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鈴木桂一郎アナウンス事務所

2015年9月5日(土)『歌舞伎座9月公演 伽羅先代萩、玉三郎の政岡、吉右衛門の仁木弾正』

2015.09.05 10:09

 歌舞伎座9月公演の夜の部を観た。秀山祭九月大歌舞伎、伽羅先代萩の通しである。何度も見た歌舞伎演目なんで、筋は、あらかた知っているが、江戸時代の仙台藩の御家騒動を、足利幕府の時代のお家騒動に移し変え、歌舞伎として作られている。江戸時代は、歌舞伎への幕府の取り締まりは、厳しかったと、伝えられているが、時代設定を返れば、大丈夫なんて、実に、鷹揚な感じがする。こんな江戸時代は、私は好きだ。

 足利頼兼の優雅なバカ殿様振り、正岡のわが子を犠牲にする芯の強さ、八汐の徹底した憎々しさ、仁木弾正の国崩しの悪のスケール感、細川勝元の音吐朗々とした捌き役、いくつものキャラクターが、絡み合いながら芝居を面白くしている。役者が揃わないと、舞台が生きてこないので、今回、仁木弾正が吉右衛門、正岡が玉三郎、頼兼が梅玉、八汐が歌六、勝本が染五郎と、役者が揃い、今の歌舞伎界では、ベストと呼べる配役陣になった。

序幕は、花水橋で、足利頼兼は、町人の乗る町籠に乗り、花水橋に通りかかった際に、侍姿の暴漢に襲われるという舞台である。出で、いきなり殿様の気品のある、優雅な、柔らか味を持った立ち振る舞いを見せ、そして暴漢たちとの上品な立ち回りが見どころである。梅玉の演じる殿様は、籠を下りて、立ち上っただけで、まことに上品で、いつも貴公子然とした梅玉の持ち味が出て、持ち役中の持ち役、まさに当代の頼兼で申し分がない。でもこの殿様が、バカ殿なのだ。お家騒動の元凶である。何と言っても、毎日、吉原に通い、ついには遊女を身請けしてしまうという、金使いの荒い、放蕩馬鹿殿様なのだ。伽羅先代萩というタイトル、伽羅という香木で作った下駄を履いている。ほんの少しばかりの木片を焚いて香りを楽しむ、香道でさえ、一生のうちに、一度でも聞くことが難しい香木を、なんと下駄にしてしまうのだから馬鹿馬鹿しくなる。大藩の御殿様、金はあるが、その使い道を知らないバカ殿なんだという事を、作者は強調しているのではないか。こんなバカ殿がいるから、お家転覆を図る家来も出るのは仕方がない。お家騒動が起こるのも当たり前という事を暗示しているのだと思う。暴漢が、伽羅の下駄を盗もうとして香りを嗅ぐと、いい香りにうっとりとする場面に、作者の皮肉が大きく演出されていると思う。こんなバカ殿ならば、仁木弾正のような、不気味で、大胆で、強烈な底知れぬパワーを持ち、知性も、教養もあり、人としての大きさも兼ね備えた大悪のキャラクター、国崩しの方が、君主として相応しいのではないかと、舞台を見る側に思わせる作者の仕掛けあると思う。だからこそ、仁木弾正は、吉右衛門など、歌舞伎界のトップの立ち役が演じる役なのだと思う。

仁木弾正役の吉右衛門が、七三で、煙とともに、すっぽんから次第に上がり、面明かりに照らされて、無言で立つ姿に、不気味な凄みとともに、底知れぬ悪のパワーを感じた。「待ってました」という声がかかる。雲の上を歩くように悠然と花道を歩む姿に、観客は陶酔し、「おお播磨」という声がかかる。セリフは一つもない、なのにこの悪の迫力、悪は江戸時代人には、絶対悪ではなく、大きく魅かれるものだったんだと思わせる。無言で立って、指で 呪文を切るだけで、圧倒的な悪のスケール感を出せるのが、今は、吉右衛門だけかもしれない。 

八汐の歌六も、立ち役のやる女形であるから、悪を憎々しく見せるところ、転じてコミカルなところも、自在に行ったり来たりで、大役をうまく勤めている。歌六は、これまで便利な役者として使われてきたが、万屋一門から播磨屋一門に加わり、吉右衛門の相手役に使われ出して本領発揮だ。晩年というには、まだ早いが、役者としても魅力を増してきている。

沖の井は、菊之助が演じた。何度も見ている芝居なのに、沖の井が、こんなに素晴らしい役とは思わなかった。菊之助の舞台を圧倒する声量で、八汐を遣り込める、コメディとしての一面が、明瞭になった。線が細く、か弱いと感じていた菊之助だが、将来の政岡役者として、楽しみである。

松緑の荒獅子男之助は、荒事なので、松緑の持ち役で、パワーを爆発させるが、それまでの事だ。さしたる事もなかった。松緑は、赤い隈取で、顔が隠せるんで、この役は、ピタリだ。

さて肝心の正岡は、玉三郎のクールな正岡、わが子が毒入りの菓子を食べ、八汐に首を切りつけられても、微動だにしない。これは、その役の性根だから仕方がないが、八汐に責められる場面でも、とにかくクール。お腹をすかせた主君にご飯を炊く、いわゆる、ままたきも、主君とわが子への愛情を見せないクールさである。舞台に誰もいなくなって、我が子にとりついて泣き崩れるピークの感情を爆発させるための計算かと思うが、乳母としての、若君とわが子に対する深い愛情が透けて見えなければ、大泣きは、成立しないのではないかと思う。今回不満が残った、余りにクールな政岡であった。

茶道具で、ご飯をたく、様々なシーンでは、袱紗の捌き方、柄杓の取り方、置き方、茶筅の振り方は、茶道を知る観客には、魅力的だった。茶筅で米を磨ぐ仕草もどうにいって、茶筅で米を磨ぐなどと、有り得ない話だが、それらしく演じ,決してコミカルになってはいなかった。

玉三郎は、当代一の女形で、歌舞伎界に君臨していて、私も、この三十年大好きな役者だ。本人は、自分の美しさに限りを感じているかもしれないが、まだあと10年は、美貌を維持で来るだろう。が、その先を事を考えると、美しさだけに頼るのではなく、雀右衛門が80代に花を咲かせた、役になり切る姿勢、政岡でいえば、乳母の愛情を、その存在で、雰囲気で見せる姿勢が欲しい。我が子が殺されれシーンでは、知らん顔をしてみるのではなく、我が子が殺される、でも、立場上は、驚いたり悲しんだりは出来ない、必死に耐えている、と言う演技がなければ、誰もいなくなって大泣きにはいけないだろう。沖の井が、自分の様子を観察しているから、徹頭徹尾クールにしていればいいという物ではないと思う。

玉三郎は、何故歌舞伎座に毎月でないのだろうか。日本を代表する女形の玉三郎は、沖縄の舞踊、京劇、佐渡の太鼓もいいが、本業に、もっと力を入れてもらいたいものだ。