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秋葉原無差別殺傷事件を振り返る~日本の死刑制度について

2022.12.04 07:34

皆さんどうもこんにちはブログの更新です。

今回は秋葉原無差別無差別殺傷事件について振り返りたいと思います。

何故かと言うとこの前、日本テレビで世界仰天ニュース言う番組で

知ったのですが。今年令和4年2022年に東京拘置所で加藤智大死刑囚が死刑の執行がされたそうです。


事件の概要は下記になります。


秋葉原通り魔事件(あきはばら とおりまじけん)は、2008年(平成20年)6月8日に東京都千代田区外神田(秋葉原)で発生した通り魔殺傷事件。 加藤 智大(かとう ともひろ)が2トントラックで赤信号を無視して交差点に突入し、通行人5人を次々とはねた上、降車して通行人や警察官ら17人を次々とダガーナイフで刺した。一連の犯行によって7人が死亡、10人が重軽傷を負った。警視庁や裁判所報道更に犯人自身からは主に、秋葉原無差別殺傷事件(あきはばら むさべつさっしょうじけん)と呼ばれている。犯人の加藤智大死刑囚は2015年(平成27年)に死刑判決が確定し、2022年(令和4年)に東京拘置所で死刑を執行された


私自身も今は身体が不自由になり言葉も上手く喋れなくなり外出にはいつも杖が必須となって仕舞いましたが当時の40代前半の頃はまだ身体が自由に動かせて行きたい所にも自由に出かけた事もあり

当時は良く週末になると良く秋葉原に遊びに行っていた事もあります。夏になると有明で開催されるコミックマーケットで欲しいCD等購入しによく行きましたし。毎年春頃に幕張で開催されるニコニコ超会議ニコニコ超歌舞伎にも行った事もあります。好きな海外や日本人のロックやメタルミュージシャンのライブにもよく行ってました、それから秋葉原にある古いPCのジャンクショップで安いPCパーツを探したり安ければ買ったりしても居ましたし秋葉原のコミックとらのあなメロンブックス

らしんばんアニメイト等の店によく入り浸って欲しいCDや面白そうなライトノベル小説を購入していた事もあります、

お腹が減ってきたらその辺にあるメイドカフェに立ち寄って昼の食事をとって居た事も今となっては懐かしい思い出ですが、ちなみによくメイドカフェに立ち寄ったらよくオムライス等頼んでメイドさんがケチャップで絵を描いてくれたのも遠い出来事の様に思います。

どちらにせよ

一歩間違えてたら犯行当日に秋葉原に行ってたら加藤智大の手によって自分も殺されていた可能性も0では無いと思います、

加藤智大死刑囚は何故こんな凶行に及んだのかはもはや死刑が執行されているのでもう本人の口から語られる事もありませんがおそらく彼は世間から完全に孤立し自分の居場所はネット携帯の掲示板だけと言う物だったようです。

世界仰天ニュースで再現ドラマを見ましたがどうやら彼は幼少時の頃から母親に今で言う教育虐待を受けて育った様です。

「教育虐待」とは、 「あなたのため」という大義名分のもとに親が子に行ういきすぎた「しつけ」や「教育」のこと。 子どもの限度を超えて勉強や習い事をさせる等、 親が過干渉し、結果が悪いと暴力につながることもある。 「あなたのため」と言う言葉を武器に追いつめる親と、 「生きづらさ」を感じて自分らしく生きられなくなった子ども。 どこまでの厳しさは許されてどこからが教育虐待なのか、 教育虐待を受けて育つとどうなるのか……。

結局自分の子供に対する期待や願望が強すぎる余り「あなたの為・お前の為を思って厳しくしてやっている親の気持ちが分からないのか!」とこの様な言い方は子供に対して一番卑怯な言い回しだと思います。この言葉をまともに受け取った子供はその親の厳しさを愛情と勘違いして受け取ってしまいます。

でもどんなに「あなたの為・お前の為を思って厳しくしてやっている親の気持ちが分からないのか!」どんなに巧妙な言い回しを仕様と子供が無抵抗な事を分かっていて遣って居たならば「教育虐待」と言う名のただの虐めですであり

子供に取ってはあなたの為と言う大義名分さえあれば子供をしつけと言う名目で虐待しても良いという事になりませんか?

