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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 225 (27/11/22) 那覇四町 (5) Nishi Area 西

2022.11.30 11:10

那覇四町 西 (にし、イリ)


那覇四町 西 (にし、イリ)

現在の西は旧藩時代は、那覇四町の一つだった。那覇港に近いだけに西村は昔から商業的な性格で発展してきた。現在の西になる前は、西本町と西新町の二つの行政区に分かれていた。西本町が旧那覇の西村にあたり、那覇の繁栄街だった。明治時代になると、卸商や寄留商人が旧藩時代の士族の屋敷を改造して商店を開き、大きな店がこの町から発展していった。輸出入がさかんになるにしたがって、倉庫業や旅館、料亭、バーなども急速に増えていった。卸商店街であると共に平和舘や旭舘など劇場も建設され娯楽町でもあった。大正初期には県庁や県砂糖検査所などがあり、銀行も多く進出し、那覇の中心となっていた。

琉球王統時代には、浮島 (うきしま) から発展した那覇は西村、東村に行政区分され、羽地朝秀 (向象賢 1617-1675) 時代に泉崎村や若狭町を加えて那覇四町 (ナファユマチ) と称せられるようになった。

この西村は大正3年の区画改正で、西本町、辻町、通堂町 西村と東村の一部)、上之蔵町 (西村と東村との 一部)、西新町 (明治中ごろの埋立地) に区分され、それぞれ独立行政字となっている。那覇は行政区分が複雑に変遷している。琉球王統時代の西村は現在の西一丁目で比較的狭い地域だった明治から大正時代にかけて西の海が埋立されて現在の西二丁目が西新町となり、元々の西村は西本町となっている。昭和になって更に西の海の埋め立てが拡張され、昭和35年には元町と改称され、東町と通堂町も元町に編入された。この名称変更、行政区分変更は住民には不評で反対運動が起こり、翌年昭和36年に西、東町、通堂町の以前の行政区分に戻り現在に至っている。

沖縄戦では沖縄の中心地である那覇は殆どが焼け野原となり、戦後は米軍に那覇全土が接収され、立ち入り禁止となっていた。米軍に接収された土地の返還は那覇の外側から始まり那覇の中心地だった那覇四町の解放は1951年だった。


明治時代は狭い西村には4000人もの住民がいたのだが、戦後の人口の戻り方は非常におそく、元々の西村だった西一丁目は現在でも明治時代の半分にしか戻らなかった。人口は埋め立てされた旧西の海の二丁目と三丁目で増加してようやく4000人に戻っている。近年は人口は減少傾向になっている。戦前までは那覇の中心地だったが、土地返還が遅く復興に時間がかかり、那覇中心地が泉崎、久茂地に移ってした事や、戦前の西や東町には元々昔から住んでいた住民は少なく、商売を目的で沖縄各地や本土から移ってきた住民が多かった事で、他の集落とは異なり、土地に対しての執着はなく、商業地が久茂地、牧志に移っていた事からそちらの方に移っていったのかも知れない。


西訪問ログ



薩摩藩在番奉行所跡

東町の天使館や親見世から通道へは見世ヌ前大道が通っていた。この道が西と東町の境界線になる。この道沿いの西の街側には薩摩藩在番奉行所が置かれていた。在番仮屋、大仮屋とも呼ばれていた。1609年の島津侵入の後、薩摩藩が出先機関として1628年に設置して以来1872年までの250年間、琉球支配の拠点として在番奉行や附役など約20人が常勤し、薩琉間の公務の処理や貿易の管理にあたっていた。 1872年の琉球藩設置後、外務省、ついで内務省出張所となり、1879年廃藩置県で沖縄県の仮県庁となり、1881年から沖縄県庁となって1920年に泉崎へ移転するまで県政の中心となっていた。

琉球王統時代の東町と西の絵図が残っている。また明治初期の古写真も残っていた。薩摩藩在番奉行所なのか、琉球風ではなく、大和風の門構えとなっている。

奉行所の前の見世ヌ前大道は道ぬ美らさや仮屋ぬ前 (ミチヌチュラサヤカイヤヌメー) と唄われ、那覇四町の大綱引もこの通りで行わ れた。 案内板には那覇綱引図が描かれて、その中央に奉行所があり、見物する役人が描かれている。


