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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

帝国の時代56-血の一週間

2022.12.02 10:33

政府軍のパリ侵入の翌日1871年5月22日、軍事代表委員ドレクリューズは「市民諸君武器を取れ!」と公報で宣言した。人民的抵抗の呼びかけだが、逆にいえば混乱したコミューン政府はあてにするな、という意味でもあった。しかし指揮系統も武器も手薄な市民がどれだけ抵抗できるか。

23日にはパリの高台モンマルトルの丘が政府軍に奪取された。ここには大砲が設置されていたが、その整備の仕方がわからず放置されていた。政府軍はバリケードに立てこもる市民を容赦なく殺害した他、アパルトマンにも銃撃した。軍の進攻を遅らせるため官公庁に火が放たれ、パリは火に包まれた。

コミューン側も人質にとっていたパリ大司教らの聖職者らを処刑した。実は彼らは政府とパリとの和解の連絡をしていたのだ。しかし政府軍は容赦なく市民を虐殺し、「血の一週間」で1万~3万人の命が失われる。5月28日、ペール・ラシェーズ墓地での抵抗を最後にコミューンは鎮圧された。

その日政府軍のマクマオン元帥は「パリは解放された」という声明を出した。しかし鎮圧されてからも「赤狩り」は続き、コミューン協力者と思しき者は容赦なく逮捕され処刑された。マルクスは「フランスにおける内乱」でコミューンの教訓を書き、それはレーニンのロシア革命に受け継がれる。