この様な考えを例え無意識でも心の何処かに持っている親は子供に取って極めて危険な存在です。

どうやらこの母親も無意識で自分でも気が付かず子供の事を人として一人の人格を持った人間だという事に思い当たらず子供は自分の持ち物、要は子供に対する所有意識があったのかもしれません

自分が産んだ自分の所有物何だから子供をどう育てようと親の勝手だと言うのも心の何処かにあったかもしれません。結局加藤が秋葉原でこんな大事件を起こす事に拠って両親の面目を潰す事に拠って両親特に母親に対して間接的に復讐したのかもしれません。

その結果が今回の事件の一端になったかもしれません。

無論これだけでは無く大学受験に失敗し更に就職氷河期が重なって思う様な就職も出来なかったのも原因の一つでもあります。

一応彼が獄中で書いた書籍もありますが興味のある方は試しにご購入されてみては如何でしょうか?

私は読んだ事が無いので今回はこの書籍を実際に読んだ人達のレビューをアマゾンから一記事引用させていただきます。

アマゾンのレビュー

不器用、では済まされない結果を招いた彼の、ややこしく単純な思考回路を説明する一冊。 ロジカルな自己分析で犯罪心理学上は参考になるが、もっと抽象度の高い、事件の核に触れるようなところまで自己理解を深めてほしいと願う。 加藤は認知の歪み(思考の癖)として「二極思考」を文中で認めているが、 私は他にも重大な認知の歪みがあるように感じた。 まず、「他者をコントロールしようとする思考」。 具体的には、 ・相手の悪い考えを改めさせることを目的に、無言で攻撃する ・相手を喜ばせることを目的に、法律違反すらする加藤は目的達成のためなら手段を選ばないという点や、 無言攻撃という遠回しな手段が自動思考されていることを自身の問題として深掘りしているが、 そもそも他者をコントロールしようとするその目的自体、考えるべきところではないだろうか。 次に、「自分と他者の境界線が薄い」。 自分がわかることは他人もわかることだと信じていたことを、彼は文中で認めている。 それはつまり、自分と他人の境界線が引けていない、個別化できていないということだ。 彼は自身と関わりのある他人へ、非常に強い関心を注ぐ。 (不動産会社やサラ金にすら、損しないか気を払う) 対して自身と関わりのない他人には極端に無関心で、将来の自分にも無関心。 ここは加藤自身に自己分析してほしいところだが、 いびつな自己イメージと他者イメージが重なり絡み合っているように感じた。 彼は「自分の信念がない」とサラりと書いているが、その深い分析までは踏み込めていない。 彼の生き様は、「他人に振り回されて生きている」ように感じられた。 他人を喜ばせることや、他人を考え改めさせることを最優先に生きている。 加藤自身が自分の人生で達成したいことが描かれていない。 その主体性のない生き方の背景には、養育環境があるのだろうか。 母親のせいにするな、と責められるのを避けているのか、母親が責められるのを避けているのか、 本書では母親とのエピソードが控え目に感じられた。 (それでも、書かれている断片的な情報が真実なら十分マルトリートメント、不適切な養育環境に読み取れる) 本当は、家でもっと色々とあったのではないだろうか。 加藤自身が犯罪未然防止を志向するならば、自身の思考回路を形作った背景を深堀りして書いてほしく思う。 加藤の「一極集中は良くない」という結論は、「依存先を増やすことが自立である」「依存先なき自立は孤立である」という熊谷晋一郎先生の言葉と重なる。 しかし、依存先を分散させる、即ち「広く浅く」人と交流することができるか、彼自身が疑問と書いている。 加藤の書いているように、ペットや作品など「自分と関わる人間」以外に依存先を広げることが、犯罪防止においても大切なことなのだろう。 近々、続編も読もうと思う。

