カルヴァン キリスト教綱要Ⅰ
今からちょうど500年前ヨーロッパでプロテスタント宗教改革が起きた。
周知の通りこれはヨーロッパにおいて歴史的一ページでもあった。
当時のローマカトリック教会の腐敗と堕落、特に免罪符、お金を払い罪を赦してもらうという教会のやり方に、
それは間違いだと唱えたのが、ドイツ人のマルティン・ルターだ。
彼は1517年10月31日に九十五か条の提題を発表し、「信仰による義」人は信仰で救われるという立場を確立した。
そしてフランス人ジャン・カルヴァンが聖書を正しく解釈し、今から500年前に書かれた本が
「キリスト教綱要」だ。
彼らは争いや裁判を起こし、混乱させるのが目的だったのではなく、ましてや名誉心からでは決してなかった。
孤独な迫害の中での、とても勇気のいる改革だったのだ。
カルヴァンの言葉を引用する。
我々の知恵で、とにかく真理に敵い、
また堅実な知恵と見做さるべきもののほとんど全ては、
二つの部分から成り立つ。
すなわち、神を認識することと、我々自身を認識することである。
ところが、この二者は多くの絆によって結び合っているので、
どちらかが他方に先立つか、どちらが他方を生み出すかを識別するのは
容易でない。すなわち、先ず我々がその内に生きかつ動く神、この神への瞑想に己が思いを真っ直ぐに向けない限り、
誰一人として自分自身について考察することはできない。
なぜなら、我々の力の由来する賜物のどれ一つとして己自身からの
ものではないことは明らかであるのみか、
我々がこうして生きている生存自体が
一人の神において成り立っている以外の何ものでもないからである
キリスト教綱要第一編 第一章 1から
簡単に言えば、神を知ることと、自分、人間の本質を知ることは同時であると説明している。
どちらが先立っても正しく理解するのは難しいからだ。
ローマカトリック教会の堕落は、神を自分達の都合のいい偶像に変えてしまったことだ。
そして多くの人を騙し、自分たちの利権や名誉のために、神の名を利用した。
二人の改革者達は、その巨大化した組織と戦わなくてはならなかった。
人は誰でも罪深く、ましてや人が人の罪を赦せるはずもなく、その権利も力もないと訴えた。
だから人は「自分」を知らなくてはならないのだ。
この時代も同じだ。私が人を観察する時驚くことが多々ある。自分の罪は全く気付かないのに、
それと同じ事をしている他者を見る時、とても嫌悪し決して許さないのだ。
自分のことは、他人を見る時より、現実通り全く見ていない。
これは自分のことは過大評価し、他者は常に過小評価しかしないからだ。
それしかできないのが人間だ。どんなに強く頭が良くても、人は例外なしにそれをしている。
私達は宗教改革者でなくても、本来罪深い自分ときちんと向き合わなくてはならない。
そしてルターとカルヴァンは、その罪は神のみが赦すことができ、その方法はお金でもなく、
宗教という形でもなく、「信じる」という心、魂の叫びなのだと語っている。
今月から月に一度、カルヴァンのキリスト教綱要を載せていく予定です。
宗教改革500周年でもあり、現代のキリスト教においても多くの問題があり、
正しく聖書を理解することが大切と思うからです。