カルヴァン キリスト教綱要Ⅴ
イスラエルの民は神から律法を与えられたが、完璧に守れる者がただの一人もいなかった。
アダムの時と同様、善悪を知る知識の実を食べたらあなたは必ず死ぬが、食べなければ
永遠に生きると神は約束した。
律法も同じで、律法を守れば永遠の命があり、守らなければ必ず死ぬという原理だ。
律法そのものは完全な義である。従って律法違反は死刑を宣告される。
だから神はイスラエルの民と更に規約を設けた。
死ぬべき人間の代わりに、動物(羊や牛や山羊など)をささげさせ、動物の血を流すことで、
死から免れ、神と和解するという方法だ。
-我々は誰一人律法の順守を成し遂げていると見られないのであるから、生命の約束から排除されて全き呪いの内に倒れ伏している。
律法の教えは人間の能力を遥かに超えているため、掲げられた約束を遠くから眺めやることはできても、何の実りも収めることはない。
人間にただ一つ残っているのは、律法の善に照らして己自身の悲惨をいよいよよく知ること、また救いの望みが絶ち切られて自己の上には死が確実に迫っているのを悟るだけである。
恐るべき刑罰規定が我々を圧迫する。これは最も緊迫した死を律法の中に読み取らずにおられないからであるー
キリスト教綱要第二篇 7章から
律法そのものは正義であり善である。問題は人間がそれを守れないということだ。
守れもしない戒律を、なぜ神は人間に与えたのか?カルヴァンの言う通り、守れない自分を知ることに意義がある。
何度も繰り返すが、自由意志を失った人間とはどんな存在なのか定義づけなければ、自分のことを自分で知らないことになる。
アダムの息子たちはすでに善悪を把握する能力を失っていた。
自分より優れた弟を憎むことに躊躇がなく当たり前と考えていた。
律法命令の殺すなとは、憎むなという意味だ。それは人間に憎む権利がないという意味ではなく、
憎んで良いという基準を把握する能力がないからだ。
アダムの息子カインが弟アベルを殺した理由は、神は自分より弟の方を愛しているという理由だった。
しかし事実はそうなのか?
兄は農業、弟は遊牧の仕事をしていた。どちらも裕福で飢えていたわけではない。
カインは弟より優越感に浸りたいのに、思い通りにならないからといって、勝手に劣等感を持っただけだ。
アベルはただ神の恵みの実りを喜んでいた。兄に対して何の落ち度もない。
たとえ容姿や能力に差異があったとしても、憎んで良い理由にはならない。
こんなことは私達万人に身に覚えがあることだ。
人間とは、理想としては自分が律法を守れる者だと信じたいのだ。
家族を愛し、みんなに愛され、他人を憎んだり妬んだりしない自分を思い描く。
こんな理想主義者は全ての分野で失敗するだろう。
頭の良い人ほど、人間をよく知っている。人間は決して優れてなどいない。それを知ることが知恵だ。
能力に拠らず全ての人間に共通して必ずおとずれるものがある。それは「死」だ。この死の前に抗える人間など一人もいない。
「死」こそ人間の罪の結果と聖書は語る。即ち誰も律法を守れる義人はいないということだ。
レオナルドダビンチはこう言う。人は死ぬようにできている。だから終わりのことから考え始めなければならない。
彼は画家というだけではなく、科学者、哲学者、物理学者としても比類なき天才だ。
彼の言葉にこそ真理がある。
そしてアウグスティヌスはこう語る。
「人が謙遜になるということは、自分自身を知るということだ」
自分で自分をよく知る人が、謙遜になれる。謙遜とは人間の真実を受け止めた証でもある。