又続編も書いている様なのでそれも良ければご購入頂ければ幸いです。

こちらもアマゾンのレビューの一記事を引用しました

自分だったら・・・普通なら・・・きっとこうに違いない・・・というフィルターを通して犯人像を歪め、事件を認識したつもりになることの無意味さが分かる。 感情に任せ納得を求めるのではなく、自分が到底納得出来ない、理解出来ない、あるいは常識からは理解され難い人間の存在というありのままの現実を受け入れ、解明していくことが真の事件対策になると警鐘を鳴らす一冊となっている。 本書の中で度々見られる、事件を適切に理解する意志のない人達に対する辛辣な批判や見下しは、正直、反感を買うだろうなと思う。 理不尽に他人の命を奪ってはいけないという道徳観や正義感を強調し、ただひたすらに反省や後悔と言った感情を書き連ねるだけでは事件を説明出来ないと、行動の具体的なメカニズムに対して真正面からアプローチすることを強調したのは評価出来る。 しかし、そういう姿勢を保つことが必要なのは確かに事実だし正直なのだろうけど、見下すような書き方は事件を起こした本人の立場として不適切だとは思ったし、不快だった。 内容については、自分と全く接点のない赤の他人の命の捉え方という、事件の核心に触れるような部分もあり、興味深かった。 一つ疑問なのが、なぜ事件を起こすことによって「他人」から「自分と関わりのある人」になるということまで想像が及ばなかったのかという点である。 また、申し訳ないという心境の変化についても詳しく知りたい。 単に、「他人」でなくなったというだけなのか? この点は謎で本書を読んでも消化しきれなかった。 彼のような、感覚的に他人の命の重さを実感出来ていない人間の中には、彼の言う「やる理由」と「やらない理由」のバランスによって事件を踏みとどまっているという人も、一般的に想像されているよりも多いのかもしれないと気づかされた。 そういう意味では、「普通は事件を起こさない、は違う」という彼の主張は、そこまで極端ではないが理解出来る部分もあり、普通の人と事件を起こす人は紙一重、というケースもあるのではないかと考えさせられた。

どちらにしても加藤智大死刑囚はもう既に死刑執行されてこの世にはいない事は確かです。

遺族の方々も彼が死刑執行の報を受けて溜飲はは下がり一時は、すっとするかもしれませんが後に残るのはどうする事も出来無い無力感と虚しさ・やるせない気持ちしか残らないのでは無いのでしょうか?

果たして死んで償う事だけが本当にそれしか償う方法は無かったのか?と私は疑問に思います。

どんなに神や仏に祈り縋った所で一度死んだ人間はもう二度と生き返らない事は確かな事なんですから彼らの加藤死刑囚に対する怒りや恨み・憎しみは例え彼が死刑執行されたとしても癒される事は無いと思います。家族や友人等を理不尽に加藤智大に奪われた悲しみは時間が解決してくれるのを待つしか無いのかもしれません。

それならば、あえて死刑に等せずに一生涯に渡って生きて罪を償って行く方法だってあったかもしれませんよ。

今更ですが私個人としては死刑は反対の立場です。

日本で死刑執行の場合確実に拘置所で処刑が行われ死刑の方法も絞首刑と定められております。

死刑の執行は当日朝9時に行われ刑務官数人といきなりドアを開けられて出坊だと告げられます

以前は前日に死刑宣告を行っていたそうですが死刑に対する恐れと恐ろしさに怯えて自らドアノブに紐を括りつけて首を括って自殺する例があったそうなので死刑当日に処刑場に連れていかれる事になったそうです。

刑場に入る前に下記の教戒室で仏教徒ならお坊さんとキリスト教の信徒ならキリストの神父さんと最後のお別れの会話をする事になります。この時キリスト教の信徒なら仏壇がくるりと回って十字架が掲げられるようになっています。この時お菓子や(お酒以外)ジュース等の飲み物等も出され最後にお菓子や好きな飲み物(お酒以外)等食べる事も飲む事も出来る様です。希望すれば煙草も吸う事も可能だと聞いております、教誨師さんから自分の所有している持ち物に関しては処分するか如何かも聞かれますし最後に遺書を書く事も許されております、

最後の会話が終わったら隣の前室と呼ばれる部屋に行きそこで刑務所長から死刑執行命令書が読み上げられ刑場の部屋に向かいます。執行室はカーテンが掛けられ見えない様になっており、

