った渡地村の右側には尚貞王の時代の1672年 (寛文12年) に首里王府によって公的遊郭が置かれていた。那覇には、辻、渡地(ワタンジ)、仲島の3つの遊郭があった。この三つの遊郭はランク付けがあったらしく、辻は上等、次いで仲島、渡地の順で、この港にもっとも近い渡地遊郭には、もっぱら船乗りと島尻のニーセー (青年) が利用していたそうだ。渡地遊廓は、1908年 (明治41年) に他の公的遊廓だった泉崎の仲島遊廓とともに辻遊廓にまとめられて消滅している。渡地村から対岸の垣花へ渡し船が出ていたので渡地と呼ばれた。明治期に渡地から垣花まで明治橋が架けられ、那覇から小禄、豊見城への移動が便利になっている。

遊廓跡が那覇港埠頭のどの辺りだったかははっきりとはわからないのだが、琉球王統時代の屏風図、明治、大正、戦前の地図を現在の地図に重ねて行くと、大体この辺りだったと思われる。


宮古蔵(ミャークグラ)

渡地の中央部には宮古・八重山からの貢租等を収納・管理する役所兼倉庫があった。明治以降、跡地には那覇税務署が置かれていた。


硫黄城 (ユーワーグスク)、荒神堂、中之堂

渡地の東端の崖上には硫黄城 (ユーワーグスク) が築かれていた。中国への主要な進貢品である硫黄を貯蔵していたのでこの様に呼ばれていた。倭寇の来襲に備えて兵器・硫黄を当該グスクに貯蔵し、兵士が常駐し防御に備えたとあることから、直接的な防御施設ではなく、有事の際に人や物を供給する施設であったともいわれる。14~15世紀の創建と推測されるが、18世紀初めにはすでに機能していなかった。屏風絵はその頃を描いたもの。御物城 (オモノグスク) とともに、屋良座杜城、三重城築城以前の港の防塁とする説もある。グスクの側に描かれている家屋の中は荒神堂、中之堂があった。

硫黄城は明治以降は切り崩されて農工倉庫となっていたそうだが、戦後の埋め立てなどによりその痕跡は全く残しておらず、発掘調査でも徹底的に破壊されていることが分かり、その詳しい位置まで確認できていない。資料によっても、推測されるそ所在地はまちまちだった。発掘調査報告書から見ると、現在の沖縄製粉工場のあたりが硫黄城と思われる。


迎恩亭 (コウオンティ、通堂 トンドウ) 

那覇港の北岸の三重城の東側の突堤に迎恩亭 (コウオンティ) という小さな堂の小樓があり、人々は「トンドウ」と呼んでいた。この「トンドウ」が通堂の名の由来となった。迎恩亭 (通堂) の創建時期は定かではないが、当時の文献などから、尚巴志時代 (1430年頃) ではないかとも言われている。那覇港における冊封使歓迎として建てられ、海外からの賓客を迎える琉球の玄関口だった。冊封使が那覇上陸時にこの迎恩亭で休憩し、ここから宿泊施設である天使館に向かった。当時を想像し、冊封使が帰国する際の進貢船の出航を見送っている様子を描いた絵画があり、第二尚氏十九代の国王尚泰と長男 尚典、次男 尚寅、長女 真鶴金、王夫人、平良按司 摂政 伊江朝直、侍女が迎恩亭で見送っている。

現在の那覇港ターミナルのあたりがかつての迎恩亭の場所になる。


唐船小堀 (グムイ) 跡

迎恩亭と渡地の島の間の海は唐船小堀 (グムイ) と呼ばれ、進貢船や貿易船が停泊する船泊となっていた。現在は埋め立てられて、当時の面影は残っていない。


三重城 (ミーグスク) 跡

通堂崎の西側には迎恩亭から三重城迄に長堤が伸びていた。この長堤には迎恩亭の方から進むと、小橋、大橋がかかり、沖の寺 臨海寺になる。さらに進むと仲の橋、仲三重城、ツキ橋の橋が架かり三重城に通じていた。三重城は外敵防を目的にした港口の北砲台で、南の方には湧田村から伸びる長堤の端に同目的の南砲台が据えられた屋良座森城 (ヤラザムイグスク) があった。 琉球王統時代には、船はこの北と南の両砲台の間から、岩礁をぬって出入りしていたといわれる。三重城は西町にあるのだが、この通堂町から伸びる長堤の先端にあったのでこのレポートに含めている。