昆布座跡

琉球王統時代には薩摩在番奉行所の隣、通堂側には昆布座が置かれていた。初めはこの昆布座が何ものか? 東町にあった大市 (ウフマチ) の市場なのかと思っていたが、そうでは無かった。1609年薩摩藩の侵攻以後、薩摩藩が交易にも関与していた。昆布については、蝦夷地から富山の売薬商人 (薩摩組) や薩摩藩の廻船 (北前船) によって薩摩経由で沖縄に運ばれていた。沖縄に運ばれた昆布はアワビやふかひれ等の俵物よる輸出で、中国との貿易がさかんに行われ、中国福建からは、生糸、反物、麝香などを仕入れていた。薩摩-琉球-中国の中継貿易地となっていた。薩摩の御用商人が昆布を一括して、この昆布座に運び、隣の薩摩藩在番奉行所が取り締まりをしていた。これで何故、薩摩藩在番奉行所の隣に置かれたのかが分かった。昆布は、輸出品としてではなく、市中にも出回り琉球の食生活にも影響をあたえていた。豚肉とともに琉球料理には欠かせない食品になり、富山と並んで国内有数の昆布の消費地となっていた。


油座跡

昆布座跡の西隣には油座が置かれていた。この油座の情報は見つから無かったが、油座は油の取引きを一括管理する機関なので、油についても薩摩藩が取締を行なっていたのでは無いかと思う。


学校所跡

油座の少し北側、琉球王統時代の西の海岸近くには村学校が置かれていた。村学校所は、士族子弟の初級、中級の教育機関で、首里や那覇等の各村毎に建てられた。首里には14校、那覇には6校、泊には1校があった。士族の子弟は7~8才で入学し、14~15才までの間、学校所で、三字経の読み書きから始まり、二十四孝、小学、四書へを学んでいたそうだ。今までまわった那覇では若狭町村学校所泉崎学校所泊村学校所があった。


西の海跡 (ニーシヌウミ)

学校所が海岸近くにあったのだが、そこを南北に通っている現在の上之蔵大通りが琉球王統時代の海岸線だった。ここにあった海を西の海と呼んでいた。上之蔵大通り歩道に西の海の案内板が置かれている。この道路の向こう西側一帯が海だった。西の海は那覇港の三重城から潮の崎 (辻三文珠公園)、波の上 (ナンミン) に広がり、沿岸部は “下り”と呼ばれ、“牛町下り”、“嘉手川下り” 等の小字があった。1733年 (享保13年) に那覇の人口増加に対応して、西の海の一部を埋め立て宅地にした。1879年 (明治12年) の琉球処分後、本格的に西の海の埋立が行われ、1882年 (明治15年) には湯屋の前と呼ばれた一帯約400坪が埋め立てられている。 1888年 (明治21年) には、三重城に延びる突堤付近約4,000坪の埋立が計画され、後にこの一帯は、西新町1~2丁目となった。


大正劇場跡

西の海は、更に1908年 (明治41年) に埋立事業が開始され、後に尚順 (琉球国王尚泰の四男) が引き継ぎ、1922年 (大正11年) に竣工した。 この一帯は西新町3丁目 (現在は辻町) となり、俗にミーガタ (新潟) と呼ばれ、 1888年 (明治21年) に埋め立てられていた1~2丁目はフルガタ (古潟) と呼ばれた。 ミーガタ (新潟) は、大正2年頃に「筑地町」と命名されたが、町の人々の要望もあって、「西新町」に改められた。当初、ミーガタ (新潟) はゴミ捨て場同然だったといわれるが、1915年 (大正4年) には、この地の埋め立てたを担った尚順男爵によって大正劇場が新築された。 同劇場では、当初は映画なども上映していたが、1932年(昭和7年) に玉城盛義等が真楽座を結成し沖縄芝居を上演していた。この後、跡地を訪れる新天地劇場 (珊瑚座) と人気を二分していたという。1944年 (昭和19年) の10•10空襲により焼失してしまった。終戦後、同一帯は、更なる埋立と区画整理により、住宅地や倉庫街となっている。


平和館跡

1919年 (大正8年) には、旧西本町に平和館が開館し活弁を催していた。昭和5年に開館した旭館とともに昭和7年からはトーキー映画が上映されるようになった。


イロノベ御蔵跡

平和館があった場所の近くには、琉球王統時代のイロノベ御蔵が建っていた。このイロノベ御蔵についての情報は見つからなかったが、御蔵は江戸時代には年貢米、大豆などを収納した穀倉で勘定奉行によって管理されていた。琉球王府にも同じ様な御蔵があり、那覇には、通堂の宮古御蔵、銭御蔵、米御蔵などがあった。このイロノベ御蔵が何を収納したいたのかは調べられなかった。


旭館跡

平和館がある同じ通りに、1930年 (昭和5年) 頃、沖縄では3番目の演劇場として旭館が開館している。当初は演劇を中心に上演していたが、近くに新天地ができたために映画常設館になっていった。