この時この時点で死刑囚は目隠しをされ両手を後ろに紐で縛られ両足も縛られます。その為自分が執行される部屋を見る事は無いそうです。



首に紐が掛けられ刑務官の一人が「最後に何か言い残す事は無いか?」確認をした上で合図とともに

一斉に待機している刑務官が一斉に踏み板を外すボタンを押します。

踏み板を外すボタンが三つあります。三つの内二つはダミーで誰が踏み板を外したのか分からない様に刑務官のストレスを和らげるためでもあります。

刑場は下記の写真の様になっております。

この部屋で加藤智大死刑囚死刑執行をされたのは間違い無い事なのでしょう。

ただ絞首刑の場合殆どの遺体は酷く無様な死に様に為ると思って間違いありません。

その後自分の体重の重みで一気に首が締まりその時の衝撃で首の頸椎が破壊され一気に気を失います。

身体の穴と言う穴からは大量の汚物や体液が流れ出し大小も垂れ流し場合によっては首吊りの衝撃で性器が勃起して射精する事もあるのだそうです。

処刑に立ち会う人は法務大臣と刑務所長・死亡の確認をする医師とその他10数人の刑務官が立ち合いそのうちの一人の刑務官と死亡確認の為の医師が下の部屋で待機しています。首をつって暫くしたら医師が聴診器を当てて心臓の音が止まった事を確認して初めて処刑完了となります、刑務官が一人で下の階で待機するわけは首を吊った後身体が振り子の様に揺らぐのだそうでそれを抑える為に足を捕まえて止める役目を果たすそうです。処刑後に処刑に係わった者達はこれで今日の仕事は終わりとなり処刑に係わった全員に刑務所長から特別手当として2万円が支給されますが

その貰った2万円は死刑囚に対する供養に使われる事が殆どだと本で読んだ事があります。

日本の法律で最高刑は死刑その次が無期刑になりますがその中間とも言える終身刑が無いと言うのは、正直に言って残念な気もします。

しかし無期刑だって仮釈放されるまでに最近では30年~40年位かかると言う意味では最早無期刑とは言え実質的に終身刑に等しい刑だと思います。

恐らく無期刑になった人が万が一にも仮出所する頃には既に60歳~70歳場合に拠っては80歳を超えてようやく仮出所が認められて出所してくるかもしれません。

既にその様な高齢の人は出所したとしてもまともな職に就く事も出来ずしかも前科持ちなので、

頼れる身内や親族が居れば良いのですがおそらく縁を切られているか既に亡くなっている事もあるので誰も身内や頼れる人が居なければ、早々に野垂れ死にするかホームレスになるか、

又は、ちょっとした犯罪を遣らかして(例えば・食べ物や飲み物を万引とか無銭飲食等)刑務所に逆戻りするぐらいしか他に道が無かったのでは無いのだろうかと思わずにいられません。

どちらにしてもこんな無関係な人達を大量に無差別殺人を犯す様な人には共通して言える事があります。

それは両親を含め心暖かい人間関係や友人関係を一度も作れず築く事も出来なかった、友達一人作る事も出来なかった孤独かつ孤立して誰とも人と繋がれなかった人と交流を持てなかったと言う共通項があります。

以前このタイトルで過去に投稿したことがあります。よろしければ見て頂ければ幸いです。

過保護と過干渉は似て非なる物ではあるが根っこの本質は同じ、その本質?

令和に入り早々、救いようの無い、事件が起こってしまった。

それともう一つ自分が思う様な職に就く事が出来なかったと言うのも共通しております。

心暖かい人間関係を築く事は人がお金が有ろうが無かろうが幸せに活きる為には絶対に必要な事です。それを最初に幼少時の頃に教えてあげるのが両親の役目だったのではありませんか?

人間は誰とも繋がれなくなり孤立して行くと次第に寂しいと言う感情が沸き上がってきます。

視野狭窄に陥って死にたいと言う願望が芽生えてくのかもしれません。

もしこれに病気が付くのなら孤立病とでも言うべき病(※ 実際には孤立病なんて病は無いかもしれませんんが)なのでは無いのでしょうか?

もし孤立と言う状態がある種の病なら遅かれ早かれ如何言う過程を辿ったとしてもどのみち

大罪お犯して死刑判決が下りようが、一人で誰とも繋がれなくなり一人孤独死を迎えていたか

如何言う過程やプロセスを辿っても加藤智大の死はどうにもできなかったのでは無いのでしょうか?と私は、思います。

加藤も元々は何処にでもいる普通の人間で良くも悪くも平凡で普通の凡人の男だったかもしれません。

その凡人が無敵の人状態になったからこそ今回の凄惨な事件が起こったのでは無いのでしょうか?

ちなみに無敵の人と言うのは、自分は最強誰も自分に勝てる人間は居ないと言う意味では無く

自分はもう失う物が何も無いだからもう怖い物等何も無いと言う意味での無敵の人と言います。お金も無い肩書も無い権力も無い友人も居ないそんな無い無い尽くしのただの凡人であった加藤は普通の凡人から無敵の人に変貌したかもしれません。

その様な無敵の人に変貌した場合は自分の命にすら興味や関心が無くなるので自分の命すら顧みなくなります、もうこの精神状態では死なんて恐れないし怖くないし死刑なっても構わないし死刑すら恐れなくなります。ある意味怖い物知らずの状態もしくは恐怖や恐ろしいと言う感情が麻痺状態になって仕舞うのが無敵の人と言われてもおかしくない精神状態だったのかもしれませんね!

