カルヴァン キリスト教綱要Ⅱ
アダムとイヴに関する間違った認識。この二人の名前は誰でも知っている。
多くの人、聖書を読んだことがある人でさえ、二人が蛇である悪魔に騙され、
まるで毒リンゴを食べたゆえに、神に呪われエデンの園から追放されたかのごとくに
理解している。
カルヴァンは二人の罪を、「善悪を知る知識の木」の実を食べたか、
食べなかったかという「飽食」の問題と考えてはならないと語った。
確かに神は他のどの木の実を食べても良いが、「善悪を知る知識の実の成る木」からは
決して食べてはならない、食べたら死ぬと語られた。
アダムは全てにおいて完全だったと聖書は語る。
-神の形という言葉で表されているのは、アダムが正しい知性を保ち、
感情を理性に即して整え、一切の感覚を正しく秩序によって抑制し、
自らの優越性は造り主の特別な賜物のおかげであると真実にわきまえていた時に
備わっていた完全性である-
-アダムは意志さえすれば原初の状態のままでいることができた。
彼の善悪の選択は自由であった-
-最初にアダムの魂の各部分は公正に向けて造られ、精神の健全は確立し、意志は善を選択する自由を持っていたからである-
(アウグスティヌス引用)
キリスト教綱要第15章
ここで言う完全な人間とは、創造主であり、全知全能であり、法を司る神の意志が善であることを知覚でき、
被造物である人間にはその能力がないことを理解し、感情ではなく、命と、世界にとっての利益と、
秩序の必要性を洞察できる知性と力を持った人間だ。アダムにはその能力があった。
アダムの魂の機能、知性、理性、感覚、意志は完全で、「自由意思」を持っていた。
「自由意思」とは決断する意志のことではなく、善悪を把握する能力が優れていて、
善を選択し行うこともでき、悪を嫌い避けることの出来る力を言う。
彼は空腹だったのではなく、実を食べたかったのではなく、善悪を、神の意志ではなく、
自分の意志で決めたいと選択してしまったのだ。
それまでは神の意志が善であることを知っていたが、堕落した後は、善悪を把握する能力と意志力を失った。
すなわち神からの命令違反により、その罰として「自由意思」を神から剥奪された。
アダムの罪の根拠は、自分が被造物であるという謙遜さを忘れ、神のようになろうとしたことだ。
「エデンの園」から追放され、初めてアダムとイブは婚姻関係を結び二人の息子を生んだ。
兄であるカインは妬みから、誠実で賢い弟、アベルを殺してしまう。
これが「自由意思」を失った人間の魂の状態だ。善悪は自分で決めるという結果、知性と精神と感覚が堕落して、
人の心に殺戮、怒り、妬み、無秩序が生まれた。
神が食べたらあなたは必ず死ぬと語った死は、肉体ではなく、魂の死だった。
社会とは人間が生きるために必要だ。だから大勢の人間が快適に暮らすために秩序が要求される。
秩序は普遍的な制度を守ることが前提とならなくてはならない。
だけど今も昔も人間は自分の物差しでしか物事を見られず、秩序よりも自分の感情が優先だ。
だから現在は特に人とのコミュニケーション能力が低下し、誰とも本音で話せなくなり、
理解し合うことが困難になった。
それは相手を配慮することができず、自分の不遇を嘆くことしかできないからだ。
たとえ社会に理想的な制度があっても、人間の能力も知力も、生まれ持った環境も同じでない。
みんなが同じ夢や「幸せの形」を持てるわけではないのだ。
善とは、理性と知性とに即した判断でなくてはならないし、悪は他者の権利を妬みと怒りで
奪ってしまうことだ。まるでアダムの子、カインがしたように。
そしてもっと怖いのは、善悪も全く考えることも出来ず、心が空っぽで、自分から何も発想せず、
周りの空気に合わせて奴隷のように生きることだ。
これは知性と精神と意志の欠落だ。子供の学力が落ちていることからも明白だ。
痴ほう状態は老いた人だけの問題ではない。
私達全世界の問題で、聖書はこれを「罪による堕落の結果」と語っている。だから学歴で解決できる問題ではなく、
人間の心の問題、魂の問題だ。たとえ困難で泥臭くても人と関わり、本音で語り、
相手のことも理解できるようにするしかない。
自分だけが正しく、全部相手が悪いと思う自分の感情を正し、自分の間違いを受け止められる、
精神的大人になるしかないのだ。
カルヴァンは言う。物事は自分の都合のいい無知な妄想ではなく、
正しい定義に基づいて思考しなくてはならないと。