三重城 (ミーグスク) は、王農大比屋城 (オーヌオヒヤグスク) とも呼ばれていた。尚清王の夫人の父親で、この地域一帯を領地としていた楚辺村の豪族の王農大親 (オーヌウフヤ) による築城とされている。当初は、屋良座森城(ヤラザモリグスク)とともに、13世紀から16世紀に朝鮮半島や中国大陸沿岸で活動していた倭寇からの防衛の辺防堡塁としての砦だった。三重城は新城とも記されていた事から、1551年から22年にわたって築造された屋良座森城のすぐ後に造られたのではないかと推測されている。尚元王代に和寇が襲来したがこの地で撃退したと記されている。1694年の台風で三重城への長堤の板橋が流失し2年がかりで石造橋に改築している。その後1713年 にもこの石橋の大修理を行なっている。1717~1718年には那覇港の改修工事が行われ、蔡温による撰文の記念碑の新濬那覇江碑文が渡地から恩迎亭への道沿いに建てられていた。那覇港の浚渫や新しい橋の架設などについて記されている。沖縄戦で破損し右下部分が欠けてしまったが、現在は博物館で保管されている。ました。首里那覇港図屏風はその碑文が描かれているので那覇港改修完成以降のものと思われる。

1832年頃に「球陽八景」を下絵として葛飾北斎は「琉球八景」の一枚として「臨海湖声」を描いている。

明治以降戦前迄は燈台が設けられていたが、戦後は那覇港出入船舶の監視所として使われていた。

幕末1816年に来琉下英国艦隊の随行員のバジルホールが、那覇港から出港する人達を三重城から見送った様子を描いている。

長堤は明治期から大正期にかけての埋め立てで消滅してしまった。三重城は当時とは形が変わってしまったのだが、拝所として残っている。

三重城跡へ登る階段の下には水神、南側の海岸沿いには五臓神が祀られている。

階段を上がると昭和10年に沖縄糖商同業組合の奉納で建てられた鳥居が残っており、敷地内には恵比須大明神、混比羅大明神、大國大明神を祀った祠があった。前回ここを訪れた際にはお詣りの人を見かけた。

ここからは対岸の米軍基地 (写真上) と那覇空港方面の那覇港 (下) のが見渡せる。


沖の宮 (臨海寺) 跡

以前は三重城へ長堤は今では埋め立てられて那覇港となっているのだが、その長堤の途中には沖の宮 (臨海寺) があった。

幕末期1827年に来琉した英国艦隊に随行員が描いた那覇港の図に垣花からこの臨海寺が見られる。

戦前の臨海時の写真が残っている。当時は立派な大きな寺だったことが判る。

臨海寺はその建立年代は不明だが、1500年代中期に創建されたと推測される。元々は沖宮を管理するために置かれた東寺真言宗の別当寺だったが、明治時代の神仏分離により沖宮から独立している。葛飾北斎が描いた琉球八景の臨海湖声にも描かれている。琉球王朝時代は、外国からの来訪者を留め置く逗留所としても利用されており、日本人僧侶の日秀上人や英国軍人バジル・ホール (Basil Hall 1788~1844) なども逗留している。明治時代に入り、長堤の西の海側が埋め立てられ、臨海寺は垣花町に移されている。移設された臨海寺は第二次世界大戦で戦禍により焼失し、後に曙に再建されて現在に至っている。埋め立てられた那覇港の元々の場所には鳥居の中に石碑が置かれている。

沖之宮から三重城への長堤には中之橋、中三重城、ツキ橋があった。今は那覇港になっている。那覇港の端まで行くと三重城が向こう側に見える。ここから向こうまで長堤があったのだ。

港から、西町、東町方面を見るとホテルやマンションの高層ビルが立ち並んでいる。


通堂大道

通堂町と西/東町の境あたりが通堂大道が通っていた。

この大道では那覇大綱引きが行われていた。戦前までの那覇大綱曳は開催年によって場所が代わり、親見世ぬ前、辻の中道、若狭町馬場、そして通堂大通りでも行われ、当時は夜を徹して催されていた。現在は国道58号線で行われている。


通堂町巡りの次は西 (町) に移動する。西の訪問レポートは別途。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
  • 渡地村跡 (2007 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)