【浅草②】浅草檜久間町
町名:浅草檜久間町
読み方:あさくさひのくまちょう Asakusa-Hinokumachō
区分:町丁
起立:1869(明治2)年
廃止:1877(明治10)年
冠称:「浅草」
後身:浅草馬道町八丁目
現町名:台東区浅草六丁目
概要:前身は浅草斎頭門前と浅草常音門前。浅草斎頭門前は、檜前浜成(ひのくまのはまなり)の子孫で専堂坊・常音坊とともに「浅草寺三譜代」といわれた斎頭坊に与えられた浅草寺の配当町屋敷であるが、起立年代は不詳。西北へ折回しの片側町で東西13間・南北18間半。1828(文政11)年の家数9軒(町方書上)。俗に「埋堀」、「竹門」ともいった。『江戸地名俚俗字引』には「僧正ケ馬場と云ふ所あり」とある。
浅草常音門前は、檜前武成(ひのくまたけなり)の子孫で専堂坊・斎頭坊とともに浅草寺三譜代といわれた常音坊に与えられた浅草寺の配当町屋敷であるが、起立年代は不詳。東南へ折回しの片側町で、東西は南側13間4尺・北側11間5尺・南北23間4尺5寸。1828(文政11)年の家数11軒(町方書上)。俗に「埋堀」、「竹門」ともいった。
前身の浅草斎頭門前、浅草常音門前として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、両町が合併し、浅草檜久間町起立。町名の由来は「三社様」、「三社権現」の名で親しまれている浅草神社の祭神である檜前浜成・武成兄弟の姓による。檜前兄弟は土師真中知とともに浅草寺の本尊(聖観世音菩薩黄金像)を隅田川で発見したと伝える。1872(明治5)年の戸数26・人口144(府志料)。
1877(明治10)年、浅草馬道町八丁目に編入となり消滅。さらに1934(昭和9)年、浅草馬道二丁目となる。現行の浅草六丁目の一部。
撮影場所:浅草檜久間町