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Jesus Christ Glory Church

カルヴァン キリスト教綱要Ⅲ

2018.03.12 15:15


アダムの罪により人の魂から自由意思が喪失した。つまり「原罪」による魂の「死」が生まれた。では人の魂(心、精神)とは何なのか?


-人間が魂(スピリトゥス)と肉体から成っていることについて議論の余地はない。
 魂というのは人間のより高貴な部分で、不滅(永遠)の本質存在であり、しかもこ
れは創造されたものであると私は理解する。
 神の審判に対応して善悪を識別する良心は、魂が不死であることの疑い無き印で
ある。それ故魂は本質を備えたものということになる。
 魂は本来、空間的存在として把握されるものではないが、それは肉体の内に置か
れ、いわば住居のようにそこに住む。

 魂は単に肉体の各部を生かし、それぞれの器官をその働きに適合させ、有用に機

能させるのみでなく、人間の生を統括することにおいて最優位を占める。

 それも地上的生の職務だけでなく、同時に神を崇めるように励ますのである。

キリスト教綱要第一篇 15章から


アダムの完全とはこの魂の機能が完璧に機能していた。


しかし人の魂の完全が喪失した後からは、「精神、心」の機能の働きは弱まり不完全な状態になった。

まず善悪を識別する良心とは本来、自分で自分を証言する意識であるのに、自分で自分を正しく認識できないのは魂が機能していないということになる。

物事の認識とは公正に見た判断でなければならない。カルヴァンは魂が堕落した後、人は自分について妄想するようになったと説明する。

真実、現実通り認識できなくなったことの証だ。すべての人類の魂の機能が堕落したとはいえ、人によっては崇高に生きたいと願う魂の持ち主はいるし、

肉体よりも魂の命を大切にできる人も、僅かでも存在しているだろう。

やはりそのような魂の力は、多くの人に影響を与え、歴史の舞台にもたびたび登場している。その人からは内から放つ力があるからだ。


魂とは本来、「生命の力」そのものなのだ。人が生きるための能力、知性、想像力だ。

だから魂は人を殺す力ではなく、生かす力だ。自分を客観的に、冷静に、公正に洞察することができなければ、他人など救えない。

自分の利益、幸せ、欲情だけを欲するなら、魂は機能していない。自分の感情(悲しみ、怒り、妬み)に溺れてしまうことも同様だ。

ましてや外見、所有、形を自慢することは、決して崇高な次元にはいない。反対に無いことを惨めに思うのも同じ次元だ。

それでは有るのか、無いのか、という価値にしか意識が働いていないことになる。

それは魂ではなく、肉体的なことだ。


魂の幸せは、心と精神の充足、何かをやり遂げたという「達成感」だ。

「魂」とは神からの恵みが必要だ。人の心の空洞は人間では埋められない。だからといって宗教も心を埋められない。それも形に過ぎない。

しかし人は神の存在ががわからず姿も見えない。神の律法は、神を愛し、隣人を愛せだ。

神を知りたければ、自分を知り、隣人を理解し、命の連鎖を知り、歴史を知り、世界を知らなければならない。

すなわち言葉や物事の「うわべ」ではなく、その理由、意味、本質を理解するということだ。


「神」に別名があるとするなら、「摂理」「全知全能」「創造主」「裁判官」ではないのか。

いわゆる始まりと終わりを描ける唯一の脚本家だ。

人間は全てを理解できるのではなく概念を捉えるのみで、考え続け、気高い生き方を望み続けるしかできないのだ。

人は神にはなれない。

人の魂の目標は堕落する前のアダムの完全の状態に戻ることにあるが、

それさえ今では完全に取り戻すことは困難だとカルヴァンは語る。