当時の写真と開館案内が残っている。


伊波普猷生家跡地

平和館と旭館がある通りの北側一本先の通りに、沖縄学の父として知られる伊波普猷の

生家跡地がある。 伊波普猷は琉球処分の直前の1876年にこの西村で生まれた。生家は那覇士族魚氏 (ぎょうじ) の家系で、素封家 (そほうか) として知られていた。沖縄県立一中在学中の1895年、英語科廃止問題から起こったストライキ事件で首謀者の一人として退学処分。 その後、上京し浪人後、京都の三高 (現京都大学) に入学。1903年には東京帝国大学(現東京大学) に進み、言語学を専攻した。1906年、卒業して帰郷すると、沖縄に関する画期的な研究論文を次々発表し、沖縄人による沖縄研究の先陣を切った。1910年、沖縄県立図書館の初代館長 となり、 資料の収集の他、各地で300回余りにおよぶ衛生に関する講演を行うなど、啓蒙運動にも精力的に取り組んだ。1911年には諸論考をまとめて、沖縄研 究の記念碑的著作となる「古琉球」を出版した。その後も真境名安興、東恩納寛惇らとともに沖縄学の確立に大きな役割を果たした。

1925年、館長職を辞して上京。生涯をかけて「おもろさうし」の研究に没頭し、多くの成果を遺した。終戦間もない1947年8月13日、米軍占領下の故郷沖縄の将来を憂いながら 東京で病没した。 享年72才。


龍界寺跡

伊波普猷生家跡地のすぐ東には龍界寺があったそうだ。琉球王統時代には西、東町、久米村、若狭には多くの仏教寺院があったのだが、仏教は沖縄の一般民衆には普及せず、ほとんどは廃寺となっている。この龍界寺もいつの時代かに廃寺になり、現在は住宅地となっている。


辻蔵跡

琉球王統時代、龍界寺があった場所の北側には辻蔵があった。辻蔵は冊封使冠船来琉の際に、冊封使一行に支給する食料品などを格納した官庫の事。この辻蔵があった一帯をから上之蔵と呼ばれていた。

このあたりは以前は上之蔵町があった。現在の東町、西、辻、久米村にまたがる地域で、琉球王統時代には東町に属していた。西武門から南に石門へは上之蔵大通りが走り、この大通りが西の海の海岸線で上之蔵町の端になる。明治時代になって上之蔵町とし東町から独立した。上之蔵町は小高い丘の上にあり、アンシン坂 (フィラ)、善興寺坂、田名坂 (タナフィラ) など坂の多い地域だった。町内にはアパートが多く建つ住宅街で、質屋、写真屋、病院の並ぶ町だった。


真教寺

上之蔵大通り沿いに真教寺がある。この寺院は比較的新しく、1882年 (明治15年) に西の海の湯屋の前と呼ばれた一帯約400坪が埋め立てられて、その埋立地に最初に建てられたのが東本願寺 (現真教寺) だった。 西新町は、この寺の周辺から次々に新建築がひろまっていったが、当時はもっ ばら鹿児島商人の建物であったそうだ。


新天地劇場跡

真教寺の前の上之蔵大通りを渡り旧西本町に入った所は旧上之蔵町の石門で、そこには新天地劇場が建っていた跡地になる。1922年 (大正11年) に那覇劇場という名で開業している。

劇場は、瓦葺き屋根が軒を並べる那覇の街の中に、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの二階建てで、石屋とも呼ばれ、ひときわ目立った建物だった。 敷地は約 190坪、収容人員は約1,500人だった。当初は若葉団の専用劇場であったが観客の入りがおもわしくなく、若葉団が解散し、その後は新天地劇場に名を変え常設映画館として運営された。1934年 (昭和9年) から1943年 (昭和18年) までは珊瑚座の専用劇場として使用され、珊瑚座と呼ばれた。

1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲で、 劇場内部は被害を受け焼失したが、 外部のコンクリート壁面は焼け残った。 沖縄戦後もしばらく放置されたが、 1953年 (昭和28) から始められた一帯の区画整理のため撤去された。


クバチカサ跡

新天地劇場跡の北側にはかつてはクバチカサと呼ばれた拝所があった。現在は住宅街で祠もない。辻南公園に幾つもの拝所がありそこにはクバチカサの御嶽が祀られている。ひょっとして、ここにあった拝所を辻南公園に移したのかも知れない。

これで予定していた西のスポットは巡り終わったので、ライトアップされた福州園に移動する。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)