もはや犯行に及んだ場合ほぼ100%死刑は確実と言う前提で凶行に及んだのかもしれません。

死刑を宣告されても怖くないし恐れない恐怖を感じないと言う心境に達しているのでもうだれがどう説得しても彼の凶行を止める事は不可能だったのかもしれません。

もう自分はいつ死んでも構わない例え死刑になっても構わないからせめて最後に世の中その物に復讐する目的で凶行に及んだのかもしれませんね!

そんなごく普通の平凡で凡人の人が一度無敵の人に変貌すると、何を仕出かすか何を遣らかすか分からない恐怖と怖さと恐ろしさがあります。

真面目で平凡なごく普通の凡人な人程一度でも無敵の人に変貌すれば何を仕出かすか分からない怖さがあります。


他にも他者の携帯ネット掲示板のなりすましや掲示板荒らしによって唯一の拠り所を奪われた様に

感じたのでしょう。

この出来事によって加藤と言うごく普通の平凡で凡人の男が無敵の人に変貌してしまい後先考えずに半ばやけになった可能性もあります。

本当は加藤死刑囚は自分自身に対して注目して貰いたかったのかもしれません。

携帯のネット掲示板だけを心の拠り所にしていたのも例え僅かな緩い人間関係であっても人と繋がって要る感覚が欲しかったのかもしれません。



今更こんなことを言っても時すでに遅しですが出来れば加藤死刑囚をもし日本に終身刑と言う法律があるならば終身刑にして一生涯遺族や被害者の為だけに生きて償わせるべきだったと私は思います。

今回は秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大死刑囚の死刑執行を

きっかけに死刑と言う重いテーマで

ブログを書かせていただきましたがこれを読んでいる皆さんの考えは如何でしょうか?

中には見せしめの為にも重大犯罪を抑制する為には抑止力として死刑は必要な事だ、と考える人も入れば人間が人間を裁き死刑の判決を下すのは人間のエゴであり傲慢だ、だから、どんな大罪を犯しても、殺すべきでは無く生かして一生涯かけて罪を償わせるべきでは無いのか?

どちらにしても簡単に結論の出ない問題である事に間違いは無いのですから!

以上になりますが今回の記事は如何でしたか?

余談ですが

それから日本の死刑制度について書かれたコミックスもありますのでそちらも参考までにご購入して頂ければ幸いです。現役の刑務官が実際の死刑の現実を赤裸々に漫画と言う形にして語ってくれています。



又、死刑と言う重いテーマを題材にしたモリのアサガオ(全8巻)と言うコミックスもあり主に死刑と言う重いテーマでありながら、お互い絶対的に立場の違う一人の新人刑務官・及川直樹と死刑囚・渡瀬満との不器用ながらも少しずつ奇妙で不思議な禁断の友情を育んでいくストーリーストーリー自体が二転三転する非常に読み応えのあるコミックスとなっております。これ以上書くととネタバレしそうなので実際に購入して読んで見て下さい。これは意外と隠れた名作なのかもしれませんん(※ ちなみにキンドル版で全巻読んでおります)

実際には本編は7巻で終了なのですが。実質最終巻の7巻のクライマックのワンシーンを書いてしまいますが最後は互いを分かり合いお互いを理解し合い互いに涙を流しながらお互いに抱きしめ合うシーンには非常に胸を打たれるシーンです、そして全てを理解し合い分かり合えた無二の親友を自らの手で処刑しなければならない日は確実に遣ってきます。処刑の当日はその親友ともいえる刑務官も立ち合い最後まで彼の死に様を見届ける事が処刑される彼に対する最大の敬意だと信じて彼の処刑を最後まで見届けました。ちなみに最終巻の8巻は

サイドストーリー的な番外編の様な話になって要るので

実質的な最終巻は7巻までとなります。

そして全巻一通り読んだ後の読後感かは非常に死刑と言うテーマを扱いかいながらも

何処か暖かで爽やかな不思議な気持ちにさせてしまう読後感がありました。

又、これはドラマ化もされております

以前はアマゾンプライムで見る事が出来ましたが現在は見る事は出来ません。ご興味を持たれた方はまずはコミックスをご購入してみると良いと思います。

最後になりますが遺族と被害に遭われた方々のお悔やみと御冥福をお祈りいたします。

本間義昌でした。